播磨紀行-姫路城を訪ねて
2017年の秋に姫路城を訪れる機会を得ましたが、城が軍事施設であるという前提でミリオタ的な雑感です。日本と西洋の「城」については、近世軍事史的にも大きく相違があり、対比させると以下のとおりです。
日本の「城」は巻き込み(渦巻型)防御構造
高低差のある地形を活用し、敵の侵入可能な経路を限定させます。(ただし、姫路城は地形を活かし切ってない点が重要)このため、平時で危険分子が入り込みやすく、平時の警備コストが大きいのが特徴です。一方で本格的な防御戦闘は、敵を誘い込みつつ撃破ます。街全体が戦場になりますが、適宜反撃作戦を実施しやすいりてんがあります。城の入口から中枢部までは部署の重要性に応じ多層な阻止線を構築できる点が特徴です。
西洋の「城」は全周防衛(同心円)防御構造(=城塞都市)
平地において敵の襲来を予測することを困難です。平時においては街全体を盗賊などから防衛するには最適で、平時警備コストは小さいことが特徴です。本格的な防御戦闘も籠城戦だけで、外縁の防衛線が打破されない限り、街が戦場にはなりません。ただし、外郭の防御線が突破された場合、更に内側の防御線に撤退しさらに籠城することになります。内側からの反攻作戦はほとんど不可能です。入口の防衛は厳しいものの内部への侵入を許せばきわめて脆弱な体制です。
日本の場合は、軍事的緊張がピークだった関ヶ原の戦い(1600年)前後-大坂夏の陣(1620年)以降は江戸時代の平和が続き、「城」は軍事目的で使用されることが結局ありませんでした。この結果「城下町」という世界にはない日本独自の文化が生まれました。従って当初の軍事目的としての用途は忘れ去られたという事情があります。
一方で、西洋の近世の「城」の構造は、近代西洋における政治思想・法制度・都市行政・軍事に実は発想としての根底にあったりもします。大きく影響を与えている側面があり、実は西洋史の理解のポイントでもある点がじゅうようかもしれません。
城をめぐる地形
また城をめぐる地形にも注目してみましょう。
他の名古屋・熊本などの名城は河川や起伏が読み取れるが姫路城を軍事拠点として見た場合には、これがありません。当初より、城を出ての野戦を想定していると考えられます。むしろ籠城戦には向いていないのではないでしょうか。
白鷺城と言える「白さ」での強烈な政治的なアピール(豊臣は終了で、これから徳川の平和)を印象付ける狙いではないか、というのが私見です。
もうひとつ驚いたのは付近の防御手薄と近さです。城の北西に男山(標高57m)があって、城の中心から300m程度しかありません。男山の防御自体が手薄になっています。近世初期の火力でも、ここから攻撃を加えれば有効な射程距離(殺傷能力は50mとしても)には入ります。
実際、幕末に薩長側についた岡山藩から攻撃され籠城に至ったことが実はあるのですが、その際も男山を奪取され、大砲による攻撃を受ました。これであっけなく降伏に至っています。