パリ~ブレスト~パリ 2023 参戦記
はじめに(お詫び)
本記事は2023年冬のコミケで同人誌として頒布予定だった原稿本文です。
事情により本としての体裁にまとめることができず、note公開という形で供養する格好になりました。ご期待されていた各位にはこの場を借りてお詫びします。
序章
-フランス1日目-
15時間に及ぶロングフライトを経て、フランスはシャルルドゴール空港に降り立った。
1891年発祥の100年を超える歴史を持つ、世界一”格”の高いブルベ「パリ~ブレスト~パリ」(以下、PBPと表記)。パリからブレストの往復1200kmを制限時間以内に駆け抜ける挑戦のため、世界各国から6500人もの参加者が集う、4年に一度の大イベントだ。
今回私はオダックス近畿が日本ツアーサービスと連携した企画商品のツアーに申し込んでの参加。
お金は掛かるけど、そのぶん煩わしいあれこれをしたり考えたりせずに済むので不便が無い。こうして空港から貸切バスで泊地のドゥルダンまで自転車ごと移動できるのも大きなメリットだ。
ドゥルダンのホテルに到着。どっぷり深夜である。
さっさと寝たいところだけど、今のうちに輪行解除しないといけないらしい。かったるい気持ちを抑えて自転車を組み立てる。
私がこのPBPに選んだ相棒は、CRUZBIKE / V20 vendettaというマシン。リカンベントだ。以降は愛称のリカちゃんと表記する。
2019年大会でDHバーの長さが制限されていたことから、ロードよりリカちゃんのほうが有利だろうと判断しての採用だ。ただ、直前になってDHバーの長さ制限が撤廃になり、この優位が揺らいでいる。
ロードバイクよりもやや大柄になってしまうリカちゃんを飛行機輪行するために工夫は必要だが、どうにかオーストリッチ社製の空輸用輪行バッグ「OS-500」に詰め込むことができる。同じツアーの参加者から、よくそれがOS-500に入りましたねと感心されながらマシンが組みあがる。
リカちゃん、フランスに立つ。
これまでも北海道や四国、九州、そして沖縄へと日本各地へ連れ回したリカちゃん、ついに海外進出を果たした。感慨深いものがある。俺はこいつと旅に出る。ピカチュウ。
やるべきことは果たしたのでその日は就寝。
PBPウィークが始まる。
前日
-フランス2日目-
この日はPBP前日受付をする。
PBPのスタート地点であり受付会場でもあるランブイエは、ここドゥルダンから片道25km離れている。同じツアー参加者の多くは自走で向かったが、体力と機材の消耗を嫌った私や、他数名は路線バスでランブイエへ向かった。
よくわからない時刻表や利用方法に四苦八苦しつつも無事会場に辿り着く。
そこは自転車の楽園だった。
カフェテラスでくつろぐサイクリスト、ゆっくり石畳を進むグラベルロード、並べて停められているベロモービル、ロードを積んで走るキャンピングカー。
国名や国旗をあしらったジャージを纏った人も多く、実に国際色豊かで華やかだった。
受付を終えてドゥルダンに戻り、明日の予定を整理。明日のスタートは午後からだが、日本ツアーサービスとは別のツアー「グッディスポーツ」で申し込んでいるドロップバッグサービスの荷物預けがある。
荷物を預けるためには午前中にはランブイエへ行かなければならない。そんなことをしては寝貯めができない。
しかしその問題は日本ツアーサービスのアテンダントさんが荷物をまとめてレンタカーで持って行ってくれると提案を受けてあっさり解決する。なんと素晴らしいホスピタリティーなのだツアー会社様。
夜はツアー参加者全員でホテルのロビーで決起会を行って就寝。
いよいよ明日、決戦。
本番
-フランス3日目-
ドロップバッグをツアーさんに9時に預けて寝直す。ホテルの部屋は12時までOKになった。
目が覚めたら12時半だった。約束の時刻をぶっちぎっているが幸いにもお咎めなし。
出立のためリカちゃんをホテルの外に出して身支度をしていると、ホテルを出入りする宿泊客の視線を釘付けにする圧倒的存在感を放つリカちゃん。めっちゃ話しかけられる。ただでさえ珍しいリカンベント、しかも痛チャリ仕様。目立たないはずがない。ここでこの調子だと会場ではどうなってしまうのか。ワクワクしてしまう。
13時半にホテルを発つ。他の参加者より少し早い出番なのでソロだ。
自転車で右側通行の道を走るのはこの瞬間が初めてになる。
さっそく小回り左折で間違えて左車線を走ってしまう。気をつけないと。
パワータップの計測値がおかしい。体感1/3の数値が出ている。
較正し直しても較正エラーとなり直らず。パワー値は今回無視することにした。
ランブイエの街に入った。
最初の国際交流はイギリス人。道中軽く挨拶と会話をした。
会場に到着した。
スタートまで時間があるためか、まだ人もまばらで並木道の木陰で休憩。暇なのでTwitterのスペースでPBPトークに混ざるなどして暇つぶし。
やがてリカちゃん囲いができる。
「これはお前のバイクか?」
「写真OK?」
すごいぞ世界のリカちゃん。君は完璧で究極のアイドルになれる。
時間が経過するにつれて増える自転車、自転車、自転車の海。壮観だ。
それにしても圧倒的ハブダイナモ率。日本では珍しいが海外ではもはや主流なのか。
事前に申し込んでいた食事「ウェルカムミール」を食べに食堂へ向かうと、ようやくツアー参加者以外の知り合いatuhayaさんと出会う。
遠い異国の地で仲間との団欒。ひととき気が休まった。
PBPのトップバッター、A組スタートの時間がやってきた。
A組はタイム狙いのガチ勢が多くいるだけあって精悍な顔つきのランドヌールが首を揃えている。
ギャラリーの盛り上がりも最高潮。大歓声の中、2023年のPBPが開幕した。
A組の出走を見届けると、私のF組の整列が始まる。
PBPの出走順はA~E組が80時間制限のクラスで、F組は90時間制限クラスのトップバッターを務める。そしてF組はPBPの花形のひとつでもある。
その理由はスペシャルバイク…リカンベントやタンデムなどの特殊な自転車が出走する組であり、単純に珍しい光景を作り出すからである。
スペシャルバイクはF組の他に84時間制限の組もあるが、それは翌日早朝出走なので私はFを選んだ。
それにしてもF組の圧倒的注目度。浴びる視線の量が違う。
私がF組にいることは仲間内に周知されているので、何人もの知り合いからの出迎えを受け、スタート位置につく。
ついにここにやってきた。
スタートラインに立つためにお金もかけたし時間もかけた。
何かを成すためにはスタートに立たないと始まらない。
そしてスタートに立つことは、ゴールするよりも得てして難しい。
On your mark.
