映画「三島由紀夫VS東大全共闘」プロダクションノート①
映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」。私はこの映画のプロデューサーとして制作に関わってきました。新型コロナの感染拡大で上映が一時休止されていましたが、ようやく再開されました。これを機に、制作秘話を公開します。
五十年前の報道素材を映画化するというチャレンジングな試みは、当時のフィルムの原盤が発見されたことに始まりました。すべては三島由紀夫という男の魅力に引き込まれた人たちの熱情によって突き動かされてきたのです。
学生班
テレビ報道の現場には時代に応じて、様々な取材班が設置される。五十年前、TBSのテレビニュース部には、「学生班」という取材チームがあった。ここに所属する若手記者たちは、東大、早稲田、日大などの大学別、さらには中核、革マル、社青同などセクト別に担当を分けて、学生たちがいつ大学封鎖を行うのか、どんな街頭闘争に打って出るのか情報収集していた。学生班所属の記者は入社二年目から五年目、大学時代には各セクトに所属した者もいた。彼らは後輩たちから情報を集め、「次は〇〇で闘争を行う」という情報を仕入れては、カメラとともに現場に駆けつけ、独自映像をモノにしていたのだ。
のちに「報道特集」のキャスターを務めることになる小川邦雄は、1969年当時、テレビではなく、ラジオ班の駆け出しの記者だった。東京大学剣道部、体育会出身のノンポリだったから学生運動とは無縁だった。このためテレビの「学生班」が集めた情報を聞いては、過激さを増す学生らの抗議行動を取材していた。
「東大全共闘が三島を呼んで討論会をやるらしいぞ。取材に行ってみないか?」
学生班の先輩記者から誘いがあったと記憶している。この先輩記者は討論会を主催する東大全共闘のメンバーをインタビュー取材した縁で、討論会に招かれたのだ。
小川はカメラクルーとともに、母校・東大駒場キャンパス900番教室に出向いた。半ば興味本位だった。
現場にいたテレビカメラはTBSのみ。千人あまりの学生が詰めかけていた。背広を着た小川は、全共闘学生たちに紛れて最前列に座った。
1969年5月13日。三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹する一年半前のことだ。このとき記録された16ミリフィルム二巻、合計1時間15分20秒は、五十年後、TBS緑山スタジオの倉庫から発見されることになる。
ビンテージフィルムの中身
発見したのはTBS報道局OBで、経営部門で働く男だった。2019年5月のある晩、彼は前触れなく報道局にある私のデスクにやってきた。
「貴重なフィルムを見つけた。是非見て欲しい」
彼は熱を込めて言った。定年退職まで一年を切った彼が、倉庫に眠るビンテージフィルムの発掘に情熱を燃やしているのは知っていた。
一時間あまりの素材を全部見た。
私はこれまで公安対象となる思想犯の取材経験を重ねてきたので、右翼・左翼ともに知己は少なくない。彼らと酒を飲みながら、嫌と言うほど議論してきたので、それぞれの歴史も理解しているつもりだ。
だが、三島と全共闘の間に飛び交う難解な言葉を、百パーセント理解することはできなかった。
しかし、私は敵対する両者の議論の帰結、そして三島由紀夫の清廉な眼にひきつけられた。
②へ続く