SNS依存性レベルの人間がTwitterをなるべく開かないようにしようと決意した1日目
SNSと共に歩んで人生の半分を過ごしたと思う。
毎日のように他人の情報に溢れたタイムラインを追って、見えない沢山の繋がりを見続け、ここに居ない人間の怒りや悲しみ、楽しみを感じ続けた。
ただ僕は他人曰く感受性が豊からしく、共感性も高く、素直な性格らしかった。そのせいでしらず知らずの内に随分と疲れていたらしく、とてもしんどいので、この度Twitterから暫く離れてみることを決意した。
「騒がしい人間がいっぱいいる」
Twitterには人間が沢山いる。普段生活していれば一切触れることの無いような人間達が沢山の自己主張をしている。その多くは独り言であるが、文字というものはさらりと読めてしまう為にその活字を読むことでよもや疲れを覚えてるとはあまり思っていなかった。しかし、現実問題疲れていたらしい。Twitterは周囲に沢山の人間がいて、思い思いのことを話している場所と同じで。僕は騒がしい場所は苦手だということを思い出した。煩いからである。
Twitterを閉じる決意をしたきっかけ
きっかけは友人に「人間はそこまで考えてないよ」と言われたからである。
そもそもキツイ言葉を誰かへ向けて吐き出す現場に居るのが僕は苦手で。現実世界で誰かがクレーム対応を差せられているのを見たり、誰かが怒られているのを見るだけで涙が出そうになるほど苦手だ。
辛いだろうな、大変だろうな、そんなに言わなくてもいいのにな、こうしたらいいのにな……
山のような思考と感情と言葉が溢れてきて、自分の事が疎かになってしまう。自分のことではないのに、自分の事よりもその事が気になってしまう。
現実世界ですらそんな人間が、Twitterなんて場所を見ていたら、それはまぁ疲れるという物なのだ。
僕の異世界、居場所だったTwitter
そんな百害あって一利なしの場所で人生の半分を過ごした理由は一重に「ここが無かったら死ぬ」と本気で思っていたからだ。
僕にとってのTwitterは現実の辛い世界を忘れさせてくれて、たくさんの友人や面白い人がいる異世界だった。
時にはネットの住民とオフラインで会ったりした。新しい好きなことを語る人間と沢山繋がれる、素晴らしいツールだった。
ただ、現実世界では見たことも無い罵倒を受けたり、触れ合うことの無いほどに病んだ人に好かれたりすることもあった。好意というものを受けると好意を返さなくてはと思っていた当時、受け取らなくても良いものや押し付けられた感情も己の物として処理しようとしていたあの頃。それはそれで今を作る経験にはなっているものの、自分の身体を壊してまで、自分の精神をおいつめてまで他人に尽くすものではなかったろうなと思う。そう決心するまでに、人生の半分をかけたんだろう。
他人が暇潰しにするツイートに人生を捧げていた
本来Twitterは呟くものだ。暇な時に軽く五分くらい自分の言いたいことを言って、他人に共感し、余裕の範囲で楽しむものなのだろう。それを起きても風呂に入っても仕事の休憩も寝る前も全て費やしていたのだから、暇という暇が全て他人へ消化されていくのだ。
それは完全に異常だ。
Twitterを開かないようにしてもTwitterを手が開いている。そんなことが日常だった。ひとつのアカウントでの巡回が終われば別のアカウントで違う人と話し、そしてまたその間に溜まった通知を見る。そんな生活だ。心が穏やかになる所か日々無意識の「他人からの目、他人へのストレス」でいっぱいになっていった。
別に返信を必ずしなくてもいい。なるべく早く返さなくてもいい。なぜならこれは仕事ではない。
人から返事が来たら早めに返信しなきゃ、返信したら帰ってくるから寝ずに待ってなきゃ。無意識下で考えてしまう「〜しなきゃ」の個数が明らかに常人のそれを超えていたように思う。他人の悩みを聞き、他人の喜びを聞き、他人の悲しみに反応し、世の中の憤りに踊らされて。穏やかな暮らしがしたい、何故か時間が無い……そう思った理由を、Twitterを閉じると決意した一日目で、やっと客観視することが出来た気がする。仕事じゃないんだな、Twitterって。