難しいからこそ
位置につくことの偉大さを噛みしめて。
抜けるような青空。
フレームに止まって翅を休めるトンボ。
熱を帯びる歓声。
自分にとっての初めてのPBPが
今、スタート。
◆◆
スタートしてしばらくはパレード区間だ。先導車を追い抜いてはいけない。
パレード区間のF組集団はすごい。
右を見ればタンデム、前を見れば三輪車、左を見ればベロモービル。遠くにトリプルもいる。
もはやサーカスのキャラバンだ。
マシンオタクにとって天国……もし地獄であってもここへ行きたい。この空間は亜空間となっている。そんな中でも引けを取らない愛機を駆って走れる。多幸感に溺れそうだ。
ああ、時よ止まれ。今が永遠に続いてくれないか。
パレード区間は終わり、走力でバラけ始める。
見渡す限りフランスの田舎道。本当に道端に向日葵畑なんかもある。ただ、ほとんど下を向いている。向日葵の時期は斜陽みたいだ。ちょっと残念。
俊足のベロモービルトレイン(数えきれない台数が連なって艦隊のようになっている)が前へ。下り坂で勢いをつけ一瞬で点になる。登りで抜き返す。
抜きつ抜かれつを繰り返した挙句、なかなか追いつけなくなり最終的に初めて遭遇した信号で引っかかって分断されてしまった。
その先でミスコースもしてベロモ軍団を追走するリカンベント・タンデムトレインに吸収される。
トレインの先頭を引っ張っているとPELSO乗りの男性が話しかけてきた。
「君とても速いね」
「ども」
それがベンジャミン……通称ベンさんとのファーストコンタクトだった。
脚が合うので自然とバディを組んでの行軍が始まった。
ベンさんとの行軍ではイタリアジャージのタンデムとロードとを交えて進んだ。しかしタンデム、ロードとは足並みが合わない場面が出始め、時と共に自然消滅して後方へ消えていった。
E組でスタートしていた知り合い、墨田Pさんをパス。
さらにその先でE組の巨大なプロトンに遭遇。
道を埋め尽くすプロトンを左からオーバーテイクする我ら。
対向からプジョーが片輪を思いっきり茂みに出しながら突っ込んできて怖かった。
ベンさんは時折横に並んでコミュニケーションを取るようになってきた。
名前は?出身国は?東京?CRUZBIKEいいね。
PBPは初めて?
この前仕事で東京に行ったんだ。去年はインドネシアにも行った。シンガポールも。
ハブダイナモはいいぞ。
ここの並木道は美しい。
リカンベントは何台持ってる?
俺はタンデムも持ってる。グラベルも。
ハンプ手前のハンドサイン(両肘を上下にクイクイする)は日本じゃメジャーじゃないの?
……………
………
こちらのカタコトイングリッシュにもめげず話しかけてくれる。
こちらも一生懸命答えようとしているのが伝わっているのか、好意的に受け取ってくれる。
「このまま一緒に行こうぜ」
「OK」
ここに友情が結ばれた。
「俺はできるだけ早く走りたい。24時間でブレストまで行く。そっちの作戦は?」
「アイバブノープラン。でもファストで走るつもり」
生意気な話だが、漠然と目標タイムがあるだけで、コントロールの名前や数や距離など何も予習していなかった。7月頃に一気に予習するつもりだったけど、同人誌制作にかかりきりになってそれどころではなかったのだ。
「もうすぐWPだ。最小限のストップにしたいけどそっちは?」
「水とトイレかな」
WPに到着。早速ギャラリーから注目を集めるリカちゃん。
「ジャパニーズ?」と第一声から尋ねられるのはさすが痛チャリと言ったところか。
このとき、私はここがコントロールだと勘違いしており、スタンプを求めてしばし会場内を彷徨う。
勘違いに気づいてベンさんの元へ戻ると「じゃあ行こうか」といった感じで反射ベストを着こみ、ライトを灯してリスタート。リスタート時にちょっとかっこつけた乗り込みをしたらベンさんにウケた。
ここまでグロス30を超えるペース。信号が無いとこんなにも速い。
200kmで初めてのコントロール。水くみとトイレを済ませる。
往路復路とも通過するコントロールで、特別盛り上がりの激しいコントロールだ。
風船人形が踊り、陽気な音楽が流れる。
ベンさんは「フレンチミュージックw」とコメントしていた。
◆◆
夜道をひた走る。
我らがリカンベントトレインは次々とロードをパスしていく。
それにしても自転車が途絶えない。遥か先までランタンルージュが帯になって流れる光景は圧巻だ。
ずっと何もない田舎道だが、道中自転車形のイルミネーションが随所にあり、ベンさんと一緒にビューティフルと感嘆しながら楽しんだ。さすがはPBPだ。
「次のコントロールは学校なんだ」
学校に着いた。
良いペースだし食事をしようとベンさん。まさか飯を食うと思ってなかった私は財布を自転車に載せたまま来てしまったので「アイハブノーマネー」と伝える。
しかしベンさん「ノープログレム」と即答しサンドを奢ってくれた。
「ありがとう!」と感謝すると
「君の脚への褒美だ」とクールな返し。やだ惚れそう。
コミュ力の高いベンさんは相席した人にも話しかける。
その流れで「彼は日本人で一緒に走ってるんだ」なんて紹介してくれる。
すると相席した人が「日本人」に鋭く反応。
よく見るとAJ(オダックスジャパン)のジャージを着ているではないか。
彼は英国人のキアナン・パトリックさん。普段は日本で暮らしていて、西東京などのブルベに出ているそう。富士山一周のやつにも出走したとか。
どこに住んでるの?と聞かれたので「神戸」と答えたら「それじゃあオダックス近畿だね」と会話が続き、パトリックさんはベンさんに「オダックス近畿はすごく大きいブルベのクラブなんだよ」みたいに会話に花を咲かせていた。
後日談であるが、パトリックさんは日本語堪能だそうな。ここまでの会話、全部英語だった…。
食後、トイレを済ませて水くみ場を探す。
すると「Water→」の案内の示す先は「WC→」と同じ。そしてトイレの手洗い場にボトルを持ったおっさんらの列ができている。
え。トイレの水を飲めと?大丈夫?
