湯気のある風景
ますみは一ヵ月休職したあと会社を退職した。いつか会社に戻ってくる事を願っていたのでしおは少し残念だった。退職の知らせは部長からあり本人からは連絡がなかった。それも少し寂しかったがそのようなことを考える時間も無いほど、その頃しおの生活は変化していた。
世界中を襲う感染症が急拡大したのだ。
海外への輸出事業を展開していたしおの会社は感染拡大が報じられた頃から売上が減退した。感染が拡大している国では経済活動が低迷し消費が激減していた。
しおは売上減退に伴い仕事量も減り在宅勤務を勧められ自宅で過ごすことが多くなった。ますみの不在を補っていたアルバイトも不要となり解雇された。社内にも不安な空気が流れていた。雇用は守られるのかどうか、みんな不安だった。
とはいえ、状況はすぐに改善する兆しはない。ニュースから流れてくるのは医療崩壊間近と叫ばれる国々の惨状と対応の遅れだった。世界中に立ち込める不穏な空気は重く日本列島を包んでいるかのようだとしおは思った。
しおは会社の誰にも会わない日々が続いた。行きつけの蕎麦屋にも喫茶店も行かなくなった。日が経つにつれ感染対策が報じられ手洗いや消毒、密な場所での会食はNG等の情報が次々公開された。感染対策をしていれば外出できると思ってはいるものの、心から安心できず家から出れなくなってしまった。
丁度その頃、久々に出社するために電車に乗った時の事だった。
乗換えの駅でしおが階段を降りようとした際、突然背後から大きな手で思い切り背中を押された。全く無防備な状態だった為階段を転げ落ちた。通勤ラッシュよりやや遅い時間帯だったもののそれなりに人はおり構内は騒然とした。
「人が落ちたぞ!」
「誰か駅員を呼んでください!」
しおは転げ落ちる瞬間、物事がスローモーションで見えた気がした。階段を転げ落ちる時とっさに体をかばって体をまるめたこと、どこかの時点で手を着こうと試みたことは覚えている。駅の蛍光灯は白々しくてなんか冷たい、、、そうも思った。
気が付いたら階段の一番下の広場にうずくまっていた。
人だかりができOL風の女性が大丈夫ですか?と声をかけてくれた。しおは応答するという余裕が心にも体にもなく声が出なかった。少し息が詰まる感じもしていた。その女性の顔も見れなかった。何とか目を開けて体を起こそうとした時担架を担いだ駅員が到着ししおは駅員室に運ばれた。
最初のうちはしおは不思議と痛みは感じなかった。驚きと衝撃で気が動転していたのだろう。アドレナリンも出ていたかもしれない。駅員に何か話しかけられたけど、頷いたり首を振るなどしかできなかった。痛くないし何とかなりそうと思ったのだが、徐々に体中のそこかしこに痛みが走った。
「随分高いところから落ちたので、念の為病院で検査をした方がいいと思います。救急車呼びますね」
しおはやっとそこで「お願いします。」と答えた。
その後救急車で病院に運ばれた。
感染症で人がいっぱいになる前でスムーズに検査をしてもらえた。検査の結果脳に異常はなかったが、変な形で着地したのか足を骨折していた。また体のそこかしこが打身でじんじんと痛んだ。病院から会社に電話し事情を話し急遽暫く休みを取る了承を得た。
部長は「こんな時期で仕事量も少ないし、気にしないでゆっくり休みなよ」と言ってくれた。病院で入院を勧められたが時期も時期だ。それも怖いと思い自宅療養を希望した。定期的に通院はしなければならないが。急遽ギブスを付けて貰った。怪我に加えて慣れないことが続きすっかり疲れ切ったしおに終始看護師さんはてきぱきとしていて優しかった。
タクシーで最寄り駅まで行き帰宅した。松葉づえ生まれて初めてだな、、、と思いながら岐路についた。家のマンションにエレベーターがついていてよかった、、とも思った。
しおは自宅についてからやっとしっかりと息を吸えるようになった気がした。もう夕方の4時をまわっていた。
なんということでしょう。。。
ビフォーアフターというボロ屋を新築同然にリフォームする番組のあの決め台詞がしおの脳内にこだました。
「本当になんということでしょう。。。」
しおは声に出して言ってみた。部屋はしんとしている。
骨折した左足を見つめながら思った。
確かに誰かが背中を押した。
強い意志を感じる押し方だった。
落っことしてやる、という意思。
しおは痛む体を横たえて天井を見つめた。
何を感じればいいかわからなかった。