「好き」の純粋性①
先日、SNSで知り合った闘病中の友人に会う為の旅行🚄に出かけた。一時退院中の彼女と雰囲気の良いカフェで食事をした後に、彼女が私のウクレレを聴きたいと言ってくれたので彼女の部屋へ行って数曲下手くそな演奏をした。ふと見ると彼女は泣いているではないか。いやいや、私の演奏が感動するほど素晴らしいってわけではないのは自明の事実。遠方から尋ねて来て、生で演奏を聴かせると言う事が涙に繋がったのだろう。しかし「これで、また治療を頑張れる」と言ってくれた彼女の言葉は、生で演奏するという事の力と、こんな私の下手くそな演奏でも誰かの力になれるのだと言う事に驚かされた。そして、純粋に「好き」を追求してきた自分の後半人生にイエスを貰えた瞬間だったのだ。
私がウクレレを始めたのは50代半ばである。若い頃から何か楽器をやりたい欲求はあったものの、音楽にはコンプレックスがあって、どんなに頑張った所で、ものになるはずがないと思って、ずっと手が出せないでいた。
若い頃というのは、とかく何かを始めるのに、それに意味を見出そうとする。誰かの為になるとか、何かの為になるとか、人に認めて貰う為とか…
私も、人に認めて貰いたいと言う承認欲求を満たす為に、これなら何とかなりそうだと言う事しか手を出してこなかったのだ。
そんな私が、コンプレックスのある音楽に手を出したというのは、大きな変化であった。(そのきっかけの話は、また別の機会に…)
音楽のセンスの無い私が音楽をするというのは、純粋に自分の「好き」だけが原動力だ。その純粋性は、側(はた)から見ると「努力」に見える事が、本人にとっては「楽しみ」になる。毎日の練習が楽しくてしょうがないのだ。
意味を求めない純粋な「好き」が私の人生感を明るく変えた瞬間だった。それが嬉しくて、当時、私は「何の役に立たない事をするというのが私のテーマなの」なんて言っていた。後に、それが「好き」の純粋性の追求であったのだと気付いた。
こんなふうに、何の役にも立たない、自分自身を楽しませるだけに続けてきた事だったか、続けていると、時には人の役に立つものなのだという今回の経験を経て、ひょっとしたら、その純粋性こそが、生きる意味に繋がるのかもしれないと思わせてくれた。
これからも「誰かの為」とか「何かの為」とか、ゆめゆめ考えないようにしよう。と、思う私なのである。