のっぴきならないのでトイレ水を補給。
不安を抱えつつリスタート。ちなみに結論から言うとトイレ水の健康への影響は杞憂だった。
次のコントロール、タンテニアックに到着。
ルデアックと間違えてツイートして、日本でROMってる知り合いのふぃりっぷさんに指摘される。恥ずかしい。タンテニアックではスペシャルバイクはロードとは別の柵へ隔離される。
-フランス4日目-
リスタート。
日の入りは21時と遅いが日の出も7時と遅い。ので、まだまだ暗い。
ベンさんは「PBPの夜明けは美しいんだ。期待して」などと話しかけてくる。
しかし霧が立ち込め始める。濃霧というほどではないが視界100mほどの霧の中、街灯の無い夜闇を進む。
途中、照明に照らされたポイントが出現。何だろうと警戒しながら近づくとフラッシュが焚かれた。どうやらオフィシャルのカメラマンのようだ。しかしフラッシュの瞬間霧でホワイトアウトして怖かった。
結局、霧が晴れないまま夜が明けた。
ベンさんと「残念な朝だ」と肩を落とした。
未明から夜明けにかけて寒さは大したことなかった。ただ、霧で体とマシンの表面に湿り気を帯びることになった。
◆◆
ベンさんが遅れがちになった。
登りで離してしまうらしい。何度か待っていたけど、途中で襲来したロード軍団とバトルしているうちに遥か後方へ離してしまった。
単独でルデアック到着。ここでもスペシャルバイクは隔離。
個人的には早く進みたいが、ベンさんと何も言わずに今生の別れになるのは嫌だし、一緒に行こうと言われたら断れないのでレストランで食事をしてベンさんを待つ。
ルデアックにはドロップバッグもある。というかブレストにあると勘違いしていた。
ドロップバッグで装備を整えているうちにベンさん到着。
ベンさん「僕はここにドロップバッグがあるしちょっと休みたい。君はどうする?」
「クイック」
「わかった。頑張れ」
そう言って二人ハグをしてお別れをした。
さらに手作りの補給食も譲ってくれた。オートミールとチョコとコーヒーとあと何かを混ぜて成型したバーだ。美味しいし食べやすかった。
必ず、パリへ。
◆◆
ルデアックから先の道は平坦が減り登りか下りが多くなった。リカには厳しくなっていく。
ほどなくしてコントロール…ではなくWP。さくっとパス。
ここまで来ると、走っているライダーは上澄みばかりなのかオーバーテイクがかなり減ってきた。上り坂では抜かれるようにもなる。
ブレスト前のコントロール到着。
約1キャノボ終了だが半分終わっていない。つくづく1200kmとは長い。ただ、信号がほとんどないノンストップロードのため、タイムは19時間53分。奇しくもR1キャノボの持ちタイムと同じである。
ブレストを目指してもうひと踏ん張り。
ダラダラと長い登り坂を進む。勾配はさほどではないけどとにかく長い。
いつ終わるのか。たびたびロードに抜かれてしょんぼりする。
そうしていたら日本語で話しかけられた。
どなただろう…と思ったらB組スタートのHideさんだった。リアルで会うのは実に6年ぶりなので、すぐにはわからなかった。
「てっきり先を進んでいるものかと思っていました」と話すと、なんとHideさんは各ポイントごとに食事を堪能しながら走るPBP満喫プランで進行しているとのこと。ブレストではホテルを予約していてぐっすり休むつもりで、実に人権溢れるスケジュールを計画されていた。
軽くお話したのち、Hideさんは軽快にダンシングして先に登って行った。
遅れて自分も山を登り切った。
ここがPBPの最高峰、ロッコ・トゥルヴゼル。
広い広い青空。真っすぐな道。道路脇で待ち構える観客たち。朗らかな気分だ。たった384mの山なのに。
ダウンヒルではリカが速い。
下り切ったらいよいよブレストの街へ突入。そこそこ大きい都市だ。
久しぶりに信号機を見た。電動キックボードが40kphぐらいのスピードで爆走している。あれってアリなの?
コントロールはまだかまだかとえっちらおっちら走っていると、再び後方からHideさん登場。いや抜いた覚えないんだが。またどこか寄り道をしていたのだろう。
そのまま談笑しつつランデブー状態でブレストのコントロールへ到着。
ブレストのコントロールはやっぱり折り返し地点ということもあってか祝福感のある歓迎だった。まるでゴールしたかのようだ。いや、まだ半分なんだよな…。
自転車を停めたらおっさんが一人近づいてきて熱心に話しかけてきた。
「オーダーメイドのフレンチ・スチールバイクに興味はないか?」
どうやらセールスっぽい。
「興味はある。僕はステンレススチールバイクも持ってるんだ」という旨をカタコトイングリッシュで一生懸命伝えようとしたが、伝わらなかったらしい。
ムッシュは最終的に愛想笑いで去って行った。すまない。
スタンプを貰ったところでHideさんにレストランで食事を誘われた。
急ぐ旅ではあるけど、せっかくのお誘いだし日本語会話に飢えていたのでホイホイついていくことに。
HideさんはPBPの先輩でもあるのでいろいろヒアリングしてみる。
復路もこんな感じでアップダウンなんです?と聞いてみたら、ここからしばらく新コースだからわからないけどたぶんまたアップダウンかもねとの答えでしょんぼり。
あまりまったりするのもよくないので、適当なところでお礼を言ってひとりブレストを出発する。
24時間での折り返し。傍目から見ればなかなかの好タイムでの進行状況だが、ここからが試練の始まりだった―。
◆◆
暑い。フランスは午後16時ごろが一番暑い時間帯だ。
さらに言えば、今年のPBPは特別暑い中での開催となったらしい。前回大会経験者から散々「PBPの寒さには気をつけろ」と脅された状況とは真逆の事態である。実際、熱中症DNFが多発したようだ。
コントロールを出てからしばらくはブレストの街中を走る。海岸はちょっとしたリゾートっぽい雰囲気。
今思えば初めて見る大西洋だったが、このときはその発想に至らず、海だなぁ…泳いだら気持ちいいだろうなぁ程度の思考しか浮かばなかった。
名所?プルガステル橋で記念撮影。他の走者もだいたいが脚を止めて撮ってた。
橋を渡ってすぐのところには、おそらく地元の人たちであろう応援団が待ち構えていた。
青年が箱を抱えつつ片手を伸ばして待機している。ハイタッチかと思って手を伸ばすと、よく見たらその手に赤いものが。とっさの判断でキャッチ。
なんとそれはイチゴ!
