勝手に起きてこないで、記憶
最近妙に、過去のことがフラッシュバックすることが多い。
これまでの人生を復習するかのように、小さなことから大きなことまで、ぬるりぬるりと脳裏を横断していく。なんでこんなことを思い出すんだろう。なんらかの悔恨があるのだろうか、それとも暇なだけなのか。
そう思うのは、それらが決まって夜の時間帯に起きるからだ。
たとえば娘の寝かしつけをしているとき、もっとも効果的なのは「寝たふり」をすることだ。携帯を見ることもできないし、何か別のことをすることもできない。暗闇の中でじっと、娘が寝付くのを1時間くらい待つ。この、現代社会ではなかなか生じ得ない「恐ろしいほど何もしない時間」に、過去の記憶が戸を叩く。昔親に連れられていった博物館、自転車で走行中にバイクにはねられた瞬間、友達との思春期ならではの諍い、何年も思い出しもしなかったワンナイトの相手。
湧き上がる感情は、懐かしさではなく、どちらかというと恐怖。なにせわたしは同窓会などでも「そうだっけ?」「なんだっけ?」連発の、見事に何もかも忘れている側の人間。しかしこのように一人の時間に思い出されるとなると、実際には忘れているのではなく、思い出したくないだけなのかもしれないと思い至る。
別にいやな思い出と思っているわけではなく、なんならむしろよい思い出のほうが多いと思うのだが、なぜだろう。もしかすると、出来事よりも感情が印象に残るタイプの人間なので、過去を思い出すという行為で当時の感情を追体験することが、負担に思われるのかもしれない。なんにせよ、少し怖いと思ってしまう以上、あまり心地よい時間ではないのだが、とにもかくにもほぼ毎夜、そうしたリバイバル上映が脳内で催され続けている。
もっと恐ろしかったのは、GW中に実家に泊まっていたときのことだ。娘が寝付いたあと、自分の時間を楽しもうと思い、寝室の隣にある部屋に移動した。そこは半分書斎、半分物置と化した微妙な空間で、手頃な机が置いてあるのだが、そこに座った時点で、「おお・・・」とたじろいでしまった。どういうわけか目の前に、NHKドラマ「軍師官兵衛」のガイドブックが置いてあるではないか。
軍師官兵衛は、岡田准一が主演した、2014年の大河ドラマである。少なくとも当時において深い意味はなかったのだが、私が大河ドラマの中で全編見ていたのは「江〜姫たちの戦国」(2011)と、この「軍師官兵衛」のみで、確かこのガイドブックも自分で買ったんだった気がする。
中をペラペラと見ると、「そうだったそうだった!」の連発。ストーリーも登場人物も役者さんも、そうだそうだ、こうだった。7年間一瞬も「軍師官兵衛」に思いを馳せたことはなかったが笑、見るとこうも記憶が蘇るものか。それと同時に、当時のことも残り香のように思い出される。それは「父の隣に座っている」という、それだけの単純な思い出だ。
私の中で大河ドラマといえば「父が好きなもの」。父は大河ドラマをここ数十年、毎年欠かさず見ている。だから「江」も「軍師官兵衛」も、父の隣でたまったま第一話を見ていて、おもしろいと感じ最後まで一緒に見たという背景がある。父が見ていなければ絶対に見ていなかった。大河ドラマといえば父なのである。
別に父はまだ生きているし、そんなに感傷に浸るようなことでもないのだが、そういえば父の隣でテレビを見るなんてことは、実家を出て以来一度もしていない。そしてこの先、そのような機会もなかなかないだろう。でも当時、それが日常的なことだった。「軍師官兵衛」のストーリーを、こうだったね、懐かしいね、と話せる相手がいるとしたら父だけだろう。このささやかすぎる記憶の、共有相手がいるということはなんと不思議なことだろう。家族って、そういう存在なんだ(=大切な存在と言いたいわけではない。そういう性質の存在なんだなと思っただけ。※大切というわけではない、と言いたいわけでもない)。
……とまあ、こんな具合に、本を一冊見つけただけでここまでエモくなれてしまう自分なので、思い出という思い出が重いのである。
そしてその部屋は「軍師官兵衛完全ガイド」なんて序の口であって、記憶のドアを片っ端から殴るようなアイテムがそのへんにあふれている。なにせ半分物置だから。フランスで買ったちょっとすてきな本とか、昔頓挫した韓国語の本とか、どっかでもらった安物のペンとか、そのすべてがスイッチとなってわたしの海馬だか大脳皮質だかをゆさぶってくる。しかも、時間は深夜である。室内にある冷蔵庫から聞こえる「ブーン……」という低周波が不安感を増幅させる(伝われ)。
深夜特有の静けさ自体も、わたしの精神をざわつかせる。わたしはかつては完全夜型で、原稿なども深夜1時をまわってから筆が乗ってくるようなタイプで「深夜しか勝たん」くらいの勢いであったが、最近は娘と一緒に早々に寝落ちしてしまうことが多い。いまや、朝一しか勝たん。そうなってみると、あれほど親しんでいたはずのこの空気も、妙に居心地が悪い。この深夜特有の静けさは、当然ながらあの頃のままだ。私は時間経過とともに少しずつ前の自分ではなくなっているのに、あたかも何も変わっていないかのように接してくる元カレのごとし(あくまで想像上の例えです)。
とにかくちょっとしたことで記憶が揺さぶられるのである。この日も、自分の時間を楽しむような余裕はもはや失われてしまい、布団に潜り込んだのだが、一度目を覚ました記憶たちは元気よく芋掘り大会に興じ、連鎖的に仲間の記憶を掘り起こしてしまう。脳内は収集がつかない事態に陥り、一向に眠れない。これは…一般論的にはノイローゼというのだろうか?笑 そんなときでも、娘の一定の呼吸音はわたしを落ち着かせてくれる。今は、娘のことだけを考えればいい。娘のことだけを考えていれば、人生におけるすべての選択がシンプルになる。率直に言って、自分の人生を生きるより、娘の人生を生きていたほうがらくだと感じる。
最近妙に、過去のことがフラッシュバックすることが多い。実質的に娘の人生(第二の人生)を歩み始めたわたしが、自分自身の人生の棚卸しをし始めているのかもしれない。なにせ人生は重すぎるので、いわばディスククリーンアップ、もしくはメモリの最適化をしているとも取れる。心地よい時間ではない。でももうしばらく付き合うことになりそうだ。
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