暗闇のエーテル(第13章 ヨルシュマイサー)
一年後、ぴっぴは燃料切れで動かなくなったラインマーカーを手で押しながら歩き続けている。
綿毛は三ヶ月ほどですっかり撒き終わり、ぺしゃんこになった麻袋には空のウォッカの瓶と募金箱、ぼろぼろになった地図が入っていた。
キコキコ…キコキコキ…
錆び止めを施していないマーカーは途中の雨風に晒され、すっかり錆び付いていた。車輪はがたつき、普通に歩くよりも時間がかかる。それでもぴっぴはマーカーにじっと視線を集中しながら歩いて行く。日が高くなると腰に痛みを感じた。体勢を起こし、顔を上げる。
「うーん…」
目をぱっちり開くと見覚えのある風景が広がる。肌に触れる風が以前と変わらず心地よい。目を瞑り耳をすませると風の音に混じり微かに波の音が聞こえる。目をゆっくり開けると遠くにゼリービーンズのパラソルを見つけた。ファロス島へ続く道だ。
やはり海は見えなかった。しかし本当はその先が海である事を知っている。ぴっぴは何を考えているのか、パラソルを見つめたまま足を一歩踏み出した。
辿り着くと日差しで以前より色あせていた。
バタバタバタバタ…
強風に耐えながら、相変わらずぶっきらぼうに地面から生えている。
「このむこうに、とうだいがあるはずです。」
カラカラに乾いた喉をごくりと鳴らし目をぎゅっと瞑る。
バタバタバタバタ…ゴーーー…
風が止む事なく吹き続けている。灯台の方向に顔を向け、ばちっと目を開く。ぎらりと太陽の光が目に入り、目の前は白くなる。ぱちぱちと瞬きをすると、叙叙に色と形が戻ってくる。岬の上に、以前と変わらず小さな灯台が乗っていた。
「あった…ありました…。」
灯台を力強く睨むと緊張が少し緩む。じんわりと目頭が熱くなるのを感じ、へなへなとその場にしゃがみ込む。
「ぴっぴのみたものは、まちがってなかったです…。とうだいは、ありました。」
・・・
灯台に着くと、ドラム缶から湯が溢れ出し、灯台守がいつも食事を用意してくれた竃と網もそのままだった。初めて来た時と同じように、ドラム缶のお湯で顔を洗った。
「うーきもちいいです。」
顔を袖でなんとなく拭い、港を眺めると遠くの砂地を船が進んでいる。
灯台に入るとテラスに上がり眼下に広がる砂の海を眺めた。消しゴムのような漁船も変わっていない。
室内に戻ると螺旋階段を降り、ダイニングで椅子に腰掛けた。無線室も寝室もそのままだ。
「はじめのひ、おじさんがここでおこっていました。」
嬉しそうに灯台守と初めて会った日の事を思い出す。しかし直ぐに顔が曇る。
「おじさん…どこにいるんでしょ。」
灯台守の姿がどこにも見当たらない。辺りをきょろきょろと見回す。
「すこしでかけている…だけです。」
建物を出ると港の見える岬に座り足をぶらぶらした後寝転んだ。鳶が無限大の記号を空に描き飛んでいる。
・・・
灯台守は中々現れない。とぼとぼと灯台の中に入り、食事をする椅子に腰掛ける。夕闇が迫り部屋の中は薄暗くなってゆく。強風が灯台の窓に叩き付け、窓がガタガタと大きな音を立てる。
「さいしょから、だれもいなかったんでしょか…。」
大好きだった灯台が亡霊の住処のように感じる。ぴっぴは椅子の上に体操座りをし、小さく丸まって縮こまる。突然ランプが点灯し、無線室から音がする。
「ザーーーーーーー…こちらポッペン丸、応答せよ。こちらポッペン丸、ただいま海が濃霧によりすかい不良である。灯台の方向に明かりが見えないが故障か、応答せよ。」
ぴっぴはうさぎのように耳をピンとする。
「ポッペン…」
立ち上がり無線室に駆け込む。あの若い青年が実在している。ぴっぴは受話器を取ると応答する。
「ポッペンさん!ぴっぴです!レンズをつくっていたぴっぴです!きこえますか!」
無我夢中で喋る。霧の状態が解らないが雑音ばかりが聞こえる。
ザーー…
ぴっぴはごくりと唾を飲み込む。
ザーーーー…
無線の応答音がする。
「ぴっぴさんお帰りだったんですかい!よかった、わしも無事に港に戻りたい!詳しい話は戻った後だ。ぴっぴさん、あんたの灯台に灯を入れてくれ。」
嬉しくて声にならない。ぴっぴはうん、うん、と頷き
「はい!ぶじにかえってください。」
と告げた。
「…ザーありがとう。ぴっぴさん、大きな魚を沢山もって行くからな。」
電源部分を確認するとタイマーが故障していた。手動に切り替えると霧の中、ぴっぴの灯台が優しく灯る。居ても立ってもいられずポッペンを迎えに港へと走った。
船着場に着く頃には息が切れていた。
「はぁ、はぁ...」
顔を上げると遠くの方から薄ぼんやりと漁船が見える。やがて姿を現すと船体にポッペン丸と書いてあるのがはっきりと見えた。ぴっぴは大きく手を降る。
操縦席からポッペンが顔を出し力一杯手を振り返した。着岸するとポッペンは船から飛び降り、ぴっぴを抱きしめた。
「お帰りなさいぴっぴさん、ずっと待っとった。」