そのすぐ後方にもイチゴを持った女性がこのアクションを見て手を伸ばす。
急いでイチゴを口にくわえてもう一個キャッチ。
ふたつとも落とすことなくイチゴを手中に収めた。あちらも嬉しい。こちらも嬉しい。お礼を言えずに申し訳ないが、イチゴは美味しく頂いた。
脚が重い。というか痛い。
思えばほとんど停止せずずっと踏みっぱなし。
日本でこのシチュエーションを再現できる場所は北海道ぐらいだろうか。未知の領域に突入していた。
この疲労具合だと長めの休憩が必要だろうか。
睡眠は夜が深まったルデアックかタンテニアック辺りが理想だったんだけど、どうしたものか…。と悩みながら走っているうちにシークレットのコントロール、カニウルに到着。
マシンを降りて一歩踏み出してみると、右足の膝裏に痛み。
これはマズい。痛みで庇う歩き方になっている。
とりあえずよくわからないパスタとコーラを買って食べながら今後のことを考える。
日没まではあと1時間ちょっと。睡眠はできるだけ夜間が望ましかったが、1時間程度ならやむを得ないか。よし寝よう。
パスタは意外と量があって食べきれなかったので少し残したままキープして仮眠所へ。
仮眠所は会議室程度の広さの一室に簡易マットが並べられていて、数人が寝ていた。
寝覚ましを2時間半後にセットして就寝。起きたときに痛みが和らいでいることを祈って。
◆◆
目覚ましのバイブが動いた。
痛みは少しだけ和らいだものの改善したとは言い難い。
辺りを見回すと、自分の以外のマットは撤去され、他に人は誰もいなかった。え、どういうこと。もしかして仮眠所の営業時間ぶっちぎってる?
のそのそと起き出して退室。
外のスタッフに大丈夫か?と心配されたので大丈夫だと答える。夜なのに仮眠所閉めるって変なの…。
そういえばこの仮眠所、お金は払ってなかったし請求もされなかった。日中のみの無料サービスだったのかな?
-フランス5日目-
起き抜けに残りのパスタを食べきる。
目は覚めているが予防的にトメルミン(眠気覚まし薬)も飲んでおく。
意を決して再スタート。
痛みに対応するためリミッターのかかったペースで我慢の展開。
登りか下りしかない意地悪な道が憎い。次々にロードに抜かされていく。
まあA~D組ばかりなので抜き返されるという表現が正しいか。
なんか抜くときより抜かされるときの方がマシンを見られる。二度見、三度見されるし、たまに声もかけられる。失速しキラメキに陰りがあるライダーに引っ張られることなく、リカちゃんはずっとスタァライトしている。
この夜は前夜よりやや寒かったので、防寒着代わりのレインジャケットを着た。防寒具はこれ以上必要になることはなかった。
カレーのコントロールへ戻ってきた。
持参した補給食だけではゴールまでもたないことが確実になり、タイムも諦めたので、ここからは積極的に食堂を利用することにする。
このコントロールは往路組とクロスするので、一度目に来た時と比べ物にならないほどの参加者でごった返している。
そして話に聞いていた通り、そこら中に人が転がって寝ている光景が本当に広がっていた。
入り口付近にも、廊下にも、食堂の床にも、横たわって気絶している人、人、人。感動的である。
とりあえずパンとパリブレストを買って補給。ほどなくしてリスタートした。
◆◆
7時。夜が明けた。二度目の朝だ。
このときルデアックに到達していた。
ようやく全体の2/3を走破した。残り1/3だが400km以上ある。
グーグルマップで見てもパリは遥か彼方だ。気が遠くなる。
まずはドロップバッグを取りに行く。ドロップバッグ内の食糧を全て取り出す。さらに二晩頑張って力尽きた前照灯を、満充電の別のライトと交換する。痛み止めも入れていたはずだが見つからない。
後日談だが、完走後にドロップバッグを回収して確認したら、バッグの外側ポケットに入っていた。惜しいことをした。
食堂へ移動し、コーラとバナナを買って、持参したベースブレッドと共に食す。
食後は催したので大をしにトイレへ。なんと便座が無い。
PBP…というかフランスの田舎ではよくあることらしい。どうすればいいかわからず、空気椅子で用を足した。
紙は幸いにもあったので、おしりふきの出番は無かった。
いろいろ整ったのでリスタート。
ルデアックからは先ほどよりはだいぶアップダウンがマシになり、徐々にペースが回復していった。と言っても、先ほどまでよりマシというだけで理想のペースには程遠いのだが。
どこの街だったかは忘れたが、E-bikeのシティーサイクルに乗ったマダムと抜きつ抜かれつを繰り広げた。
何度目か抜かされた時に、荷台の部分に搭載されているバッテリーをポンポン叩いてから「ごめんなさいね。私にはモーターがあるの(想像翻訳)」とドヤ顔されたので、私は「ストロング……」と答えて千切れた。
◆◆
タンテニアックに着いた。
さすがに往路組でまだここにいるのはギリギリ隊なのか、人はまばらだ。
一通り補給を終えて戻ると、恒例(?)の囲いができていた。
お約束の「お前がオーナーか?」から始まり「beautiful」などコメントを貰う。このマシンが一緒だとここまでたいてい「アーユーフロムジャパン?」と聞かれるのだが、この時だけは「台湾人か?」と聞かれた。台湾…?
