絶望の中に見えた一つの光
自分の音楽人生の中で欠かせない、通らざるを得ない、記しておかなければいけないことがある。言わばこれが私の音楽ルーツだったってこと。
心の中に封印していたことに気付いたのはTwitterを始めてからだった。
こんなにもまだ支持されていたのかと。
しかも現代の若者に。
記憶が呼び起こされて再び私の心の中に微かな火を灯している。
私は生まれた時から父親の存在を知らない。
母親が育児放棄をして母方の祖母に育てられた。
だから両親ともいなかった。
祖母の家には息子つまり私の母親の兄が一緒に暮らしていた。
私たち姉妹と祖母と伯父の4人暮らしだった。
伯父はそこそこ偉い役職についていて、夜は遅かった。
祖母は掃除の仕事で夕方まで帰って来なかった。
帰って来るまではテレビが自由に使えた。
東京都内の私の住んでた地区は、神奈川テレビと千葉テレビの両方が観れた。
その頃、音楽番組がたくさんやってたの。
かじり付いて観てた。
千葉テレビの音楽番組で平日16時くらいまで3時間くらいぶっ通しでMVを流す番組があったの。
そこで私の人生を変えてしまう衝撃のMVに出会ってしまったのだ!
それが、、、
尾崎豊 『太陽の破片』
だったのだ!!!!
youtubeにも載ってないのでお見せ出来ない。
唯一、ニコ動にあった。けど文字がうるさいから載せません。気になった方はぜひ映像に集中して観てみてください。
これは全裸の子供たちと走ったり、飛んだり、摩訶不思議なMVなんだけど最後の泣いてるシーンに心打たれたと言うか、何でこの人泣いてんの?って凄く気になっちゃったんだよね。
それからは何度も千葉テレビでMVを観ては徐々に段々と尾崎の魅惑の沼に知らず知らずに引き込まれていってた。
家庭環境が少なからず影響していたとは思っている。
だって、きっと、尾崎って、家族普通に揃ってて自分の人生に特に不満も悩みもなく幸せに過ごしてる人の心には響かない気がして。
そうゆう人には「何言ってんの?なにやってんの?この人…」って理解出来ないと思っちゃう。
暗い部分があって、そこに一筋の光が射し込んでくるような手を差し伸べてくれるようなそんな歌な気がして。
こんな場所があったんだって、その時感じた不思議な温もりのような感覚は忘れられない。
それが中3の時だったのかな?
高校に入って『よーし!バイトで稼いだお金でライブ行くぞー!!』って思ってた矢先。
あの事件は起こったんだよね。
最初に聞いたのは友達からだった。
ラジオで言ってたよ!って。
嘘でしょ!?嘘だよ!だってもうすぐCDも出るしライブもあるんだよ??
とても信じられなかった。
でも嘘じゃなかった。
次の日にテレビ付けたらもうそのニュースばっかりだった。新聞の見出しも全て尾崎豊一色だった。
『尾崎豊 急逝』
尾崎の写真がたくさん出てきて『I LOVE YOU』ばかりが流れてた。
本当だったんだ。。
それからは泣き続ける日々。
バイトのお金はほとんど尾崎のものに費やした。
どこの雑誌も尾崎の追悼特集でいっぱいだった。
CDもビデオも全部買って、尾崎の出した本までも全部買い揃えた。
音楽雑誌はもちろん、週刊誌やら何から何まで買い漁った。
心の空白を埋めるために。
でも世の人たちは冷たかった。
面白おかしく言う人ばかりだった。
好きだと言えば、すぐ「あぁ、あのヤク中のやつねぇ。」なんて。
心ないやつらばっかり。
私の心はボコボコ穴が開いてくばかりだった。
尾崎が亡くなった後にファンクラブに入って何かのチラシ配りにも参加した。
FILMコンサートも何度も観た。
だけど今では、尾崎が本当に実在していたのかすら疑問に思ってしまう。だって尾崎の生に触れずに本当に自分の中では伝説に終わってしまったから。
でも、そんなに思っていたのに無情にも時が経つにつれ人って忘れていく生き物なんだね。段々と悲しみも薄れ日々の生活に埋れていってしまった。
そんな私も結婚をして幸せになり、尾崎のお世話になることなく、大量の尾崎グッズはダンボールに詰め込みフタをした。
「今までありがとう。尾崎のことはずっと好きでいるよ。」
悲しいほどに死を予感させるジャケット。遺作となってしまったアルバム『放熱への証』は未だに辛くなるから2,3回しか聴けてない。
その後、尾崎の息子、尾崎裕哉くんの登場にグググッと胸を熱くする私がいる。
当時、一人暗い部屋で何かを求め悶々とテレビを見ていた少女の心に一筋の光が差し込んだのは確かだった。
今年、2020年4月25日で28回忌を迎えた。
ありがとう。ありがとう。
私のルーツがここにある。