
湯気のある風景
ますみさんのことで上司と話す頻度が増え、ごく最近上司と雑談をしている中で彼がいきつけのスナックがあると話してくれた。彼はスナックのママとなんでもないような話をしてから家に帰るらしい。ママは60代後半のベテランでどんな話をしても返してくれるという。スナックでリラックスしその日の自分を振り返ったりすることで整う何かがあるという。
「家に帰って妻の顔を見る前に一人になりたい日があるの。」
ともその上司は言っていた。
完全な下戸であるしおはその話を羨ましく思った。上司の言う振り返る時間という響きもとても心地よく思えた。そんな場所を持ちたいと思いながらしおは過ごしていた。
そんな折バタバタと仕事を片付けたある日、帰り道にレトロな喫茶店が大通りの脇道にあることに気づいた。コーヒー専門店で古めかしい洋風のドアが印象的なお店だった。しおは興味をそそられふらっと入ってみる事にした。
店の中心に大きな花瓶に桜の枝が活けてある。店内は老若男女でにぎわっていて適度なざわめきがあった。しおはカウンターに通された。
カウンターの前にはコーヒーカップがずらりと並んでいる。青や赤のモダンな幾何学模様のものや伝統的な花柄等、ゆうに50セット以上はあると思われる。また冷凍ケースも見えた。そこにはケーキが数種類入っていた。メニューを見ると手作りと書いてある。他にもオリジナルカレーやサンドイッチもあり気になった。
しおはブレンドコーヒーとサンドイッチを注文した。
ダウンライトで店内は適度に暗く落ち着く空間になっていた。
カウンターの右端を担当するウェイターがしおをコーヒーを淹れはじめた。
ドリップしている姿をぼっーと眺めることで気持ちがどんどん落ち着いてくる。ほどなくしてコーヒーが運ばれてきた。しおに選ばれたカップはネイビーと金色の装飾が施されたモダンなものだった。
さっそく一口飲んでみると、湯気とともにコーヒーのアロマが一気に目の前にひろがる。肩から力が抜け胃からフゥーっとため息のような息がもれた。まさに労働のあとの一杯だった。
今日の一日のことを思い出しながらぼんやりとウェイターの動きを追った。ひとつ仕事で気にかかることを思い出したが、今ここで憂いても仕方ないことだった。コーヒーの香りをかぎながら気持ちを落ち着けているうちに様々なことを考えた。仕事のこと、ますみさんのこと、藤枝くんの言っていた夢のこと、しおの実家の花のこと。サンドイッチをほおばりながら次から次へと思いを馳せた。
もう少ししたら実家の庭に芍薬が咲く。そしたらますみさんに写真を送ろう。そういう小さな希望を数えるような時間をしおは気が付くと集めている。
しおはこの店が気にいった。
上司のいうところのスナックのようにこの店を利用したいと思った。下戸にも行ける一息つけるお店ではないか。
全て完食し店を出る頃にはすっかり気持ちが満たされていた。