ポッペンの服から潮の香りがする。海の男は生命力に溢れ、熱い風呂のような刺激が全身に走る。
ぴっぴの腕を掴み体を立て直すと、悪戯坊主のようにニッと白い歯を見せた。ぴっぴと別れた時より幾分歳をとってはいたが、確かにあのレンズを交換した時の面影がある。ぴっぴは照れながら自分の鼻の皮が剥けかかっているところを擦る。ポッペンは着ていた上着をかけてあげる。
「さぁさぁ、ファロス島の夜は冷えるってな。うちで暖まってってくだしぇ。」
ポッペンの家には大きな暖炉があった。ぴっぴが去った後結婚し、一児の父となっていた。妻ターニャはぴっぴにカサゴのブイヤベースをふるまう。
「疲れたでしょう。少し塩っからいかもしれませんけど。」
優しい香りに、緊張していたぴっぴの心は溶かされる。鼻をすすりながらブイヤベースに口をつけた。
「ところで、どうされていたんす?」
ポッペンはさぞ楽しい旅であったのだろうと暖炉を火掻き棒で均しながら、期待に胸を膨らませ話しかける。ぴっぴはあったことの全てを口にしようとしたが、ポッペンの嬉しそうな顔を見ると躊躇した。そしてブイヤベースを見つめぽつりと呟いた。
「ぴっぴのめは、みえないのがわかりました。」
ポッペンもターニャも予想外の言葉に顔から笑みが消え、ぴっぴの顔を見る。ぴっぴはブイヤベースを見つめている。
暖炉がパチ…パチパチ…と音を立てた。
それからポッペンは炎を見つめたが、落ち着かず直ぐさま薪を火掻き棒でつついた。火の粉が上って行く。そして慎重に話始めた。
「わしにはぴっぴさんの気持ちは容易には解らん思うけんど、いつかぴっぴさんとレンズを灯台にはめた時、本当にありがたいと思いやした。前の職人が突然姿を消してしまったんで、あの灯台もじきに終わりやと思うとったんです。」
ぴっぴは目を丸くする。ポッペンは尚も話を続ける。
「わしはぴっぴさんのように器用にレンズを削れん。例え削れたとしてもいざ光を灯した時に光が飛ばんかもしれん。ぴっぴさんが新しいのをこさえてくれて、わしらは本当にくいっぱぐれんですんだ。ぴっぴさんはわしらの事いつでも見とってくれる。そう思って今日まで仕事してこれましたんじゃ。」
そう言うとポッペンは優しい顔でぴっぴの方を向く。ところがぴっぴの凍り付いた顔に気づく。
「わし…なにかいかんことでも…」
ぴっぴは恐る恐るポッペンに訊く。
「…ヨルシュマイサは…ぴっぴのオッショさんは…?」
ポッペンにはぴっぴの言っている意味が解らない。
「ヨルシュマイサ…?はて、前の職人はそんな名前ではなかったとですが。そげな人おりましたか。」
ぴっぴの頭の中でヨルシュマイサーは振り返り、微笑を浮かべるとふわりと消えた。右手からスプーンがするりと抜け落ち、床に落ちる。
「…そうですか。」
ぴっぴはそれっきり黙ってしまった。暖炉がパチパチと音を立てている。ポッペンとターニャが心配そうに見守る。ポッペンがターニャの方を向くと彼女は静かに首を横に振り、それから優しくぴっぴに語りかけた。
「ぴっぴさん、またレンズを造ってくださいますか。」
その言葉を受け止められるのかわからないままブイヤベースをすする。温くなったので塩辛さが増している。きょろきょろと目が泳ぎ、俯くと正直なところを答えた。
「…ぴっぴはいくところがないんです。」
ポッペンもターニャも悲しい顔をする。
「灯台まで送りますよ。灯台守はどうせまた、競馬場だら。」
ぴっぴは重く頷く。夜になり、チェコランタンを携え灯台に帰った。灯台守はポッペンの予想した通り、競馬場に行っていた。
・・・
翌朝からぴっぴは工房に行った。口数も殆どなく朝食をとるとそそくさと準備をし、出掛ける。灯台守はぴっぴの様子がおかしい事に気づいていた。しかし敢えて声をかけはしなかった。ポッペンだけは元気づけようと毎日ぴっぴの元を訪れた。
「ぴっぴさん、今日は大きなマトウ鯛が捕れたとです。一緒に焼いたのたべませんか。」
ポッペンは自慢げに鯛を見せる。ところがぴっぴはそれを見ようとはしない。
「ありがとうございます。でもぴっぴは、なんだかしょくよくがわかないのです。」
ぴっぴの顔は能面のように表情を失っていた。灯台守との食事も味気ない時間になった。ポッペンは雨で漁に出られない日は、レンズ工房を覗きに行った。そうっとばれないように作業場を覗くと、そこにぴっぴの姿はなかった。機材やレンズに手をつけた後はなく、ぴっぴはレンズを製作していなかった。
「どこさ行っただか...。」
教会堂へ行くと内陣扉の奥に見つけた。ぴっぴは薄暗い祭壇の前にしゃがんでいた。足音を立てないように近づくと、柱の影からそうっと様子を伺った。ぴっぴは膝をつき鼻の前で手を組むと、ぼそぼそと何かをお祈りしていた。
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