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国際紛争に関する研究、中東戦争 #01、イスラエル・パレスチナの基礎知識編

北アイルランド紛争について研究したことを踏まえて、今回はイスラエルとパレスチナを巡る国際紛争について研究することにしました。


具体的な目標を達成するため、ダニエル・ソカッチ氏の「イスラエル、人類史上最も厄介な問題」を底本に学習しています。

まずはイスラエル人・パレスチナ人に関する基礎知識を学習しておきました。

古代ユダヤ人の民族事情

ユダヤ人は元々アラブ人と同じセム系住民だったが、宗教がユダヤ教であったため(この頃のユダヤ教は旧約聖書やトーラーのような成文化されたものではない)中東地方で孤立していた。紀元前13世紀ごろユダヤ人はメソポタミアからエジプトに移るが、そこでエジプト王ファラオによる圧政に苦しめられる。ユダヤ人は伝説上の人物・モーセに率いられて脱出し、紀元前10世紀ごろカナン(今パレスチナ)にヘブライ王国を建てる。これは旧約聖書の「出エジプト」として伝説的な記録が残っている。

出エジプトの後、巨人ゴリアテを倒したという伝説上の記述がある人物・ダビデがユダ王国を建国する。ダビデの息子ソロモンはエルサレムに第一神殿を建設する。いわゆる「ユダヤ人ゆかりの地」とされる一帯はこの頃に定まったとされている。

ソロモン王の死後、ユダ王国はイスラエル王国・ユダ王国に分裂し、紀元前8-6世紀ごろに新バビロニア王国によって滅ぼされてしまう(バビロン捕囚)。ローマ王国が台頭するとさらにユダヤ人が迫害され、紀元前200年ごろには大半がカナンから脱出することになる。
新バビロニア王国がペルシャ帝国によって征服されると、バビロニアの捕虜・奴隷となっていた一部の人々はエルサレムへの帰国を許され第二神殿が建設される。しかしカナンから脱出した人々の多くは世界中に散らばりその先で定住する生活を送ることになる。

世界中に散らばったユダヤ人のグループは大きく3つに分けられ、欧米諸国へ向かったアシュケナジム系、イベリア半島=現スペインに向かったセファルディム系、中東諸国に向かったミズラヒム系があるとされる。バビロン捕囚からエルサレム脱出に至るまでの離散(ディアスポラ)の物語は「失われた10氏族」のような都市伝説にもなっている。

また、旧約聖書と呼ばれる今のユダヤ教の聖典が編集され成文化されたのもこの紀元前200年ごろとされている。

紀元前168-141年にかけてはマカベア家と呼ばれる人々がカナンを支配していたセレウコス朝シリア王国を打ち負かした、マカベア戦争が勃発している。ユダヤ人が祝う祝日・ハヌカーはマカベア戦争の際に第二神殿を清める儀式を行ったことを起源としている。

ローマ王国が台頭し始めるとローマはカナンを征服し、紀元前70年に第二神殿を破壊する。わずかに残った西側の小さな壁は「嘆きの壁」と呼ばれ、ユダヤ人の聖地となっている。ユダヤ王国は紀元前63年にはローマの属国となる。

ローマ王国は割礼・動物の生贄・第二神殿への巡礼などのユダヤ教の儀式を禁止したため、この時代からユダヤ教はラビを指導者とし律法・書物を重視する現在のラビ・ユダヤ教へと変容したとされている。エルサレムを除くイスラエル各地には小規模なユダヤ人のディアスポラが点在していたが、この人々はローマ時代の反乱に失敗し追放された人々の子孫であるとされている。

近代ユダヤ人の民族事情・パレスチナ紛争の根本原因


アシュケナジム系ユダヤ人はヨーロッパで資本制社会が台頭すると金融業などで成功し、ヨーロッパ社会での影響力を強めていった。ロスチャイルド銀行など、アメリカのユダヤ系大手証券会社などが著名な例となっている。

一方、経済的な成功への妬みや宗教の違いからユダヤ人は他民族からしばしば激しい弾圧を受けた。特に凄惨なのがナチスによるホロコーストであり、ナチス支配下の領土では約600万人のユダヤ人が殺害されたとされている。

ユダヤ人を巡る19世紀最大のスキャンダルが、1894年フランス陸軍大尉のユダヤ系フランス人・アルフレッド=ドレヒュスがドイツのスパイであると決めつけられ冤罪となった「ドレヒュス事件」である。小説家のエミール・ゾラ等フランスの文化人がドレヒュスを擁護したため最終的には有罪判決が覆るが、この事件は結果的にユダヤ人の民族自決運動を後押しすることとなる。


「ユダヤ人の主権国家」というヴィジョンが明確に文書化されたのは、ユダヤ系ハンガリー人の新聞記者・テオドール=ヘルツルが1896年に執筆した小冊子・「ユダヤ人国家」によるものである。ヘルツルはユダヤ人民族自決の運動をまとめ上げ、これを「政治的シオニズム」と呼称した。初期の政治的シオニズムにおいてはカナンだけでなく、アルゼンチンやケニアへのユダヤ人の移住等も検討されていた。