囲いができてる様を撮りたいのでスマホを構えると、邪魔なのかと思ったのか全員退いてしまう。
ジェスチャーで「違う違う。集まって」と伝えると皆ニコニコと集まってポーズしてくれた。
「そいじゃ、パリ行ってくるぜ」と言ってタンテニアックを旅立った。
暑い。
肌が焼ける。
というか日焼けがやばい痛い。完全に火傷している。
スタート前に日焼け止めは塗っていたが、とっくに効力を失い、腕はUVガードのアンダーが守っているものの脚と顔面は容赦なく照り焼きになっている。
リカンベントは日差しを真正面から受けるので非常にきつい。日焼け止めを携行しなかったことを激しく後悔した。
坂を登り切ったところで私設エイドを見つけたので寄ることにした。
コーラとケーキとチョコを無心する。
エイドはかっこいいお兄さんと娘さんっぽい幼女が切り盛りしていた。
お礼に幼女にオダ近ピンバッジ(ツアー参加者のオダ近関係者から、返礼用にと預かっていた)をプレゼントすると、はにかみながら受け取ってくれた。かわいい。
◆◆
暑さは続く。
沿道でペットボトル水を配っているマダムを見つけて停車し、その場で全身に水を被ったりもした。
フランスのクルマは自転車を追い越すのが上手い。
日本よりはるかに無理な動きが少ない。
こちらが申し訳なくなるほどちゃんと機会を待つ。サイクリストとの間隔を1.5mとるように促す道路標識もある。
ただ、やっぱり人間なので全員がそうではなく一回だけ危うい追い越しをされてヒヤッとした。そのシーンを真後ろから見ていたローディーが「あいつ危ねー(想像翻訳)」とかなんとか言ってたのでこちらも手のひらを天に向けて首を振るジェスチャーをしてみせた。
フージェールのコントロール着。食事をとる。
そういえばここは例の学校だ。また便所の水を汲むのかと覚悟していたら、便所が閉鎖されていた。
代わりに外に給水器と仮設トイレが設置されていた。とりあえず便所水よりはいい。
ここでもリカちゃんには囲いが発生していた。すごい。
すぐリスタート。相変わらず暑い。
沿道の子供が水鉄砲をかけてくるのが助かる。助かるが、アイウエアのレンズにはかけないでほしい。
ここまでのペースダウンで目標からかなり遠のいた。
到着予想時刻を何度も計算し直している。ゴールは真夜中だろうか。明け方だろうか。解の無い不毛な計算をずっと繰り返している。
1018km地点、PBPのコントロールで最高潮の盛り上がりと評判のヴィレンヌ=ラ=ジュエルに帰還。
DJみたいな実況者がマイクで絶えず喋りながら、誰かが到着するたび観客と共に歓声を上げる。うちのリカちゃんも大ウケだ。
私の後ろから来たランドヌールは、降りてすぐ恭しく紳士スタイルな一礼を披露していた。とっさにああいうアクションが取れるのはすごい。きっとあれがヨーロピアン紳士なのだろうか。
パンを二つ買って食べてリスタート。もう夕方だ。
事前の走行計画が杜撰すぎて三夜目を全く想定していなかった。
ちょっと考えれば高確率で三夜目に突入することが想像できただろうに。しかもこのペースだと長い夜戦になることは必至だ。
幸い灯火類やサイコンのバッテリーは耐えられそうだ。問題は睡眠である。
どこまでいけるかさっぱりわからない。トメルミンも使ってしまったので頼れない。行けるところまで行くしかない。
ある町の出口近くに私設エイドがあった。
人恋しいのと、若干腹持ちに不安を覚えたので寄ることにした。
飲み物にコーラをおねだり。食べ物にバナナを頂いた。
自分は日本から来たんだと自己紹介したら、幼女がアニメ柄のTシャツを披露してくれた。
日本の有名なマンガキャラだったが、何のキャラだったかは忘れた。すまん。しかしジャパニメーションコンテンツのフランスでの強さはすごいな。
幼女は「チョコレートは好き?」みたいな感じで聞いてきたのでウイと答えると、キットカットと、同じくキットカットと同系統のホワイトチョコ菓子をくれた。
お礼にオダ近ピンバッジを渡したら「ワァー!」と大げさなぐらい喜んでくれて、なんだかいかにも外国人っぽい反応だなと笑ってしまった。
キットカットはその場で食べて、ホワイトチョコは「幼女様の恵み」としてゴールまで大事に運んだ。
また坂が多くなってきた。
かなり辛い。ロードに次々抜かれていく。
いったいこのペースだとゴールは何時間になるのだろう。
50時間台で戻りたいけどいけるだろうか。サラ脚なら間違いなく間に合うけど、この有様でペースが伸ばせるのだろうか。
MBB(ムービングボトムブラケット)構造のV20にとって低速時の登坂は鬼門だ。
10kph以下のジャイロ効果が乏しい状態で、高トルクを要求する登坂になると、真っ直ぐ進むことができない。
踏み込むたびに暴れるステアリングを腕力で抑え込むしかないのだ。1ストロークにつき二度、坂が続く限り繰り返す。
ほんの一瞬気を抜いただけで斜行してしまう危険な状態だ。
この不意の斜行は危険なだけでなく、膝関節がおかしな方向へ曲げられてしまい故障の原因にもなりうる。
サラ脚であればこの制御困難な領域は9%か10%ほどの勾配からとなるが、かなりダメージが蓄積していたこのときは5%の坂からすでに厳しくなっていた。何度か緊急的に足つきもした。
四苦八苦しながらの進行と裏腹に、今夜の夜空は晴れ渡り美しい星空が広がっていた。
リカンベントはパノラマビューなので満天の星空だ。
だいぶ前から前にも後ろにもライダーの姿はおろか、クルマも通らず、地上には自分の前照灯以外の光が無く、雄大な夜空とちっぽけな自分だけの世界になっていた。
流れ星もいくつか見えた。
ここが、今が自分の星空のメモリア。
星空に夢を願って。
Wish upon a shooting star.
