瞬間小説 『虚無、来たりなば 』

《虚無》が忍び寄って来た。

人が生きる事に絶望し、自分の存在理由を見失った時、虚無はその見えない漆黒の手を伸ばして来る。

そう、まさに今の僕の状態。
どんなに努力しても誰にも認められず、良かれとやった事すら結果として他人を傷つけてしまう。そんな事が延々と続き、自分なんか生きてる価値が無いのではないか？ むしろ自分がいない方がみんな幸せになれるのではないか？ そんな考えばかりが頭の中を駆け巡り、前向きな思考をしようにも前向きな材料など何も無く、気持ちはずるずると落ち込んでいき、もはやどんな気分転換も効果は無い。

この絶望感こそ、虚無のエサなのだ。
このままでは、あの闇のように真っ黒な虚無の手がやってくる。
その手が僕の肩に触れた時、僕は虚無に飲み込まれる。
分かっている。
分かっていても、自分ではどうしようもない。

だからこそ、急がなくてはいけないのだ。
早く彼女のところに行かなくては、手遅れになってしまう。
僕の心の支えであり、いつでも僕を愛してくれる恋人。
彼女にさえ会えれば、僕が虚無に追いつかれる事は無いだろう。

虚無に飲み込まれた人間は、存在そのものを消されてしまう。
正確には、存在していた事実ごと無くなってしまうのだ。
全ての人からその人の記憶は失われ、この世のどこにもその人の痕跡は残らない。文字通り「無」になるのだ。

僕は昔から、この虚無の気配を感じ、そして『見る』事ができた。
多くの人たちが、絶望に沈み虚無に飲み込まれていく光景を見てきた。
だが、存在を消されたその人たちが誰だったのかは、僕でも覚えている事ができない。かろうじて、誰かが虚無に飲み込まれたという事象だけを覚えていられるのだ。

最近も身近な人が虚無に飲み込まれた事があった。
だが、それが誰だったのかは、やはり思い出せない。
とても大事な人だった気がするのだが、どうしても思い出せないのだ。

後ろを振り向けば、闇の中から生えた虚無の細長い手が、グニョグニョとこちらに伸びて来ているのが見えた。

これはまずい。
すでに小走り状態だった僕は、さらに足を速める。
額からは、冷たい汗が滝のように流れる。

焦りが余計に心を追い込み、絶望感がマイナス方向に加速していく。

このままでは、彼女の家にたどり着く前に、僕の存在は消える。

そうだ、電話だ。
電話でも、彼女と話せれば……！

手から滑り落ちそうになるスマホをかろうじてつかみ直し、彼女に電話をかけようとして、手が止まる。

電話番号が思い出せない。

連絡先にも彼女らしき名前が見当たらない……。

ああ……そういう事か……。

虚無に飲まれた大事な人とは、彼女だったのか……。
だから、僕はこんなにも落ち込んでいるのだ…………。

そうか、それなら僕にはもはや何も無い。
終わりでいい……。

最後の希望を失った僕の肩に、真っ黒な虚無の手がそっと置かれ……

さらにその手を別の白い手がガッとつかむ。

「えっ？」

白い手に掴まれた虚無の手は、引きちぎられ、粒子に分解するかのように飛散した。

さらに闇の中から生えた無数の手が、猛烈な速さで白い手の持ち主に襲いかかるが、そのことごとくを彼女はアクロバティックな身のこなしでかわし、事も無げに粉砕していく。まるで、どこぞのアニメの作画が凄いアクションシーンのように……。

「ぷぷっ、なっさけない顔ぉ！ それでも最強の虚無シーカー《不死鳥》の異名を持つ男かねぇー。でもまあ、オトリ作戦は成功ね！」

なんだ、これ？
っていうか……

「おまえ何者だ！？」

「あらら、恋人の顔も忘れちゃったの？ あんたの相棒、虚無バスターの虎子だよん！ その催眠術、ちょっと効きすぎじゃないのぉー？」

ちょっと待ってくれ。
こんなチープなオチが許されていいのか？

伏線も無く唐突な中二病設定とか。こんな展開、映画ならB級うんぬん以前に製作打ち切りレベル、小説だったら三文どころか一文でも払いたくないし、作者に投げつけて金返せって言いたくなるような、超が付く駄作なんじゃないのか？

「あはは。あんたの思ってる事、なんとなく分かるわぁ。でも、現実は小説より駄作なりって言うじゃない？」

「おいおい、それを言うなら……、まあ細かい事はどうでもいいか。」

「そうよ！ 美しい悲劇よりくだらない喜劇！ でしょ？」

そう。現実はいつだって、くだらないほど想定外。
だから、絶望してる暇など無いのだ。

催眠術が解けた”俺”は、腕をまくり、彼女から手渡された魔女っ子ステッキを握りしめ、格闘ゲームのような構えのポーズで、虚無に向かって啖呵を切る。

「虚無がなんぼのもんじゃい！」

＜完＞

※この作品は、第２回noteショートショートフェスティバルへの応募作を、一部加筆・修正したものです。

☆表紙絵 by さとねこと さん → https://note.mu/satonekoto

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