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「ホニャララ教」にモヤモヤした話。

1

スヤスヤ教のツイートが流行っていた先週。


冗談として笑っていたけど『ネルサレム』なる架空の場所が聖地になったときいてちょっとギョッとした。だんだん冗談では済まないような気がしている。


結構辛辣だけど、この記事では大切なことが書いてあるなって思う。


2
 さいきん編み編み教をつくろう!というようなツイートを見つけた。
 流行りに乗っかったネタだとはわかっているけれどなんだか金玉が縮む思いがする。(いや、金玉は付いていないんだけども)


 仲間内の冗談としてインターネットミームに乗った楽しいお遊びにすぎない。でもモヤモヤする。

3
 自分自身が没頭できる趣味や嗜好というのはある意味では「宗教」に近いと感じる時がある。それを大切にしたい気持ちは誰にでもある。

例えば、私は学生時代からApple製品のファンでずっと使っている。「30年来のApple信者だから」などと自称することもある。
とはいえ自分の場合、信者を増やそうとも思わないし、仲間が欲しいとも思わない。
自分はそれが好きでこれまでずっと使っていて、好きでいるかぎりこれからもずっと使う。自分と共にあるモノを愛している表明として意味したい。



 話を戻す。

 趣味の分野を宗教と同等のものとして教義・禁忌・神獣・聖地・教徒を「ネタとして募集」するような話になると…なんだかな。(年寄りだからなんと罰当たりな…という印象がある。)なんでも乗っかって遊んでやろうとする度胸は買うけど、わかってやってるかはあやしい。宗教は苦しみと困難の歴史でもあるから分かってやっているならたいしたものだ。



 自然に触れて心が動いたり、人ならざる「何か」の存在を感ずることは自分にもある。
 古今東西あちこちで引用される、新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章の「はじめにことばがあった」ってやつは、こうした「何か」の存在を「言葉」にすることから「宗教が始まる」ということなのだと思う。
本来は形がないものから少しずつ宗教の形ができてきて、人が祈るための「神聖なもの」として寺院や絵画や教義といった形をつくるのはそのためだと理解している。
それに至るまでの人間の信仰はそれこそ命懸けだったに違いない。

 スヤスヤ教にしても編む編む教にしても、インターネットミームとして消費するのはネタがデカすぎる。
それをネタにするならもうちょい歴史を振り返ってほしいし、教義”をつくろう、なんてカジュアルに言葉にしたとたん全然違う新しい意味を持ってしまう。
やってる人たちはワイワイ楽しそうだけど私はそれがなんだか怖いのだ。(2)



4
 「教義」や「聖地」を語り合ってワイワイする感じにちょっと既視感がある。たぶん、オウム真理教を思い出させるのだ。日々教団の状況が明らかになり、荒唐無稽な事件と裏腹に、妙にフワフワと楽しそうな感じがあったオウム。珍妙で継ぎ接ぎの宗教パロディみたいな感じに見えた。
 このモヤモヤはその辺の記憶からくる危機感なのかもしれない。“信者”を集めるっていうのはつねに暴走の種を孕んでいる…。
 発信元に悪意があったわけではなかろうが繊細な問題であると思ったし、単純に不快だった。寝たけりゃ宗教問題持ち出さずに寝ろ…


それにしても本来スヤスヤ寝ている時間にまあまあ長文のテキストを書いてしまった。
 モヤモヤしてないで寝よ…




(1)簡単に派閥が生まれ、宗教戦争を生む。よく言われるのは「〇〇警察」みたいなことになりうる。(本当の宗教戦争と違って死人が出ることはなかろうけど)

(2)教義なんて簡単に決められるものじゃない。キリスト教だって教義のための公会議が何度も開かれたのだし、さまざまな宗教間の派閥の中では血みどろの戦争があった(現在進行形でもある)。

(3)covid19 以降よく見かける「目覚めた人」たちにも似たような印象がある。人間てやつは味わい深いなって思う。

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