必ず、パリへ。
◆◆
モルターニュ=オ=ペルシュのコントロールに着いた。
このコントロール直前の急坂で焦ってしまったのか、無理に踏み込んでしまった。
自転車を降りると右足のアキレス腱が痛い。初歩的なミスを犯してしまった。この故障がここから先の致命打になる。
残り100km。
このコントロールでゴールまでのエネルギー補給をとるべく食堂でボロネーゼを頼んだ。すごい大盛りで出てきてちょっと引いた。
お腹いっぱい食べたかったので少ないよりはいいけど、食べきれる気がしない。
もそもそとボロネーゼを食べていたら、食堂の中に見たことあるジャージを見つけた。関東や中日本のヒルクライムレースに行けばたいてい見かけるMIVROのジャージだ。
そういえばハルヒルのときに同行したひがさんから「MIVLOの早い選手がPBPに行くらしいよ」って話していたのを思い出した。彼がそうだろうか。
気になったので話しかけてみた。ひがさんの名前を出してみたけど面識は無いようだった。
彼はここまで寝ずに走ってきたけどここで限界が来たらしく、諦めて仮眠していくという。健闘を祈り、自分は先を急がせてもらう。
-フランス6日目-
アキレス腱の痛みが地味にきつい。
更に言えば座面と接する尻、尾てい骨のやや下の辺りにも擦れた痛みがあり、ペダリングや姿勢の制約がどんどん狭まっている。
スイートポイントに定まれば大丈夫だが、坂などでひとたび崩れると苦痛との戦いになる。
このままではアキレス腱がオーバーヒートしてしまうと危険予知したタイミングで脚を止める。
草むらに座り込んでアキレス腱を揉みながら時間を計算する。
現在、56時間が経過し、残りおよそ100km弱。グロス25で駆け抜ければ60時間切りできるが、この体たらくでは絶望的だ。
50時間台というひとつの壁を越えられないという現実に悲観してしまった。
それでも進むしかない。
マシンに跨り、発進しようとしたところで後ろから私の名前を呼ぶ声がした。
「Oh!ベン!」
なんと!ここにきてベンさんと再会した!
いくつか前のコントロールでトラッキングを確認したときは1時間半ほど後方だったが、こちらが失速しているうちに追いついたのだ。
再会できない可能性のほうがずっと高いと思っていたので、ものすごく感動した。二人で再会を喜んだ。
ベンさんに問われる。
「調子はどうだ?」
「脚が痛いんだ」
「OK。俺がついてる。一緒にゴールまで頑張ろう」
完全にお荷物になっている私を彼は見捨てなかった。こちらは一度見捨ててしまったのに。ヒーローはここにいた。
積もる話をした。
お互いの動静はどちらもトラッキングサイトで見ていたらしい。
ベンさんは2夜目に3時間寝て調子は整っているという。
こちらは痛みと戦っていることを訴え、CRUZBIKEの低速登坂がいかに難しいかを説いた。
痛みの話をしていると、ベンさんは私と別れた後に、痛みに悩むスウェーデン人と一緒に走っていた話をした。なんでもシャーマーズネック(※)になっていたらしい。リカンベントだったらシャーマーズネックにはならなかったのにねなんて言ってた。
(※シャーマーズネック:ロードの乗車姿勢で、首を前方へ上げた状態が維持できなくなってしまう症状。相当な長時間自転車に乗らないと発現しない非常に稀な故障)
そうこうしているうちにさらに問題が発生した。
睡魔が到来した。たまに意識レベルが落ちる。
トメルミンがもう一錠あればとこれほど後悔したことはない。
このとき新しい知見を得たのだが、意識レベルが低いとオートクルーズモードに移行するらしく、無意識に車道中央へ寄っていく。その様子を見たベンさんは日本の左側通行と間違えてるよと言う。その通りなのでぐうの音も出ない。
ベンさんを待たせたくなかったのでしばらく気合で耐えていたが、登坂で千切れてしまったので、待っているであろうベンさんには悪いけど脚を止めて路肩に停車して回復を試みた。
今思えば横になれば良かったのだが、そのときは何を思ってか、シートに跨って両足を地に着き、ハンドルにもたれかかって目を閉じて休むことにした。やがて意識は遠のき…
衝撃で目が覚めた。
立ちゴケしたのだ。そりゃそうなる。
路肩の草むらに倒れ込んだのでマシンは無傷だ。
一方でシートの鍔で右足のモモの皮膚を抉ったらしく痛みを感じた。
想像してほしい。火傷同然の日焼けをした皮膚を思いっきり引っ搔き抉った傷を。怪我の程度は浅いくせに驚くほどの激痛である。
おかげで一気に目が覚めた。痛いには痛いが、自転車で走る上では全く支障ない痛みなのも救いだ。前向きに考えてベンさんと合流。ごめん、眠かったんだと謝って先へと進む。
テントの灯りが見えた。こんな深夜でも私設エイドが営業しているPBPクオリティー。
私は最初これをスルーしたが、ベンさんが寄って行こうと誘い、一緒に休むことにした。
調子が芳しくない私への配慮だった。ベンさんはこんなときでも紳士だ。
「コーヒー?紅茶?スープ?」
スープをオーダーした。スープは変なパスタが入ってて、そのパスタがあまりおいしくなかったけど、温かかった。
「ケーキもあるよ」
美味しい。甘いものは大好きなのだ。
ケーキを食べているとベンさんが何かくれた。
「ペインキラー」
鎮痛剤だった。ヒーローすごい…。
5分寝ると伝えて仮眠を取らせてもらった。
私の目が覚めたところで私設エイドをお暇した。ありがとう。メルシーボク。
リスタートしてからも痛みとの我慢比べは続いた。
ベンさんは時折声をかけて励ましてくれた。あと何キロでコントロールだ。頑張れ。そんな異国の言葉が心の支えだった。
◆◆
前のコントロールを出てから78km。およそ6時間をかけてようやくゴール前最後のコントロール、ドルーへ到着した。
無限にも思える険しい78kmだった。
腰を据えて朝ごはん。パンとパリブレスト。
残りは40kmぐらいで、ベンさんの記憶ではアップダウンもかなり減るイージーなコースとのことで肩の荷が下りた。ここでも5分の仮眠をもらった。
目が覚めたのでリスタート。空は白んでいて夜明けはもうすぐだ。
「眠気は大丈夫か?」と聞かれたので
「明るくなったら眠くならない体質だから大丈夫だ」と答えた。
走り出してみると、先ほどまでより見違えるほどスピードが出せる。
鎮痛剤が効いているのだろうか。快復したペースにベンさんもにっこり。
日が昇り、朝焼けが開けた草原を黄金色に染める。
2日前の霧ではない、晴れて澄み切った朝だ。
瑠璃色の空。
黄金色の大地。
たった二色の世界。
あまりの美しさに二人酔いしれた。
日が出て気温も上がったので防寒具と反射ベストを脱ぐ。
道端で男性が応援している。その横には応援メッセージの書かれた看板が掲げられていたのだが、そこにはフランス語と英語と日本語で「ガンバレ」「おかえりなさい」と書かれていた!
