岡崎から視る「どうする家康」#7静岡で得たもの
家康は3歳から18歳の15年近くを静岡で過ごしています。「人質で苦労」と言うのは全く当たりません。
岡崎でのイメージは「幼少期の静岡での我慢」ですが大ウソです。
今川の保護下でエリート教育を受けてきたのです。今で言うなら「家庭教師付の名門私立の小中高」という感じです。
しかも名門・今川ファミリーの瀬名(有村架純さん)までついてます。有村架純さんは静岡市の名門企業「はごろもフーズ」でシーチキンのCMも出てます。家康も駿府では瀬名の朝ごはんをしっかり食べてたのでしょうか。
と思いきや家康はがっつり「どうする晩御飯」を1人で作ってます。家康と瀬名(築山)の2人のすれ違いの予感をCMから読み取ってはいけません。
そんなことはさておき、静岡で学んできたことをマジメに考えてみたいと思います。
名古屋の蓬左文庫(徳川園・徳川美術館)
「家康は学問好き」と言われています。幕府のヨイショはあるとしても、これは本当だと思います。名古屋は九男の義直を入れて尾張徳川家としていますが、家康の死去に伴い蔵書を譲渡されています。その数3000冊。これを「駿河御譲本」と言います。これを発展させたのが今の名古屋市の徳川園にある「蓬左文庫」です。
なお、紀伊徳川(和歌山)や水戸徳川(水戸)にも遺産相続のように譲渡されました。そちらは無くなり現在はありません。分割譲渡の前は1万冊と推定されています。
1万冊蔵書している今の政治家や経営者いるでしょうか。しかも当時と今では1万冊の持つ「重み」は違います。
ちなみにトランプ大統領の下で国防長官だった「戦う修道士」ジェームズ・マティス氏は蔵書7000冊だそうです。リストもさすがにレベルが高い。
しかし、家康も1万冊を全部読んだのかと言うと、そうではないと思います。ただ「1万冊の書籍の価値」が分かるのは、それだけ知識を得ることになじんできたという証拠です。
50・60代になって突然読書始めた政治家や経営者はいません。この読書する上での岩盤の基礎教養や知的習慣が幼少時に静岡で得た最大のもの、ではないでしょうか。
当時の静岡の教育文化の環境は最高
当時の静岡の文化環境を考えてみましょう。応仁の乱で京都は荒廃し公家や僧侶は地方に下向します。そこで和歌を教えたり文化普及事業で稼いでいました。時代は少し前の応仁の乱ですが岐阜県郡上市も同様です。
静岡にも京都から公家来ていました。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で石橋凌さん演じる「三條西実澄」(実隆)も今川で和歌を教えるなどのアルバイトしていました。
教育文化の環境は静岡は地方として最高レベルに整っていたと言えます。仮に「人質」にならず岡崎で幼少期を過ごしていたら、このような好学には育ちません。
その意味で、語りの寺島しのぶさんには申し訳ないですが眞秀くんの演じる信康の岡崎での教育文化の環境は貧弱で、家康と違って恵まれなかったと思います。(こんなこと書いて岡崎市教育委員会から抗議来たら「どうしよう家康」)
当時の読書での僧侶の役割
当時の読書はどんな感じでしょうか。今とは違って白文(漢字だけの「漢文」)を読むことになります。現在の感覚だと、英文を読んでいる感覚でしょうか。
ここで登場するのは僧侶です。江戸時代と江戸以前の違いはここです。中世では知識が仏教界の専売特許のような状況になっていた点は重要です。
読書(英文解釈)と言うより「本の内容について僧侶の説明を聴く」感覚です。今で言うと「池上彰の番組で知識を得る」ような感じです。
NHKの「100分で名著」も近い感じでしょうか。
老齢になった家康は藤原惺窩(相国寺僧侶)からも講義を受けています。
ここから江戸の儒学の隆盛が始まり、知識の仏教界独占を切り崩したとも言えます。藤原惺窩の弟子が林羅山です。建仁寺僧侶だったのをさっさとやめて家康に仕えて、代々「大学頭」になります。
ついでに林羅山は「源氏物語」を「ポルノ小説」とこき下ろした歴史的人物ですので「大河ドラマの次回作の商売敵」になります。「どうする家康」の最終盤では出演NGかな。「どうするNHK」
さらについでに下呂温泉を「日本三大温泉」に認定した温泉マニア。下呂温泉に銅像があります。ナゼか猿と遊んでいます。「サル知恵」とかは自粛。
そんなことはともかく、「読書」は現在のように「読む」のではなく、解説付きで内容を把握するという理解で良いと思います。
静岡で何を「読んだ」のか
どうも家康は和歌や連歌など、風流なものはあまり興味なかった感じです。当時の和歌のプロ・三條西実澄が静岡にいたのでもっとマジメにやっていれば和歌が多く残っているはずですが、後世に残る和歌はあまりありません。
何に興味ありそうかというと、政治ノウハウや兵学ものです。後年、藤原惺窩には『貞観政要』を講義させています。
これは、青年期に聞いた内容をもう一度、というとことではないでしょうか。老齢で突如何もないところから関心が出るとは思えません。
ちょうど大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条泰時(坂口健太郎さん)が「まだ日が高いので『貞観政要』を読みます」というシーンもありました。
ちょうど泰時が出たので。歴史書は後年『吾妻鑑』を愛読していたようです。『吾妻鑑』というと、北条御用達の歴史書で泰時が超善人の北条プロパガンダ本ですが、政治ノウハウそのものです。朝廷との対応についての先行事例研究として読めるからです。これも静岡で地理的に『吾妻鑑』が入手しやすかったのかもしれません。
また『孫子』も内容のエッセンスを聞いていそうな感じもします。
武田信玄は「風林火山」が有名ですが『孫子』が出典です。山梨県で読者がいるならルート営業的に静岡でも入手可能だったように思います。
さらに六韜三略なども当然のように「読んで」いたように想像します。
なぜかというと、関ケ原の合戦の翌年の慶長4(1594)年に木活字で『孔子家語』と『六韜三略』をまず出版、続いて『貞観政要』『東鑑(吾妻鏡)』『周易』『武経七書』を出版させています。ここから見ても、関心がいきなり出る方が不自然です。
「実学」志向とその後
どんな科目を得意科目にしていたのか。
しかも政治運営・兵学というか、今風に言うと「経営学」「ファイナンス」「行政法」「軍事学」のような「実学志向」の科目が好きで風流な文化を感じる科目はちょっと苦手な感じです。
「今川は文弱」のイメージは江戸時代にもありますが、ひょっとしたら家康がそうした風流なものを「苦手科目」だったことの反映とも言えるかもしれません。
しかし、風流な和歌は作らなくても(作れなくても)「天皇・朝廷」の権威について理解する下地が、三條西実澄らの静岡滞在や吾妻鏡での朝廷対応の研究など、静岡で「実学」として得ていたとみています。ここが重要です。
これが、全三河掌握後の「三河守叙任」や徳川改姓での朝廷工作に結実し、最後は将軍宣下の根回しに発展していくように思います。