イスラエルの建国以前から、政治的シオニズムを支持する人々はイスラエルへの移住を試みていた。この運動は主に当時パレスチナを支配していたオスマン帝国から土地を金銭で購入し、そこに移り住むという形で行われた。

当時の政治的シオニズムを支持する人々は「労働シオニズム」という社会主義の影響を受けた人々が多く、これらの思想に基づいた農業キブツ運動やユダヤ人自衛組織がイスラエルの農村共同体の基盤となった。こうした農村共同体は「新イシューブ」と呼ばれていた。新イシューブは大都市テルアビブの前身となったほか、1929年パレスチナ移住を推進する組織「ユダヤ機関」の基礎にもなっている。ユダヤ機関の初代議長であるベン=グリオンはのちにイスラエルの初代主相にも就任している。

シオニズムの勃興からイスラエル建国に至るには、3つの複雑な外交事情が絡んでくる。第一次世界大戦中、イギリスはオスマン帝国と戦うための戦費をヨーロッパのユダヤ系証券会社から調達したとされている。それと引き換えにか、イギリスはパレスチナにユダヤ人国家を建設すること支持する「バルフォア宣言」を表明した。

一方パレスチナ周辺のアラブ人に対してはオスマン帝国への反乱を条件にパレスチナでのアラブ人国家の建設を支持する「フサイン=マクマホン協定」を表明した。

さらにイギリスはフランス・ロシア帝国との間で「パレスチナ・メソポタミアは戦勝終結後イギリス領とする」という密約(サイクス・ピコ協定)を結んでいた。

これらの矛盾するイギリスの外交政策がイスラエル・パレスチナ紛争の根本的な原因となってしまった他、ナチスによる民族浄化が激化したことで大量のユダヤ人難民がパレスチナに押しかけパレスチナのユダヤ人・アラブ人との武力衝突が発生し始める。

第二次世界大戦後の1948年、パレスチナに入植したユダヤ人は国連とアメリカの支援を受けてイスラエルの建国を宣言する。その結果パレスチナのアラブ人はヨルダン西岸・ガザ地区への移住や国外への追放を余儀なくされる。

イスラエルに対するパレスチナ人・アラブ人の反発は4回(ガザ戦争を含めれば5回)にわたる中東戦争の原因となる。イスラエルはアメリカの支援を取り付けることで中東諸国を牽制し、繰り返された戦争で占領地とパレスチナ人難民を生み出している。

パレスチナ人に関する基礎知識

イスラエル建国前後の歴史を整理するにあたって、まずパレスチナ人の出自と民族事情について整理する。

パレスチナ人は古来よりパレスチナに定住していた様々な民族・文化が混ざり合って生まれた民族であり、時代と共にマジョリティーとなる宗教は土着の宗教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教へと変遷し、言語もべブライ語・アラム語・アラビア語へと変化したとされている。パレスチナ人のマジョリティーが信仰する宗教はビザンチン帝国時代にはキリスト教、イスラム帝国時代にはイスラム教であったとされている。

また現代のパレスチナ人は旧約聖書以前の時代のカナン人・ペリシテ人の子孫であるともされている。「ペリシテ」はパレスチナという地名の語源にもなっている。

エルサレムの「岩のドーム」はイスラム帝国時代の692年に建設された。このドームはいわゆるモスクではなく、ムハンマドが天に昇った「神殿の丘」を記念したものである。エルサレムの「神殿の丘」を巡ってはユダヤ教においては神がアダム・イブを創造した場所である、イサクが子供を犠牲にしようとした場所である、モーセの10戒が収められた「契約の箱」が埋められている、ムハンマドが昇天した場所であるなどなど様々な伝説があり、様々な宗教・宗派ゆかりの地となっている。

オスマン帝国時代の1880年代、パレスチナの人口は約50万人、うちアラブ人は95%程であったとされている。オスマン帝国はこの時代にパレスチナの近代化に取り掛かり、道路や鉄道といったインフラが整理された。しかしこの時代になると国家民族主義が台頭し始めオスマン帝国の各地で反乱が起こり、パレスチナにも独立を掲げる汎アラブ・ナショナリズム運動が勃興し始めた。「パレスチナ人」というアイデンティティーはこの頃に誕生し明確化されたと考えられている。

汎アラブ・ナショナリズムはオスマン帝国だけでなく、パレスチナに新イシューブを建設し始めた政治的シオニストをも敵視していた。現在まで続くユダヤ人・パレスチナ人の対立構図は、近代化を経た2つの民族のナショナリズムの対立が元となっている。

次回の学習内容


今回は古代史から近代史までのイスラエル・パレスチナにまつわる基礎知識を学習し終えました。次回はイギリス委任統治領パレスチナ時代のイスラエル・パレスチナ史を深掘りした内容を目指してみます。

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