嬉しくてベンさんに「ジャパニーズ!ガンバレ!」と言ってはしゃいでしまった。すると後ろから看板脇の男性が「ガンバレ!ガンバレ!」と声をかけ直してくれたので手を挙げて応えた。
後で知ったが、この男性は奥様が日本人で昼には私設エイドを開いていて、後続からやってきた日本人ランドヌールは日本語にホイホイ釣られていったそうな。
もうランブイエまであと少ししかない。旅が終わる。ベンさんが僕に問いかける。
「君の最初のPBPはどうだったかい?」
「ワンダフル!」
語彙力。もとい英語力が乏しくて申し訳ない…。
形容したい表現は無限にある。この夢のような体験を溢れんばかりの言葉にしたい。でも最初に浮かんできた英単語が精一杯だった。それでも気持ちはちゃんと込められたはずだ。今はこれでいい。
◆◆
ついにこのときがやってきた。
祝福の声に包まれた一本道。
3日前に潜り抜けたアーチの下に、いま再び立つ―
走行時間 63時間40分。PBPを完走した。
ベンさんと真っ先にハグをして喜びを分かち合った。本当にありがとう。ユーアーマイヒーロー。
深夜の到着だったらこの歓迎はなかったのかもね。怪我の功名か。
カードに最後のスタンプを押してもらい、悲願のメダル授与。感無量である。
それからベンさんとマシンの見せ合いをした。ライド中じゃできなかったからね。
ベンさんのPELSOは手組した中華カーボンリムのハブダイナモホイールがウリのようだが、僕が感心したのは手づくり?オーダーメイド?のフレームバッグだった。すごく出来がいいのだ。
ベンさんはCRUZBIKE V20に座ってみたいと申し出たので了承して座らせてみた。CRUZBIKE V20に触れる機会がなかったらしい。乗せてみるとかなり寝そべり角が深いと驚いていた。
そうしているうちに珍しいマシンに引き寄せられてギャラリーが集まってきた。
ギャラリーに頼み込んでベンさんとのツーショットを撮ってもらった。
うちのリカちゃんは大人気である。
なんかオフィシャルっぽいカメラマンがマシンを撮った後にスマホを差し出して「ここに入力してくれ」と言ってくる。見ると「Name, Number, Time, Country, Age」とある。全部入力して返した。何に使われるのだろう。聞き忘れたのはしくじったけどワクワクだ。
食堂に場所を移し、ごほうびミールを食べる。
かなり充実した品ぞろえだったけど、嫌いなラタトゥイユとかにノンノン言ってたら、ステーキとポテトとパリブレストとクリームチーズという茶色メインになってしまった。でもステーキはめっちゃ美味かった。
舌鼓を打ちながらリラックスして談笑。
ベンさんは過去のPBPを一張羅で走って完走後にジャージが臭くなった反省を生かして、ルデアックのドロップバッグでシャワーと着替えをしたんだと語り、それに対して私は「一張羅だよ。匂いは嗅がないことにしてる」と言って苦笑いを浮かべた。
近くの外国人ライダーが私を見て「インドネシア人か?」と聞いてきた。これまであのマシンと並んでいればたいてい「日本人か?」と聞かれてきたので驚いた。
あのマシンが無いから日本人とは予測できないだろうけど、それでも東アジアのどれでもなく東南アジアのインドネシアときたのは予想外だった。
後にホテルに戻って鏡を見て謎が解けた。そこにはインドネシア人がいたのだ。日焼けが酷すぎて人相が変わっていた…。
談笑は続き、これからどうするのと聞かれて、ホテルへ帰るけど25kmも離れてて億劫だなんて言ったり。ベンさんはキャンピングカーエリアに停めてるマイカーで休むという。
ストラバのアカウントを教え合い、「4年後また来るよ。そのときは会おうな」と言われ「4年後また来れるかわからないけど、でもまたどこかで会いたい」と再会を約束してベンさんとお別れした。素敵な思い出をありがとうベンさん。
◆◆
その後、その辺の草むらで寝転んで昼寝をし、暑さで目を覚まして25kmの道のりを牛歩で走ってホテルへ戻った。
走っている間、とにかく日焼けをさらに焦がす太陽光が苦しくて堪らなかった。
ホテルに着いた。DNF組がいたので帰還の報と戦果を報告し、ホテルの部屋へ戻って、ひとまずシャワーを浴びた。
出走前夜ぶり、およそ90時間ぶりのシャワーである。日焼けの痛みすらそよ風に思えるほど気持ちいい。
レーパンのパッドからはとんでもない悪臭がした。なにやら赤黒い固形物が付着していて、まさか排泄物かと焦ったが、尻の尾てい骨やや下部が擦れて擦過傷になっているのがわかって、この付着物が膿と血だと判明した。良かったのか良くなかったのかはわからない。
歯磨きも80時間ぐらいぶりにした。歯磨きシートは持参していたが、余裕が無さ過ぎて意識の外だった。
ようやく身綺麗になりそれから泥のように眠った。
日焼けの痛みで眠りが浅くなったのは悩ましかったが…。
ゴール後、快眠とは言い難いが、ちゃんとした睡眠を貪った私はその後、パリ中心地に赴いてオルセー美術館を見学し、最低限の観光は成し遂げて日本へ帰国した。
余談
ここでフランスの道、フランスのクルマ、PBPの応援について備忘録も兼ねて語る。興味が無ければ飛ばして構わない。ついでに言えばその次のエピローグも戯言しか書いてないので、ここで読了してもらっても構わない。ご清聴ありがとうございました。
文中でフランスの、フランスのと繰り返すが、あくまでもPBP期間中にPBPコース上で見た情報だけでの主観なので、フランス全土のことではないことを注記させてもらう。
フランスの舗装は日本よりかなり綺麗だった。危険な轍や裂け目、穴などほぼ無い。おかげで夜のダウンヒルでも安全に下れる。
信号が無い。
基本的にラウンドアバウトか丁字路だ。
信号は中規模以上の街中でないと出現しない。信号には停止線がないことが多くてどこで停まればいいのかわからない。信号が無さ過ぎて何百キロも延々とペダルを回し続けることになる。
これにより日本のブルベでは顕現しなかった故障に見舞われることがある。
今回の脚の痛みの原因の一つがこれだと思う。
日本でこの対策練習ができるのは北海道ぐらいだろうか…。難題である。
フランスのクルマ事情に移ろう。
クルマは日本並みに綺麗なコンディションの車体が多い。ボロボロでみすぼらしい車体との遭遇率も日本と同じくらいだ。
ブランドのシェアはやはり国産のルノー、プジョー、シトロエンが多い。ステランティス繋がりかフィアットもそこそこ多い。
トヨタも多くて流石だなと思った。日本車ではトヨタが多くて、ルノー傘下の日産が次点。たまーにホンダがいて、スバルは1台だけ見かけて、マツダと三菱は見なかった。三菱、ルノー傘下なのに…。
日本では見られないブランドではシュコダ、ダチア、セアトがたくさん見れて嬉しかった。
商用車はバンだと仏3ブランド&フィアットの四強で、トラックはIVECO、MAN、ボルボ、SCANIA、DAFなど多彩なラインナップだった。
大型トラックよりも存在感があったのはトラクターだ。大型トラック並みにでかいトラクターが結構な数走っている。しかもスピードも乗用車並みに出せる。これが農業大国の実力か!
