我が家の愛情物語 毒母のママ編
にょろちゃん。
にょろちゃんとお姉の私の母であるママは、間違いなく毒母というカテゴリーに属すると思う。
ママが毒母ぶりを発揮したのは、父が他界した1984年4月からだか、にょろちゃんとお姉がまだ幼児の時から、幼児なりに母親が言う言葉ではない。と感じることもあった。
毒母は、2011年1月に他界した。
死亡診断書には、死亡の遠因として、不安神経症と記載されていたがそんな疾患ではないだろう。
お姉はずっと、ママの死因は自滅。と思っている。
統合失調症やら境界性人格障害やらあっただろう。
2002年にアルツハイマーを発症してからの、毒母のにょろちゃんとお姉の私に対する暴力は、明らかに本当に殺すという意図のもとに行われていた。
アルツハイマーになる前から、
世間中に、自分の子供であるにょろちゃんとお姉のありもしない作り話の悪口を言いふらし、スッキリしていた毒母。
毒母の周りの人間は皆、自分の奴隷だ。
奴隷にならない人間は、友達ならすぐに切る。
家族でも同じだ。
毒母がアルツハイマーになり体力が落ちて、自分が産んだ子供のにょろちゃんとお姉の私を、いわゆる毒母の存在力というもので奴隷に出来なくなったら凄まじい暴力が始まったのだ。
父が1984年4月に他界した瞬間からお姉の私は、この人と、毒母を他人のように、肉親というより1人のおかしな人間として見るようになった。
なんと、父が息を引き取った瞬間から毒母のは、
相談する人がいなくなっちゃった。と連呼して泣き喚き続けた。
にょろちゃんとお姉の私は、自分の父親が亡くなったというのに全く泣いている暇、余裕はなかった。
この人、こんな時に何、頓珍漢なことを言って泣きわめいているのかと呆気にとられていた。
1分遅れたおばあちゃんは、毒母の実の生みの母親だ。我が家はいわゆるマスオさん現象だった。極めて幸せな家庭だった。
父の存在が大きかった。
おばあちゃんは父の亡骸にすがり、
パパ、起きて。
私が代わらなくてはいけない。
パパ、美奈ちゃんをKくんと結婚させなくてはいけないでしょ。
パパ、起きて。
と、義理の息子の父にすがり叫んでいた。おばあちゃんの顔が真っ赤でにょろちゃんもお姉も、おばあちゃんが血圧が上がりおばあちゃんも死ぬのではないかと心配して、必死におばあちゃんをなだめた。
この瞬間から、にょろちゃんとお姉の私のおばあちゃんの介護が始まった
当時のお姉には、同じ大学で同じアパートの住人だった婚約者がいた。彼を巡りその後、お姉の私は酷いうつ病とパニック発作を発病して、結局彼のお母様が何故結婚に反対されたのか、38年経った今現在も解らない。
彼は、お姉に予告した通りにその後、自ら命を絶った。1999年のことだ。
彼はさておき、おばあちゃんは自分の夫、にょろちゃんとお姉の母方の祖父を1946年1月に亡くしていた。終戦の翌年だ。毒母には2人の弟がいた。毒母は15才、下の弟の叔父は9才だった。
おばあちゃんは夫がおらず、毒母を結婚させることに非常に苦労した。また終戦後すぐで必死に働いた。
そのことがあり、お姉に婚約者が居て、自分より年下の義理の息子の父を見送ることで、おばあちゃんはがっくり弱ってしまった。毒母が自分と同じ苦労をするかと。実際には、メンタルクリニックの先生曰く、まるっきり3才児の毒母は、お姉の私が結婚したら1人では何も出来ない。1人では寂しくてたまらないから、お姉に結婚してもらっては困るのだ。
その通りお姉は独身だ。また毒母の娘だ。結婚には向いていないだろう。性格は、にょろちゃんもお姉も非常に芯が強く信念が強いパパに似たが。強くなければ、生きてこれなかった。
話を戻し、1993年におばあちゃんは特養に入所した。それが、ショートステイという名目だがずっと入所していて良いという、お姉の私は変な話だと初めから思っていた。
どうやら毒母が、にょろちゃんとお姉が知らないうちに、保健師や民生委員に自分の母親のおばあちゃんの老人ホーム入所をしつこく依頼していたらしい。
毒母はたとえ、自分の実の母親のおばあちゃんだろうが、人の世話は大嫌い。人の世話は絶対にしない人だったからだ。
故に、おばあちゃんの介護は殆どにょろちゃんとお姉の私がやった。80年代のバブル真っ盛りの頃、にょろちゃんとお姉にはバブルは全くなかった。
しかし、おばあちゃんが大好きだから、にょろちゃんもお姉の私も少しも苦痛とは思わなかった。
苦痛だったのは、毒母のする事成す事すべてだ。
特養に入所したおばあちゃんは、施設の職員から酷い虐待を受けた。
面会に行くと、かかりつけ医から処方して頂いた薬を全く飲ませていない。
