中村家御先祖についての一考察
当家のルーツについては、詳らかでない部分が多い。
中村家は、「近江屋」を屋号にした津軽藩の御用商人だった。文政年間(1818~30)の津軽長者番付(尾崎竹四郎著「新釈青森縣史 資料編」)では前頭筆頭に載った商家であった。
中村のもとの家名は、福原であり中世の頃は近畿地方の近江国(現在の滋賀県)を拠点にした武将(城主)だったというのが伝承である。
戦に負けた当家のご先祖は、津軽家に呼ばれて津軽地方へ来たという伝承もある。(圓明寺の下間節子さん談 何故どういう経緯で呼ばれたかは不明)
津軽地方まで逃れて家名を中村にしたと、代々言い伝えられてきてはいるが、史料等で近江国や琵琶湖周辺を拠点にした「福原」姓の武将(城主)や豪族は確認できていない。無名の地方豪族だったのかもしれない。当家の家紋「抱き沢瀉」紋は、武将に好まれたらしいので、伝承の一部を裏付ける。
抱き澤瀉
オモダカは「面髙」とも書き、葉の葉脈が高く盛り上がっているからとか、人の顔(面)くらいまで葉の位置が高くなるからと言われている。一方、澤瀉は「たくしょう」とも読み、沢は「山の谷筋」瀉は「水が注ぐ、流れ着く」の意味で、沢筋の水が沼、池、潟、湿地などに流れ着いている場所をさす。植物としてのオモダカが自生している場所である「沢瀉」が次第に植物自体の名前に変化していった。
沢瀉は水辺の植物で葉は武具の「鏃(やじり)」のような形状をして、三弁の白い小さな花を咲かせる。
文様としては奈良時代から使われており、鎌倉時代の「平治物語」「平家物語」「源平盛衰記」などの絵巻物に車紋や武具に使われた様子が描かれている。
武家に多く持ちいれられたのは、その葉の形状が鏃に似ており「勝戦草(かちいくさぐさ)」とも呼ばれたからともいわれている。
また、沢瀉威の鎧ということばもあって、「攻めても、守ってもよい」ということから勝ち草とよんだという。かの毛利家も副紋にこの「沢瀉紋」を使用している。 (立ち沢瀉)
津軽藩の成立は、津軽(大浦)為信公(1550年〜1608年)が、津軽地方の統一を成し遂げ、豊臣秀吉から津軽三郡の領有を認められた天正17年(1589年)にはじまる。筆者の憶測だが、御先祖が津軽地方に落ち延びたのはそれ以降かもしれない。
中村家の特に江戸時代以前の歴史については、菩提寺の浄土真宗大谷派法涼山圓明寺が過去三度の火災にあっている為、家系図等の文献が消失し、伝承、伝説の域をでない。天保年間までの中村家(福原家)の事跡は、残念ながら詳らかでない。
当家の菩提寺について
前述した菩提寺の浄土真宗大谷派法涼山圓明寺は、第56代天皇・清和天皇より9代の苗裔、源三位といわれ、源頼政の13代後裔にあたる念西房宗慶(下間右近佐宗時)が油川村(現青森市)に下着(げちゃく)し、1499(明應8)年に小さな寺を建立したことがはじまりと伝えられている。1585(天正13)年の外ケ浜平定の際には、津軽藩祖・大浦為信に味方した功により1606(慶長11)年、弘前寺町(元寺町)に移り、圓明寺と号した。しかし1649(慶長2)年には「寺町大火」で類燃し、1650(慶安3)年に現在地である新寺町に移った。
現在の本堂は明和元年(1764)に再建された。
青森県内の浄土真宗の本堂建築としては最古を誇り
当時の建築技術をよく現している事で平成6年に青森県重宝に指定された
源頼政の裔孫により建立された寺を菩提寺にしていることから、当家は源にゆかりのある家柄といえる。
ここに遠縁にあたる敷浪わたる氏が調査した「嶋屋・敷浪家の事績」(平成五年十二月)なる文献がある。(客観的に調査しているので信頼できる史料と思われる)この文献は、敷浪家一族(親戚)についてかなりよく調査をされ、敷浪家の親戚の一つとして中村家のことについても調べてあるので、この文献を参考にして中村家ご先祖についての考察を試みたい。
津軽古今偉業記「魚商近江屋忠左衛門」の項によると、弘前桶屋町角地の近江屋忠左衛門さんは、元は魚屋の手代(商家の役職の一で、会社組織でいう係長、主任クラス)であった。
天保末年(1844)頃に、この屋敷を桜庭弥太郎から求めて、独立自営した。ここは寛政年間(1789~1801)には、近江屋という豪商が居住していたので、忠左衛門さんは、それにあやかり近江屋を踏襲し、商標は「カネナカ」で中村姓を名乗った。敷浪氏の資料によると、忠左衛門さんの実家は福原家と書かれている。
文政年間(1818~30)の津軽長者番付(尾崎竹四郎著「新釈青森縣史 資料編」)には、前頭筆頭として「中村久左衛門」の名が記載されている。系図によると忠左衛門さんの父である。
もとは福原姓であったが、いつの時点で中村姓になったのかは厳密な年(天保年間からなのか?文政年間からなのか?)などは不明である。当家の墓石には「近江屋」「中村氏」とあり、墓石の側面には建立した年と思われる「安政」の元号が読みとれるので、遅くとも安政年間(1854~60)には中村姓であることは確かである。
