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怒ったっていいし、不安になってもいいし、泣いたっていい。だって人間だもの。

日々些細なことで一喜一憂してしまうことがある。そりゃ、毎日ハッピー!だったら嬉しいのだけれど、そうも都合良くいかない。そんな感情とどうやって付き合っていけば良いのだろうという話。

こんばんは。にゃんちーです。星読み屋さん時々タロット使い。noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。

ネガティブな感情ってダメなの?

例えば怒り。
アンガーマネジメントとか聞く。すぐ怒るやつは未熟だとか言われることもある。まるで、怒りの感情を持つこと自体が悪いことのように感じてしまうのは、私だけだろうか。

ならばどうして、神様は「喜怒哀楽」を全人類にデフォルト設定としたのだろうかと思うわけです。神様がいるかどうかはさておき、感情は喜怒哀楽全てがワンセット。起伏の激しさは人それぞれだけれど、みんな持っているものなのだ。その感情を抱くなというのは、少々無理がある。
大袈裟かもしれないけれど、それは心を失くせと言われているような気がする。なんだか悲しい。

以前にこんなツイートをしました。

喜怒哀楽、どれであれ、何かを感じて心が動くというのは、人間として生きている証なのだろうと思う。

そもそも人の脳は否定形を理解出来ないと言われている。
よくでる例え話はこうだ。
小学校の頃に「廊下は走らない」と先生に注意されるけれど、子供は走ってしまう。御多分に洩れず私もそうだった。先生よ、すまない。この時、脳みそでは何が起こっているのか。まず「走る」と認識し、それを「しない」という形で消去するという感じなのだそうな。ということで、真っ先に「走る」と認識するので、注意されても走っちゃうわけなのだ。

自分の湧き上がる感情を、怒っちゃだめだとか、こんなことで泣いちゃだめ(悲しんじゃだめ)だとか言い聞かせても同じことが起こってしまう。

しかし感情はさらに厄介なのよね。
しては駄目だと考えるのは思考だ。思考で感情を押さえつけていることになってしまう。これは臭いものに蓋をしているようなもので、頭と心がチグハグしてしまい、負の感情はいつしか思考によってパンドラの匣という怪物になってゆくのである。無念。

でも、選ぶことはできる

怒ることが駄目なんじゃない。怒りを瞬間的に吐き出して、他人を傷つけてしまうことが駄目なんだと思うのです。怒って罵倒してしまい、傷ついた相手をみて、さらに自分が傷つくという負のループが完成。ズーン。

だから、感情とその先にとる行動を切り離して考える。

怒りの感情を持っても良い。だって人間だもの。みつを。
だけど、その怒りをブワッと相手にぶつけてしまうのか、それともグッとこらえて我慢して怒りを堪能するのか、もういっそ好きなアイスでも食べて自分のご機嫌をとるのか。
それは自分で選べるはずなのだ!
そして、それは自分で選んで良いのだ!

人は感情でしか動かない。ならば、次にとる行動を変える。不思議だけれど、とった行動によって再び感情は動いていく。
ずーっとネガティブな感情にどっぷり浸かって味わうこともできるし、自分を責めてドMパーティーすることもできるし、ご機嫌とって楽しみを満喫することもできる。行動を変えることは、結果的にその先の自分の感情を変えていくことなのだろうと思う。

そうやって自分の行動も、感情も選んでいくことが出来るのだ。
出来るだけ自分が心地よい感情を選んでいくことが出来たら、割と毎日ご機嫌に過ごせるんだろうと思う。

どんな感情も、心が動いている証拠。
それは人間である証拠。それで良いじゃないか。人間らしくて素敵なんじゃないかなと私は思うのである。まる。


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