ベッキーについて妄想あれこれ~彼にイイコぶっちゃう問題~
先月の『週刊文春』に、ベッキーから届いたという手紙が掲載されていた。
事実の詮索や是非は置いておいて、わたしがこの騒動の当初からずっと感じていたこと・・・「ベッキーにとって、今回の相手の男は心の穴だったんだろうな・・・」ということである。
流出したLINEのやりとりは、不倫真っ最中の温度感で送られたものなのだろうが、圧巻なのは事が公になった後も、不倫相手に対して感情的にならず、健気かつ気丈にも振る舞う彼女の態度だ。
不自然に感じるほどの一貫したスタンスに、空恐ろしいものを感じた。
ベッキーに肩入れするわけでもないし(出来ないし)、サンミュージックに借金があるわけでもないが、さすが生き馬の目を抜く芸能界で17年も生き残ってきた人。その善悪は置いておいて、突き抜けている。
いくら楽観的な気質だとしても、記者会見を開くほどの事態にまで発展すれば、「あんたが優柔不断で脇が甘いせいで、こっちは吊るしもんなんだよ!」くらいのことを言いたくもなる。
いわんやその後に及んでさらに「逆に堂々と出来るキッカケになるかも」とか言われたら、どんなに好きでも「じゃお前も晒し者になれや・・・」と怒髪天ものだ。
「憧れのミュージシャンと不倫」なんて設定はわたしのような身分では想像できない程、ドーパミンがドバドバ出て、思考・感情がマヒするのかもしれない。元来の気質に因るものであるにせよ、そうやって一時の感情に溺れたものであるにせよ、あの状況であの振る舞いは並大抵のメンタルでは出来ないと思うのは買い被りだろうか。
本音や弱音が吐けない関係性は不安を募らせる。恋人だろうが夫婦であろうが「本当に愛し合ってるとは言えないんだろうな・・・」と卑屈になってしまう。
その意味で、ベッキー自身が関係性の危うさを認識し、あえて「恋人未満」だと置きに行っていたとしたら、件の「友達」発言も、本人の認識としてあながち全て嘘じゃないのではと思ったり・・・いや、ホントただのミーハーの勘ぐりなんだけど。
いずれにしろわたしがどうこう言える筋合いはないのだが(じゅうぶん言っとるがな)、この件を見るにつけ、「言いたいことの言えない恋愛はどっちに転んでも地獄谷」と、己の閻魔帳(別名:恋のべからず帳)に鬼の形相で筆圧強めに書き足すのである。
ベッキーがそうだったかどうかはさておき、自己欺瞞を続けながらでもある人と一緒に居たい、という感覚は残念ながら理解できる。
他の人と付き合っているときはそうでもないのに、その人を前にすると、もはや条件反射的に無理したり、媚びたり・・・。心の穴に引っかかっちゃう相手っているんだよなぁ・・・。
私事かつかなり昔のことになるが、ある元彼にわたしは「夜のスターリン」(もはやよく付き合ったな)と呼ばれていたのだが、その数年後に付き合った別のある人はわたしを「女神」と呼んだ。ある友人は、元来誰と付き合ってもマリーアントワネットが大阪のおばちゃんに転生したかのような、極上のワガママと安っぽい世話焼きをある意味黄金バランスで共存させていたのだが、とある別の彼の前では、常に微笑をたたえた壇蜜崩れ(失礼)を演じており、常に彼を立て、動静はたおやか。「彼から古風な女と言われる」というノロケを聞かされた時は友人一同噴飯した。
そして蓋を開けてみると、スターリン時代は数年に及ぶ長期政権を樹立したが、エセ女神は数ヶ月であっけなく自滅。壇蜜崩れもたった三ヶ月あまりでスピード解雇である。
わたしたちはとても落ち込んだ・・・エセ女神&壇蜜崩れ@磯丸水産で、イカの肝をつぶしつつ大反省会である。
当時はとても落ち込んだ。イカの肝かアンコウの肝しか喉を通らないくらい落ち込んだが、3ヶ月後には「いやー、そもそもの初期設定からして無理ゲーでしたわ!」と益々肥大化した肝を座らせホッピー片手に開き直るスターリンとオバネット。
当時その彼に支配的な態度を取られ、自分は唇噛み噛み我慢していたかというと、そんなことはない。その人に好かれたくて、好意的な反応が嬉しくて、もう条件反射的に常にポジティブな態度を取り続けたのはわたしの依存心からである。最後の女に選んでもらいたかったのかもしれない。
相手の理想(というか都合の良い)の女性像を演じ、媚びることである程度関係は継続するかもしれない。でも泣いたり怒ったり「感情を持つ生身のわたし」が生き場を失くしてしまう。「好きなら仕方ないじゃん。」その通りなのだけど、アラサー以上の身にはこれが結構しんどくて、首が詰まるのだ。
・・・なんかベッキーの話から自分の話に・・・畏れ多くも前座にしてすみません・・・。
話が拡散してしまったけれど、ベッキーが今回最終的に出会ったものが、びっくりキノコ頭の男性ではなくて、初めて出会った己自身、であったら良いなと思う。
【以下中村うさぎさんのインタビュー記事を引用】
―依存をしたことですごくいい体験をしたことはありますか?
中村:恋愛で男に依存したことで、いい経験をしたことなんて一度もないと思う。
依存って執着なので、しすぎると苦しいからね…。
しいていうとしたら「私ってこんなにばかなんだなー」と最も醜い自分と出会ってしまう体験ができることかな。
そういうコントロールできない自分を発見していくことは、とても貴重だと思うんですよ。恋愛って最も自分を知るチャンスだと思うのね。
やっぱり人ってきれいごとをいってしまうし、きれいごとを言っている自分が本当の自分だと思ってしまう。心の中でドロドロしたことを思っていても、そんなことは口には出さないし態度にも出さず、そんなこと思っちゃだめ! って自分に言い聞かせて、もっとポジティブに考えよう!とかさ。そんなことができる間は依存じゃないから。
でも恋愛でバカになって、私はこんなに愚かだし、こんなに醜いし、こんなに視野が狭くて、だめな人間なんだ、ということをちゃんと知らないといけないと思うんだよ。
自分をきれいにきれいに美化したままでいたら、「己を知らない」という理由でどっかでつまずくから。
「人間って『自分がいかに下らない人間か』ということを思い知ることで、スーッと楽にもなれるんじゃないかな」とは敬愛してやまないかのタモさんの名言である。もしかしたら自然体とは、己の醜悪さに気付いたその先にしか無いものかもしれない。
・・・と、ここまで書いてベッキーが昨夜のテレビ番組に出演したことを知った。
[http://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/1605/13/news150.html:title]
特にファンではないし、フォロワーシップも持ち合わせていないけれど、同世代の同性として、お互い少しでも生きやすく生きれたらいいよなぁ、と一方的に思う。
醜くてどうしようもなくても、自分自身を抱き締めずにはいられない。周りにその醜さを気づかれてるんじゃないかとビクビクしながら(そして大概気付かれている)、だけど時々その醜さのおかげで愛されながら、生きていく。
まぁそれこそ友人でも何でもないので、一方的な妄想なんだけれど・・・。男は縦幅・女は横幅、最終的には経験の幅がそのまま魅力になる。「男女のもつれは芸と女の肥やし」と陰ながらエールを送りたい。