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(まとめてみた)哲学の視点で精神科ケアを考える。
今、現在に至り、私の通っている精神科デイケアでは30歳に満たない若い世代が主流になってきているような気がしている。世代交代といわれたらそうかも知れないが、若い世代に力を与えて行くのはデイケアでも精神科当事者グループでも理想的なことだと思う。デイケアでは哲学カフェも開いているが、この実践は例え哲学系統に偏らずとも自由に話し合いを広げて行くには大切なことなのではないだろうか。私は精神科の医学書もくまなく読んでいろいろと冷静に考察することはある。だがしかし、私の出身は医学部でもなければ心理学部でも社会福祉学部でもない。私はあくまで哲学専攻の出身である。厳密にいうと大学すらでていないので、専攻していた哲学に関しても素人と変わらないものではある。それ故に、どちらかというと精神科医学の知識は背景程度には取り入れてもあまりに専門的なとこは踏み込まない。各専門職の領域は無関心にはならないが深くは知らない。それは何らかの小論文を書く作業の背景程度の知識のインプットということに似ていると思う。小論文を書く、ある程度の話し合いをするということは広く薄く知識を必要とする。
それを踏まえた上で、私は精神科ケアについて「哲学の視点」で考えていきたい。哲学の視点は医学や福祉の視点とは違うが、デイケアや当事者グループはそれに対するフィールドなのだから、哲学カフェやミーティングなどを通じてそこでよく話し合い、これからのデイケアや当事者グループといった精神科地域定着の発展に対して自分の専門性で答えを出していくことをしようと思うし、それが「哲学の視点」に立って精神科ケアを考えることをしていきたい、そして今より、若い世代がより力を持てるようにしていきたいと考えた。
実のところ、私自身が精神科疾患の統合失調症になっていなければここまで本を読んでいたりしていないのではないだろうか。というのも、生来もともと頭のいいわけではない私は勉強や学術が得意な方ではなかったし、それほど勉強熱心でもなく本など読むのは好きなことでもなかったように思える。そんな人生を変えたのは良くも悪くも統合失調症への罹患だったのではないだろうか、実は私の大半の読書量は統合失調症になり、大学を途中で辞めてから始まっている。統合失調症だからこそ、書籍を読み、学術をしたのではないだろうかと思う。
もし、統合失調症でなかったのなら、無事に学校などを卒業、就職をしているような人生だったとしたら、そこで私は学問することとは無縁になっていたとは思う。統合失調症の罹患よりこのおおよそ20年間、学問しつづけた今があるというのは統合失調症になった路線の果てにある世界なのではないだろうか。良くも悪くも統合失調症を契機に現在の自分があり、アイデンティティが確立されているのではないか。これからは学問していくと同様にその知識などの応用についても考えたい。今、デイケアでやっている哲学カフェなどはその例の一つであろう。お金や職業には全くならないが、私の「ライフワーク」としてのまさに精神科ケアについて哲学の視点で考えることであると思う。
さて、これからの方向性として、私はもはや高校や大学の入学試験は扱わなくても良い、資格試験を目指す必要もない、かつてのようにそれらの問題を解くような能力はもはやないのだが、入学試験や資格試験の勉強はあくまで単なる学校の勉強であり、学問するという視点からは離れているし今のところは蛇足であるともいえるからだ。また、主な書籍は図書館で調達することも大切である、私自身は本を買う余裕はないため無駄なコストをかけないのと、知識を得るための書物を読むのを最低限にして、できるだけ自分の力で考えることも大切にしておきたい。「哲学の視点で精神科ケアを考える」ということ。その先に何があるかわからないが、統合失調症を契機とした人生もまた開拓に値すると信じたいと私は思う。