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「三島先生」と呼んでしまった東大全共闘五十年前のあの日、東大全共闘の木村修は、三島を千人の学生の前に引っ張り出して論破してやろうと画策していたという。学生らは体を鍛える三島を「近代ゴリラ」と揶揄するポスターを貼り、心理戦を挑んだ。 1969年5月といえば、安田講堂が陥落した四ヶ月後、学生運動がセクトによる暴力的地下闘争、内ゲバに移り変わる過渡期だ。東大900番教室には、退廃と緊張が入り交じった異様な空気が漂う。三島の護
三島由紀夫はなぜ、東大全共闘との討論会参加を引き受けたのか。どのような思いで学生たちと向き合ったのだろうか。その真相を知るためには楯の会のメンバーたちを取材する必要があった。 「楯の会」の若者たちは今楯の会のメンバーに話を聞くため、大澤祐樹は、一期生、二期生を中心に訪ね歩いた。報道局経済部の記者経験はあるが、楯の会は財務省の官僚とはまったく違う相手だ。 楯の会のメンバーは今も保守の立場を貫いている。結束も固いから、カメラの前で口を開こうとしない。大澤は、楯の会OBの会合が
TBSテレビニュース部の精鋭「学生班」の遺産は五十年後に発見される。16ミリフィルム二巻、合計1時間15分20秒。そこには、死の前年の三島由紀夫と、敵対する東大全共闘の激論の模様が映し出されていた。記者というのは新しいモノを追い求めるのが本能だ。だが、その古いフィルムには、令和の時代を生きる我々に重要なことを語りかけていた。 三島の再評価につながる素材三島が自死を遂げたとき、時の首相・佐藤栄作は「気が狂った」と漏らし、防衛庁長官だった中曽根康弘は「迷惑千万」と切り捨てた。政
映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」。私はこの映画のプロデューサーとして制作に関わってきました。新型コロナの感染拡大で上映が一時休止されていましたが、ようやく再開されました。これを機に、制作秘話を公開します。 五十年前の報道素材を映画化するというチャレンジングな試みは、当時のフィルムの原盤が発見されたことに始まりました。すべては三島由紀夫という男の魅力に引き込まれた人たちの熱情によって突き動かされてきたのです。 学生班テレビ報道の現場には時代に応じて、様々な取
会社のCSRを担当する部署から「高校生に出張授業をやって欲しい」との依頼を受けた。全学年の生徒900人。人に会うのは記者の仕事のようなものだが、相手はムズかしい年頃だ。咄嗟に「その日、忙しいんです」という逃げの文句が頭に浮かんだ。しかし最終的には引き受けることにした。一緒に授業をするのは日本唯一の全盲の新聞記者・岩下恭士氏。授業のタイトルは「ニュース報道から学ぶ心のバリアフリー」だった。 私はダメな高校生だった。登校はいつも三時限目から。興味のない授業はサボっていた。自分に
(前号までの記事)死刑囚が心神喪失状態にあるときには、刑の執行を停止しなければならない。これは刑事訴訟法に書かれた規定だ。松本死刑囚はいまどんな精神状態にあるのか。次女と三女は2008年まで、変わり果てた父との面会を重ねたが会話はまるで成立しなかったという。松本姉妹はこの十年、面会を求めるが、拘置所から「本人が応じない」ことを理由に断られ続けている。200回以上拘置所に通ってきた姉妹は「父を見せて欲しい」と訴える。ブラックボックスに入ってしまった松本死刑囚。法務省は松本死刑囚
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件から23年の時が流れた。事件が起きたとき、筆者は霞が関にある東京地裁の記者クラブで勤務していた。車での朝駆け取材(検事の自宅近くで朝、待ち伏せ取材すること)をしていたため、事件に巻き込まれることはなかった。だが、現場に駆けつけた時のあの混乱と恐怖はいまでも脳裏に鮮明に残っている。オウム事件とは何だったのか。本当にすべてが明らかになったと言えるのか。死刑執行の準備が進む中、もう一度問い直してみたい。(本稿は3回連載します) 3月20
トランプ大統領就任から一年。アメリカでは「白人至上主義者」と呼ばれる集団が跋扈している。「遠いアメリカでの出来事だろう」という見方もある。だが、人種論争に無頓着な日本人だからこそ、彼らの思想を知り、自国に潜む問題を考える必要があるのではないか。ネオナチ政党の指導者マシュー・ハインバック(26歳)の単独インタビューの後編です。 ■「白人国家」って? 去年10月、テネシー州で行われた白人至上主義者の大規模集会には三百人が参 加した。中年から初老の白人が中心。十代後半とおぼしき
