シンコーシューキョー【きまぐれエッセイ】
シューキョーにハマってしまうあたしの友人たち。彼らはキョーソの言いなりになって、嬉々として動き、働き、キョーソのコトバを受け売りする。自分のコトバなんてものはない。喰って寝て垂れて動く、生臭いロボットだ。
こんなことができるなら、自分のコトバで話し、自分の頭で考えることだってできるんじゃないかって思うんだけど、彼らは違う。今度は、キョーダンの粗探しが始まる。ソシキに反発し、キョーギに疑問を持ち、そこを去る。そして、また別の依存できるモノを見つけて、そこにハマる。
そのプロセスはまるでデジャヴみたいだ。新しいキョーダンに入ると、またそのキョーソの言いなりになって動き、働き、キョーソのコトバを受け売りする。そしてまた問題が起こると、ぎゃあぎゃあ暴れて悪口雑言の繰り返し。
じぶんちゅうしんに世界がまわってる。ぐるぐるまわる。バカの無限ループだ。繰り返し、繰り返す。
シンリをもとめ、あちこちさ迷い歩く求道者たち。愚道者なり。
さて、この愚道者たちの行動について、少し豆知識を交えてお話ししよう。例えば、シューキョーの歴史を振り返ると、人々が依存するキョーソの存在は古代から続いている。古代エジプトのファラオも、その言葉は絶対だったし、ギリシャの神殿に仕える巫女たちも、神の言葉を伝える存在として崇められていた。
一方、キョーダンを去って批判する行動は、新しい現象ではない。中世ヨーロッパの宗教改革でも、多くの人々がカトリック教会の腐敗を批判し、プロテスタントとして新たな道を切り開いた。
結局、あたしたちは歴史の中で何度もこのループを繰り返しているんだ。キョーソの言葉に従い、反発し、新たな道を探し求める。そして、また新たな依存先を見つけて、その言葉に従う。
だからこそ、愚道者たちの行動を冷笑する前に、自分たちも同じループに陥っていないか、自問することが大切だ。シンリを求めること自体は悪いことじゃない。でも、その過程で自分のコトバと頭を失わないようにすることが、何よりも重要なんだ。
これが、あたしの考える愚道者たちの物語。何か共感できるところがあったなら、あたしと一緒にこのループを抜け出す方法を考えてみない?
常日頃から並々ならぬお心遣いをいただき感謝いたします。これからも変わらぬお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。