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湯気のある風景

体の一部が思うように動かせないというのはとても不便だ。

あの日以来当然のことのようだけど、結構な教訓をしおは得た。

足ひとつ思うように動かせないと体全体が補填しようとおかしな動きになっていく。そしてまた別のところが痛んでくる。

昔しおが住んでいた家の近くに教会があり、そこで牧師の説教を聞いたことがあった。子供だったのでお菓子がもらえるのが嬉しく何度も通った。難しいことは覚えていないし、牧師の顔も覚えていない。とても大きな人だった、牧師についてはそれ以外の記憶はない。その人が日曜日の朝、教会の一室に集まった子供に向けて読み聞かせをしてくれた。聖書の話とは知らないでじっと聞いた。その時聞いた話に体のことを説明した箇所があった。

私たちの体は全体で成り立っている。たったひとつの小さな器官が機能しなくなると体全体が痛むのです、というような話だった。

最近しをはその話を実感としてことあるごとに感じるのだった。

あれは何かの比喩なんだろう、と今のしおならわかる。

教会の働きとか、共同体の働きとか、そういうことを体に譬えて話したんだろう。キリスト教はたとえ話が多い。

でも今骨折した足を目の前にすると、これは真実だなとも思えた。

足が悪くなってから体が補完しようとする、そういう感覚があった。ギブスをしてしまえばあとはくっつくのを待つだけなのだが、体のそこかしこがかばいあって頑張っていた。

昔の人は知恵があるねぇとも思った。キリストが民衆にわかりやすく話をするために用いたたとえ話がしおの記憶にこんな風に蘇るというのもおもしろい話だ。2000年以上前の人の話がしおにも実感として届く。不思議な瞬間だと思った。

長期休暇をもらったものの、外にも出れずしおは暫くぼんやりと過ごしていた。ただただ日常をやっていくことを繰り返した。

そもそもしおの生活は刺激を排除していた。だから対して変わることはない。だけれども、世界が感染症で停滞し、自分の体が通常運行できず、時間だけが重なり積もるという中で、物思いにふけるしかない感じになっていた。

あの時背中を押した手。

あれは一体誰だったのだろう。本当に悪意があったのかわからない。でも確固とした意志は感じた。なぜ私だったんだろう。あの時もしもっと重大な怪我を負っていたらどうなっていたのだろう。もし、死んだりしていたら。人生がおかしくなってしまったかもしれない。またあの駅を使ったら同じ目に遭うだろうか。防犯の為に誰かに相談した方がいいだろうか。いや、大事にするのも何だか気が引ける。

しおはふとした時にそんなことを繰り返し考えていた。考えたってその思考はしおをどこにも連れてはいかないのだけれど。

季節は巡っていた。春が来ようとしていた。

ある日ずっと放置していた郵便受けにますみから絵葉書が届いていたことに気づいた。青い空に堂々と写る富士山の絵葉書だった。

裏にはますみの書いた小さな文字が並んでいた。

しおちゃん

お元気ですか。この前は来てくれてありがとう。会社を辞めること直接伝えられなくてごめんなさい。仕事でも迷惑をかけることになってしまいました。本当にごめんなさい。体調が戻らずこのまま働いていくことができないと思い実家に帰ることにしました。今は体調の良い日はたまに近所の児童養護施設で読み聞かせのボランティアをしています。しおちゃん、長い間お世話になりました。目新しいものは何もないけどもし機会があったら私の家に立ち寄ってください。またいつか。

ますみ

写真の富士山が妙に清々しくしおは急に新鮮な空気を肺に吸い込んだ気がした。

大変だったろう、辛かったろうという想像よりも、新しい生活を始めたのだなという空気を雄大な富士山より感じ取った。

ますみの世界が青く澄んでいるように。

しおはそっと思いを馳せた。

またいつか。

きっと。

会いましょう。




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