トランプ大統領就任から一年、アメリカがおかしなことになっている。堂々と人種差別を公言する白人至上主義者たちが跋扈しているのだ。どうやら彼らは異人種排除のための理論武装をして、支持を広げているらしい。彼らの論理はどんなものなのか。アメリカのとある田舎町に、悪名高いネオナチの若者を訪ねた。差別される側の日本人の記者として・・・・。 ■遅刻してきた男 その男と待ち合わせたのは、インディアナ州ジャスパーという町の小さなホテルだった。窓の向こうは、野生動物でも出てきそうな広大な草原
内閣情報調査室のA氏を欺き、日本政府中枢の機密情報を奪おうとしたロシアのスパイ。その手口を取材するため、私はアメリカに飛んだ。取材に応じた元KGB工作員が、米国人になりすます「背乗り」という手法を暴露。さらには、アメリカ社会を分断する情報攪乱(ディスインフォメーション)工作の実態も明らかになる。 国家の中枢を、時間をかけて篭絡していくロシアのスパイ。 最大の工作対象はアメリカだ。 ■竹内明ワシントン中心部にあるこのロシア大使館です。道を隔てた反対側、三階建ての家、ここ
トランプ政権誕生の裏にロシアのスパイ機関が動いていたのではないか・・・ アメリカで今、疑惑の捜査が進んでいます。こんな中、スパイ事件の当事者たちが私たちの取材に応じ、その手口など新事実を証言しました。 スパイたちはホワイトハウスだけでなく、日本の総理官邸周辺にまで手を伸ばしていました。 ■川崎駅前 私たちの取材に応じたのはA氏・・・内閣情報調査室、つまり総理官邸直属の情報機関に勤務した人物だ。今回初めて、悪夢のような経験を明かした。 9年前、待ち合わせの焼肉店に入ろうとし
これはマズイことになった。小説の執筆が終わってしまった。一年間、早朝と深夜、休日に、自宅で没頭していた、いわば「生活の一部」を突如、奪われてしまったのだ。私はゴルフもやらないし、麻雀もめっぽう弱い。休日はジム行って、体を動かすくらいしか趣味はない。家族がガヤガヤとうるさい居間の片隅で、文字を積み上げて物語を作る作業は至福の時だった。 また書けばいいじゃないか、と仲間は言う。ところが、小説出版となると、自分ひとりで事を進めることはできない。構想を練り、出版社に持ち込み、編集
1974年8月30日に東京丸の内で起きた三菱重工ビル爆破事件。警視庁公安部の古川原一彦は五ヶ月間、不眠不休の尾行、張り込みの末、ついに、東アジア反日武装戦線「狼」を追い詰めた。逮捕の瞬間いったい何が起きたのか?そして、その顛末は屈辱的なものだった。東アジア反日武装戦線のメンバーの一斉逮捕当日、1975年5月19日は朝から雨だった。極秘にしていたはずの捜査情報は漏れていた。 <爆弾犯、数人に逮捕状> 産経新聞朝刊にこんな見出しが躍ったのだ。 「恥ずかしい話だが、俺は
1974年8月30日に東京丸の内で起きた三菱重工ビル爆破事件。謎の組織「東アジア反日武装戦線・狼」が犯行声明を出した。「狼」とは何者なのか。若き公安デカ・古川原一彦がテロリストを追う。本稿は古川原自身が死の直前に、筆者に明かした真実の記録である。公安警察官は目立たぬことこそが最も重要だ。だが、古川原一彦は警視庁に入庁する前から「有名人」だった。その名が世間に知れ渡ったのは、全国高校駅伝でのことだ。1964年1月4日の新聞には、こう書かれている。 <ひょろ長い体にくりくり坊主、
東京都心、それも丸の内のオフィス街で爆弾テロが起きてから43年が月日が流れようとしている。東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工ビル爆破事件だ。私が前回のnoteで書いた古川原一彦は、このテロ事件の捜査で活躍した公安捜査官だった。彼が生前、私に明かしていた秘話をきょうから三回にわけて紹介したい。1974年8月30日、空前の爆弾テロが東京のど真ん中で起きたことを読者の皆さんはご存知だろうか。東京・丸の内で三菱重工ビルが爆破されたのだ。 ダイナマイト700本分の威力の爆発。ビル
私は「情報源」という言葉はあまり好きではない。だが、記者活動に情報源は欠かせないものだ。ここでいう情報源とは、公開情報ではなく、秘密の情報をひそかに教えてくれる者を指す。したがって情報源を持たない記者は、スクープや特ダネと呼ばれるものを書くことは出来ない。 情報源との付き合いは難しい。特に特捜検察や公安を担当した記者なら情報源との関係に細心の注意を払っているはずだ。記者との付き合いが上司にバレれば、その情報源は左遷される。秘密指定された重要情報を漏らしたとなれば、最悪、逮捕さ