意外だったのはEVがかなり少ないこと。たまにテスラを見かける程度で、日本より普及率低いのではないか。充電ステーションもどこにあったかわからない。FCVはパリ中心部に行くと二代目MIRAIのタクシーが走っていたのでそこそこいたと言える。
単車はあまりいなかった。たまに見かけても警察車両というパターンが多い。ちなみにヤエーの文化は無いようだ。
PBPの応援は、それはもう凄かった。
夜は道端に数々のイルミネーション。
昼は自転車のカカシや牧草を重ねて作ったモニュメント。地元の選手を応援してるっぽい看板。ロードペイント……創意工夫を凝らして東から西までずっと、どこまでも我らを歓迎している。
住民の応援も熱烈だ。なにもない道路脇にチェアとパラソルを置いて眺めてる人、街中のカフェのオープンテラスでお茶してる住民たち、通りすがりの人、全員がこちらを認識すると手を叩いてアレ!アレ!とエールを贈ってくる。
水鉄砲をかけてくる子供もいる。
塀のむこうでホームパーティーをしてる一団があるなと思ったら塀のむこうから大歓声がして驚いたときもある。
ハイタッチで大喜びする子供もいる。
手を前に伸ばしたのでハイタッチかなと思ったら手をパタパタさせて「uuuuuuu…」と唸り、横に並んだ頃にその手を挙げて「アレ~~!↓」と謎の声援をかけてきた子供は意味がわからなすぎて笑った。
クルマからの応援もすごい。
対向車からパッシングがあると、その運転手はみな手を振っている。クラクションは99%応援の意図だ。クラクションを鳴らした運転手の手振り率は100%である。中には後ろからやってきてランドヌールをパスするたびにクラクションを連打しつつ窓から全力で手を振ってひとりひとり応援していく騒がしいクルマまでいた。
そんな国賓のような熱烈応援体制が1200km昼夜問わずずっと続く。
完全に異次元空間の、夢の中のようなひとときがそこにはあった。
エピローグ
ゴールタイムの63時間40分09秒は、非公式のまとめサイトによると、エントリー者6,749人中354番目、日本人では3番目のタイムだった。こうして見るといいタイムだけれど、理想とは程遠い有様だった。
――自分が自転車をやめるとしたら、どんなときだろう。
長い間自分に問いかけてきたことだ。
もし体力が衰えても、きっとやめない。
もし同好の士がいなくなっても、きっとやめない。
もし車体の価格が青天井に高騰しても、きっとやめない。
もし五体不満足になっても、パラサイクルで続けるだろう。
もし寝たきりになっても、コレクターとして続けるだろう。
自分でも異常な執着心だと思う。
では、何があったらやめるのだろうか。どうして今までもこれからも自転車をやっていくのか。言葉として表せる答えを長年持ち合わせていなかった。
帰国後、PBPでエゴサをしていると、Global Cycling Network(GCN)という国際的に知名度の高い自転車系ニュースサイトの投稿に辿り着いた。
「Weird and wonderful bikes at Paris-Brest-Paris」
PBPの奇妙でワンダフルな自転車という特集記事だ。その中で「カートゥーン装飾されたCRUZBIKE V20がいた」といった趣旨で紹介され、トップ画像に採用されていたのだ。
驚いて笑いながらシェアすると、自転車仲間の皆から大ウケした。
「PBP最大の戦果」
「実質優勝」
「COOL JAPAN!」
ストラバ経由でベンさんからも「GCNの記事になってるぞ」とコメントが届いた。
エウレーカ。ようやく答えが出た。
自分はなぜ自転車に乗り続けるのか。その解を導き出せた。言語化に成功した。
それはちょっとクサい言葉になったし、おそらく理解されないだろうからここには書かない。それでも、わざわざ遠くフランスの地を旅した価値がちゃんと生まれた。
期待にそぐわないタイムでも問題ない。自分はちゃんと、自分らしいPBPをやれていたのだ。
渡仏前は、PBPは一生に一度でいいかと思っていたけど、今は4年後を意識してしまう。
4年後のことはまだわからないけれど、きっと、また。
END
2023.12.31 by nYolo
STRAVA: https://www.strava.com/activities/9703786108
2024.01.03追記
今回note記事公開という形でPBPレポートを供養するつもりでしたが、コミケの現地などでやっぱり本として出してほしいとの声を多く頂きました。ちょっと検討します。ただ、C104は他にやりたいことがあるので間に合いません。気長にお待ちください。