人生という名のドラクエ

・ビアンカかフローラか 

 以前美容院で見た『Number』(だったと思う)のコラムで、お笑い芸人の麒麟の川島さんが「ビアンカか? フローラか?」という、ファミコン・スーファミ世代の男子なら避けて通る事のできない至上命題について述べていた。
※恐らく下記の書籍だと思いますが、この記事を執筆時点では発売前ですので、あしからず。

 かくいう自分も毎回ビアンカを選んでフローラを奥さんにした事は一度も無いし、リメイク版は未プレイなのでデボラなんて言わずもがな、である。

 ……全くもって男はなぜここまでビアンカやフローラに拘るのだろうか?

 たぶん、いや恐らくは、あの日見た女子の名を……もとい、男なら胸の中にビアンカの一人や二人、言い換えれば『エバーグリーンなあの頃の素敵な女の子』が心の中にいるからなのだと思う。
 幼稚園時代、好きの裏返しでイジワルをして泣かせてしまったあの子、隣同士に住んでいて毎日一緒に小学校に通っていたのに高学年になって変に意識しすぎて疎遠となり、そのまま中学~高校と離れていってしまったあの子、中学で隣の席になってよく話すようになり、お互い意識はするものの周りに冷やかされて意固地になって最後の一歩が踏み出せずに卒業を迎えてしまったあの子、高校に入り付き合う事になって我が世の春が訪れるもやがて迎えた就職・進学といった人生の岐路の前に自分の夢や将来の方を選び、やむなく遠距離恋愛となり新生活とも相まっていつしか自然消滅してしまったあの子……以上すべて妄想です。あしからず。
 でも誰だってそんな『素敵なあの子』の一人や二人いるんじゃないだろうか?

 男子には心の中に『あの日見たビアンカ』がいて、たとえ大人になっても、生涯のパートナーを見つけたとしても、心の中のビアンカはいなくなってしまう事は無い。むしろ僕らがあの日見たビアンカはいつまでも色あせず年をとる事もなく心の中の月のように静かに輝き続けているし、あわよくばあの世か来世でまた巡り会いたい……等と考えている男は少なくない、と思うのだ。いやはや恋人や奥様が聞いたら噴飯激怒モノである。でも男なんてそういう生き物だ。単純でしょうも無くて、おセンチでロマンチストなのだ。

 人は結局『あの日のビアンカ』パターンよりも大学や社会人になってから出会った『どこかで待ってたフローラ』パターンで結ばれるケースが多い、と思う。どっちがいい悪いという話ではなく、単純に多い少ないの話。

 念のため知らない人のために説明すると、ドラクエ5の主人公は亡き父パパスの遺志を継ぎ、勇者を捜す旅に出ている(「やれやれ……流れ的に勇者って自分の事っしょ」ってなプレイヤーの声が聞こえてきそうだが)。
 そんな中、旅先で見つけた『てんくうのたて』。勇者の装備の一つなのでこれは是非とも欲しい。でもそれを手に入れるにはとある試練を切り抜け、たての持ち主の娘を娶る資格が必要になるとのこと。
 「っていうか娘も美人だし盾も嫁も一石二鳥でゲットだぜ~♪」とばかりに試練に挑む主人公。その最中に偶然幼なじみのビアンカと再会し、一緒に試練を乗り越える事になる。無事試練を乗り越え、いざ『てんくうのたて』入手目前!……もといフローラとの結婚前夜、主人公はビアンカとフローラとの間で葛藤し、悩むのである。