中村家は、長者番付に載るほどの豪商で津軽藩の御用達商人でもあったので、参勤交代には何百両か寄付したといわれている。
菩提寺である圓明寺内の墓地には福原家の墓がいくつか見られ、家紋も中村家と同じく抱き沢瀉紋である。
当家は、本家でなので商売などで必要とあらば他家にも苗字と紋を与えていたという(圓明寺の下間節子さん談)。
(ちなみに八戸に分家がある)
忠左衛門さんの長姉は、岩館斉藤家に嫁いで九十八歳の長寿を全うした。忠左衛門の次姉は、選ばれて御殿女中に昇ったらしい。御殿女中というのは、江戸時代、将軍家や大名などの奥向きに仕えた女中のことである。
忠左衛門妻つるさんは、山加呉服店花田家の姉嫁で、妹娘が伊藤長から入夫(民法旧規定で、戸主である女性と結婚して、その夫となること)して家系を継いだ。つるさんの婚礼の際は本朝坂に筵を敷きつめ、五段の餅を見物衆に配ったほどの盛儀であったという。
忠左衛門夫婦は、正直者で節約を旨とし、一家は何れも質素な衣服を纏い、本人は半天股引で一生を送ったという。忠左衛門さんの実家福原家は、圓明寺を菩提所としたことから、忠左衛門さんは檀家総代を勤めた。
藪谷家より入婿した音吉さん(明治28年(1895)8月28日没)が近江屋二代目を継いだ。二代目音吉さんは才知があり、本町や土手町の重立の気に入り、鮮魚も廉価多売した。後に味噌・油・荒物等も扱い、種油・荏の油・大豆等も買付けて卸売りしたので繁盛し、遂には一戸宇三郎と比肩するに到ったという。
分家を鯵ヶ沢に進出させて鮮魚を集荷した。
忠左衛門の長女をりさんには、こんなエピソードが伝えられている。夜中に急に起きだし、握り飯を作りはじめた。程なくして町で火事が起こり、その被災者に握り飯を配ることができたのだという。
忠左衛門さんの次女きよさんには、花田家より福太郎を入婿に迎えて分家させ、屋号を金福(近福)とし、赤石村大字大和田に居住した。
忠左衛門さんの三女ていは夭折したが、四女はつさんは後に敷浪家八世傳吉に嫁した。
はつさんは、文久二年(1861年)四月二十六日に出生したが、戸籍届出は習慣により元治元年(1864年)と遅れている。
末子忠次郎さんは、対馬甚助・すえの長女つる(母と同名)と結婚して分家独立した。
忠左衛門・つるの没年は不詳だが、圓明寺に墓所がある。また分家忠次郎の墓所も本家に並んで所在する。
慶応二年九月五日に、音吉さんに長男甚吉一世(忠左衛門から数えて中村家三代目)が誕生した(1925年大正14年9月24日没)。甚吉一世は文化人で、囲碁将棋を好み、家業を顧みなかった。甚吉一世には二男子と四女子が生まれたが、娘達は何れも物書きの才女で評判であったという。
その後に近江屋は火災に遭い、和徳町に転居したが、甚吉一世は家業を再興し得ず衰微した。文人墨客との交友を好み、自らも俳句に傾倒した。五重塔のある大円寺境内には、明治三十三年庚子年弥生の年号の「和徳米山連」十二名の句碑が存しているが、それには
「花の香や 日の出乃国ハ 夕紅し」
の句と「如遊 中村甚吉」の記名がある。
甚吉一世には、こんなエピソードが伝えられている。
甚吉一世は俳句の号をもっていたのだが、ある日「先生はご在宅でしょうか?」と人が尋ねてきた。しかし、そのような先生はいないと言って追い返したのだという。あまり先生と呼ばれるを好んでいなかったのかもしれない。
甚吉一世の娘はきささんが竹内家、後に阿部家に嫁いだが中村姓に復籍し、きくさんは八戸家に嫁いで、きみさんは盛永家に嫁いだ。本家甚吉さんの妻千代さんは福士家より嫁した。
中村本家四代目啓次郎さん(1966昭和41年4月14日没)は後に「甚吉」を襲名し(甚吉二世)、和徳町において箪笥・家具の製造販売で成功した(中村タンス店)。この地方では、それまでは、収納といえば行李や長持が主流であったため、箪笥の草分け的な店だったらしい。甚吉二世は箪笥職人をたばね、親分的な人だったらしい。子分には、地元選出の社会党の国会議員がいたようである。近所の子供を集めては将棋を楽しんだりしたという。子供の頃は鉄扇を持って走り回ったとか、また若い頃は、その当時で家を買える額のお金を3日で遊んで使い果たしたというのだから、豪快な遊び方をしたのだろう。この頃は蔵が七つ程あったらしい。
甚吉(二世)爺さんは、タケ婆さん(1985年昭和60年8月23日没)と婚姻し長女・芳江が誕生したが中井家に嫁いだので長男亨(筆者の父)に中村家を継がせた。
甚吉(二世)爺さんの死去により家業を廃し、タケ婆さんは中井家に身を寄せた。
中村本家五代目にあたる亨(天燈山佛母寺開基で壺月遠州流禅茶道宗家 宗家三世)は、2005年平成17年11月21日に没した。
次男は横浜市南区に居を構えている。
筆者の中村本家六代目にあたる隆太郎は、壺月遠州流禪茶道宗家を引き継ぎ、宗家四世として茶道の普及と教授活動を行っている。
御先祖様については、中世の頃などわからないことが多く、引き続き調査をしていきたい。