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突然出てくる「結婚した」

不器用な人生を歩んでいるので、同じように紆余曲折あった人の人生コラムを読むことが多い。

自分と同様、何かに苦悩している人の文章を読むと、対症療法ではあるが心の傷口が少し癒えるし、運が良ければ何か解決の糸口が見つかるかもしれない。

ただ、どうにも途中で「結婚した」という出来事が入ることが多い。
曲がり角を曲がったら豹に出くわした、といった具合だ。
(ちなみに、記事の写真は台湾旅行中にたまたま見つけた新郎新婦だ。)


この「結婚した」に出くわす度、私はどうにもモヤっ、とする。

私をモヤらせる「結婚した」は、必ず唐突に降って来て、嵐のように素早く立去っていくのである。

『(こういった事に私は悩み、苦しんでいた)そんな私も今では結婚し、家庭を築いている。(きれいにまとめられたエピローグ)』

と、言った具合に。
(分かりやすい例えでいうと「理解のある彼くん」だが、この記事が対象にしている「結婚した」は、もっと広い範囲を指している。)

そして、私の心にもったりとした後味を残していく。


どうしてモヤっ、とするのだろうか。
ここで、ある本の一部を引用する。

(前略)末期ガン患者にとってたいせつなことは、患者が自分は決して孤独ではなく、自分を愛し、信頼し、共感してくれる人たちがいて、自分もまたそれらの人々を愛し、信頼しているのだということを実感できるという事だからだ。患者と患者を取り巻く人々の間に、そのような関係が成立すれば、人はどんな場所でも闘病し、生き生きと生き、死を乗り越え、死を受け入れていく事も可能なのだ。

山崎 章郎(著)病院で死ぬということ (文春文庫)

これは私がひどく共感した文章である。
やはり人間、孤独というものに弱い。
結婚というのは、この弱さをベールで覆ってくれる。
その厚さは人によりけりだが、それでも私はそのベールが羨ましい。

そして、結婚というのは法律の中で認められた夫婦関係という制度である。
法律というのは複雑でやっかいだが、だからこそ結婚というのは、互いの大事さを実感する一要因となり得るのではないだろうか。
(かの宮崎駿監督も『世の中の大事なことってたいてい面倒くさいんだよ。』と発言している。)


そんな複雑でやっかいなベールにおさまるに至った経緯が、さらっ、と流されていることに、私はモヤってしまうのである。

たしかに、それについて詳しく言及すると、経験した困難という題材から脱線してしまうのかもしれないし、そもそも、もしかしたらその人にとって結婚に至るまでの経緯というのは、さほど大事なものではないのかもしれない。

とはいえ、急に結婚を出してきて、今はなんやかんややれてますよ、と言われても、私は夢オチと同じくらい残念な気持ちになってしまう。


この記事はあくまで、自分なりにこのモヤの理由を探るために書いた。
全ての感情が言葉で説明できるわけではないし、無理にそうしない方が良い場合もある。

村上春樹の言葉を借りるが、それでも私は『自己療養』をしたかった。
そしてそれは、「結婚した」が唐突に登場するコラムの筆者も同様なのかもしれない。

完璧な文章などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。

村上春樹(著)風の歌を聴け (講談社文庫) 

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