 これが現実ならフローラを選ぶだろう。主人公にとって『てんくうのたて』は長年の目標、自己実現のための明確な通過点(ある意味では小さなゴール)である。そしてフローラはさながら社長令嬢といったところだ。そんな人生のターニングポイントを前に、疎遠になっていた幼なじみとの絆などどれ程のものだろうか。
 そもそも、である。幼なじみといっても今は遠いあの日、お互いの親同士の事情で知り合って、お互い子供同士だったから一緒に肝試しや冒険をしてちょっとの期間楽しく過ごしました、というだけの話。幼なじみとまで言える程に長い期間を過ごし、数多くの共通体験をしているわけではないのだ。そこはビアンカ本人も弁えているらしく素直に主人公とフローラとの結婚を祝福してくれている。
 それなのに、だ。亡き父の遺志やそれまでの苦労や外聞や世間体、すべてを投げ打って僕らは生涯の伴侶としてビアンカを選ぶのだ。土壇場で美人社長令嬢との結婚を反故にして、約束された未来をも投げ捨ててしまうのだ。
 端から見ればバカだろう。理性的な判断もできてはいないだろう。世界を救う勇者としては失格なのかもしれない。だが人はパンのみによって生きるのではないのと同様に男はあの日の思い出を糧にして生きていく生き物なのだ。上でも触れたが、現実では大部分の人はフローラと結ばれる。一生添い遂げる人もいればそうでない人もいる、人によっては別のフローラに走る人もいる。だからこそ僕らはビアンカに強く拘るのだ。
 ミルドラースを倒しエスタークも倒した。世界は安寧の日々を取り戻した。それでもまた『あの日のビアンカ』にめぐり会うためにレベル1に戻った僕らはモンスターが跋扈する混沌に満ちた世界へと舞い戻るのだ。

・勇者になれなかった僕たちへ

 ちなみにドラクエ5では主人公ではなく嫁の血筋が勇者の家系だった事実が判明し、主人公の息子が勇者として活躍することになる。それまでは自分が中心の世界、世界の中心は自分、自分こそが主人公、だったはずなのに自分は勇者にはなれないという現実を突きつけられる。

 子供の頃抱いていた根拠のない自信、自分を中心に世界が回っていると信じて疑わない万能感……年をとり成長するにつれ、僕らはいろいろな経験を積み、社会の荒波に揉まれるにつれ、そういった思いは次第に薄れていく。僕らは自分が『オンリーワンでナンバーワン』などではなく『社会の片隅のワンオブゼム』であることに気づいていくのだ。
 そう、みんながみんな勇者ではないし、勇者だらけの世界なんてありはしない。「一人一人、みんなが勇者です」なんて綺麗事が欺瞞である事にも気づいている。
 じゃあ自分は何なのか? トルネコなのか? いやいやライフコッドで鍬や鋤でモンスターと戦っていた強そうな農家のおじさんなのか?(そりゃドラクエ6だろ) いやいや、そんなかっこいい見せ場すらない「~~の町へようこそ」としか言わない町人Aだっている。自分はそこいらのモブキャラだったのか?
 代わりのいない勇者にはなれなかった自分。でも自分たちの代わりはたぶんいる、という厳しい現実。そこに気づいた僕らはまた一つ大人になっていく。

 でも悲観することはない、世界の誰が欠けてもドラクエは成立しないのだ。確かにプレイ中、勇者は登場キャラ全員に話しかけたりしないし、全員に話しかけたりしなくても(主要なキャラのみに話しかけさえすれば)クリアはできる。だからといってゲームの進行に必要なキャラしか登場しないドラクエってどうだろうか。王様に会いに城へ向かう道すがら、閑散とした武器屋や道具屋のカウンターや人気のない寂しい町並み、いるはずの衛兵がいない城門を通り抜けながら勇者は何を思うだろう。
 ドラクエにおいて、攻略の役に立たないキャラはいても、必要ないキャラなどいないのである。僕らは勇者じゃなくても、いやむしろ勇者じゃないからこそ必要なのだ。
 
 ドラクエを通して僕らは気づくのだ。宿屋のおかみさんも教会の神父も城の台所で右往左往するあの娘っ子も、皆それぞれがそれぞれの背中に人生を背負い自分の役割をまっとうしている事実に。昨日と同じであろう今日を、今日と同じであろう明日を、彼らは自らの立場や役割を受け入れ、その日その日を粛々と生きているのだ、という事実に。
 ドラクエの世界も現実の社会もそう大差ない事に気づいた『勇者になれなかった』僕たちはモブキャラの矜持を胸に今日も電車に揺られ、自分の役割をまっとうしに町へ向かうのだ。


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