自分で制御出来ないなら、見ない方がいい
これは極論だが、Twitterで他人の意見や他人の言葉、反応が気になり過ぎるのを「気にしなきゃいいよ」と言われても無理なのだ。気にしなくて良くてTwitterをやれるような感じであれば、Twitterをやってないのだ。
だから、他人の事を意識するのに疲れたので、Twitterを見ない事にした。他人に反応しないし、見ない。時折呟いて、閉じる。それだけの世界にしようと言う努力を、昨日思い立ってから始めている。
初日、それはもうよく寝れた
聞いて欲しい。すごくよく寝れた。今まで「他人から返信が」「他人の様子を見よう」「他人が」と思っていたTwitterを見なくて良い、と決めたことで自分のことを考えるようになった。その結果、すこぶるよく寝れたのである。今までの不眠を返して欲しいくらいだ。
勿論、眠れない時に話を聞いてくれる人がいる、それはとても自分の中で励みになったものの。逆に言えば構ってくれる人がいないと寝れなくなることにほかならないのだ。それは最近ダイヤモンド社から出版されている"医者が教える赤ちゃん快眠メゾット"を読んで閃いたことである。
あやし過ぎると起きてしまう赤ちゃんは僕だ
本の中には沢山の赤ちゃんを寝かしつける為の習慣や寝室の特徴があったが、最も大切なのは親の対応なのだなと感じる記述があった。要約すると
"寝ぼけたり、泣きぐずりする赤ちゃんを毎回抱き上げて毎回あやし過ぎると寝ぼけてそのまま寝かせておけば寝るような寝ぼけも目覚めてしまう"
というものだった。そして更に
"毎回手厚く起きる度に抱き上げて寝かしつけると慣れてしまい少しの事でも手厚く寝かしつけられなければ寝られなくなる"
ということも書かれていた。ここから発想するに、僕はSNSに母親の寝かし付け的な依存をしていたのでは、と感じたのだ。
母親が居なくても今は自分をあやせる
僕は今一人暮らしだ。他人は居ないが猫がいる。猫に対して遊んでやるのもいい、本を読むのも良いだろう。絵を描くのも楽しいし、趣味の動画編集をすることも楽しいだろうと思う。それが辛くなっていて出来なくなっていた理由は勿論現実世界の話も含まれることも理解するが、SNSの通知や無意識に他人を待つ事によるストレス、焦りなのだろうと今回思った。まだ一日目の感想ではあるものの、あそこまで快眠出来たのが久しぶりで驚いたのだ。
スマホから顔を上げた世界はとても綺麗だった
翌日、僕は用事で外へ出かけていたのだがいつも触ってしまうTwitterを5回ほど我慢しながら外へ行く準備をし、外へ出て、外を見たり本を読んだりしながら過ごし、歩いたりした。
世界はすごく綺麗だった。空は青かったし花が咲いてきていた。道端の物に思いを馳せたり、ぼーっと眺めるだけの「理想の暇な時間」がそこにあった。ただただぼーっとしながら歩くのは幸せな事だと思った。
今後普通の生活を目指す
最近実はSNSのこと以外で普通の人間がする生活を習慣づけたい、と思うようになっていた。
ここで言う普通とは
朝起きて食事をし、余裕を持って出て、遅刻せず余裕を持った時間に到着する。夜は毎日風呂に入り、歯磨きもする。皿も洗う、掃除もする。夜は早めに寝る
そういう自分の理想の生活だ。今まで生きていて満足に出来た日はあまりに少ない。
勿論全部がすぐ上手くいく訳では無い。ただ、SNSを一旦辞めてみて、暇な時間が出来た。一先ずその暇な時間にやることをやってみて、習慣化することが出来ないか?と思った訳だ。まだまだ習慣化には遠い道のりだが、今後も定期的に報告をノートなりにあげていこうと思う。
今まで人に向けてきた分、暇になったので。
猫缶代、いつでも待ってます。