寝ているおばあちゃんを、足で蹴飛ばす。
お昼は食堂で、おばあちゃんを車椅子ごとロープで全身をぐるぐる巻きにしていた。食事どころではない。おばあちゃんは、首をがっくりダランと下げた状態だった。
職員は、ショートステイだから連れ帰れと怒鳴る。
ずっと入所して良いのではなかったのか。と思ったが、このままではおばあちゃんはすぐに死んでしまう。
とにかく、おばあちゃんを自宅に連れ帰った。すぐににょろちゃんとお姉の私はかかりつけ医に、おばあちゃんの様子をお話しするために出かけた。
かかりつけ医はすぐに電話の受話器を取り、おばあちゃんを当時の老人病院に入院する事を決めて下さった。非常に嬉しかった。ありがとうございます。
おばあちゃんはすぐにも死にそうだった。脈が乱れ、自宅でも殆ど食事は出来ない。寝たきり。歩けたのに。柔らかく潰したイチゴ、柔らかい煮物をほんの少しだけ食べてくれた。煮物は毒母が作った。メニューはお姉が考えた。
毒母は疲れたと、かかりつけ医にも行かなかった。
入院したおばあちゃんは、まだまだ危ない状態だった。しかしお陰様で、それから回復して2年生きてくれた。
だが入院直後、にょろちゃんとお姉の私だけでおばあちゃんに面会に行くと、おばあちゃんは幻覚が見えていた。
そうしたら、病院の院長が病棟中に響き渡る大きな声で、にょろちゃんとお姉の私を怒鳴りつけた。
患者に治って欲しいということは、オマエのひとりよがりだ。
介護は、オマエの自己満足だ。
正論かもしれない。
しかし、にょろちゃんもお姉の私も、
介護はオマエの自己満足。
という言葉に、深く傷付いた。
パパが他界したのは、お姉の私が大学卒業後1ヶ月だった。
あの日から、毒母に振り回され気を遣い、毒母のせいで不当に怒鳴られることがたびたびあった。
ぎゅっと悲しみ悔しさを呑み込んで来た。
あれから9年の月日が流れていた。
しかし、この時はにょろちゃんもお姉の私も限界だった。
病院の駐車場の私の車の中で、にょろちゃんと2人で、
泣いた。
泣いた。
車のステレオのカセットから、元オフコースの鈴木康博さんのソロアルバム、singmodoをCDからカセットに録音したメロディが流れていた。
夏のアルバムだ。
中でも、まぶしすぎる季節という曲のサビのメロディが好きで、またヤスさんの声、歌い方も好きだった。
この時は悲しみしかなかったが。
小さいにょろちゃんは、がっくりしてやっとメロンジュースを少しだけ飲んだ。可哀想だった。
だがこの時、お姉はわかっていた。院長は、毒母が居なかったから怒鳴った。毒母に話しても仕方がない。ちょうど、にょろちゃんとお姉の私だけだったから怒鳴ったと。
以降、こういう事が何度あったか解らない。毒母の代わりににょろちゃんとお姉が怒鳴られる。怒られる。
無実で不当に。
皆さん同じだ。毒母に言っても仕方ない。
毒母に怒鳴れば角が立つが、にょろちゃんとお姉なら大丈夫だからだ。
その後保健師からは、おばあちゃんが死んでも特養に置いておかなくてはいけないと、また怒鳴れた。
おばあちゃんの命を何だと思っているのかと、腹わたが煮えくりかえったが、後にやはり原因は毒母だと解る出来事があった。
おばあちゃんの虐待から20年近く経ち、たまたま市役所でその保健師を見かけた。
にょろちゃんとお姉の私と保健師も解り、さっと視線をそらした。
また当時、特養の事務職員だった方に後に毒母のケアマネをお願いした。非常に良くして頂いた。
だがお姉の私の病気で、ヘルパーさん利用の初めの話し合いを地区の保健センターで行い、おばあちゃんの話を少し出したら、ケアマネはさっと下を向いてしまった。
保健師もケアマネも、やましい事がなければまっすぐに、にょろちゃんとお姉を見つめただろう。
父が他界してすぐに、メンタルクリニックの先生から、夫婦なら離婚できるが、母娘だからあなた方は一生苦労すると言われた。
その通りだ。
また、お母さんはまるっきり3才児だとも言われた。
その通りだ。
毒母がどのくらい無駄なお金を払ったか解らない。2億円くらいはある。
そして今、障害年金が貰えず生活保護かというにょろちゃんとお姉の私の暮らしだ。
ヘルパーやアメブロやらの酷いいじめもある。
毒母の話は尽きない。
偉大だった父亡き後、ひたすら苦しみ、耐えて努力して頑張り、
一生、ただただ真面目に生きて来てこの有り様だ。
生活保護になったら、お姉の私の病気ですぐに死ぬ。
にょろちゃんを死なせたくない。
お姉の私も死にたくない。
しかし無理なのか。
生きられないのか。
まるっきり犬死にだ。
父に申し訳ない。
生きたい。
にょろちゃんと2人で静かに。