ゴーン逃亡から見るレバノン
カルロス・ゴーン氏が年末に大脱走して、はやくも2年経ちます。逃亡先のレバンノも安住の地ではないようです。
レバノンにおけるマロン派キリスト教の存在は見逃せません。マロン派は中東アラブ世界のレバノンで大きな勢力を持つキリスト教徒(ローマ=カトリック教会)の一派です。
親西欧の立場で、イスラーム教徒であるパレスチナ難民と対立し、たびたび虐殺事件などを起こしています。
もともとは5世紀初めに東ローマ帝国内で分化したキリスト教の一派で、4 - 5世紀のアンティオキアで活動した聖マールーン(聖マロン、en:Maron)を始祖としています。
この地にイスラーム教が入ってくると、迫害を逃れてレバノンの山中で共同体をつくって生活し、キリスト教信仰を守ったとされています。十字軍がやってくるとその味方をしてイスラーム軍と戦い、東方教会(ギリシア正教会)の祭式と儀礼を守りながらローマ教皇に帰属するという特殊な信仰形態を持つようになったようです。
その後レバノンではイスラーム教シーア派のドゥルーズ派が勢力をまし、両派は混在しながら対立を続けていました。
第一次世界大戦後には、フランスがシリアとレバノンを支配するようになります。フランスは、同じカトリック系統であるマロン派を当然優遇しました。
これが、今日のレバノンの政治制度(大統領をマロン派から選ぶなど)につながっています。(大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出されるのが慣例のようです。)
レバノンが独立国家になる際は、アラブの国として生きていくか(アラブ主義)、特殊な国として生きていくか(レバノン主義)での対立になります。マロン派の多くは、レバノン主義を支持しています。
彼らの主張の根拠が、「レバノン人の起源はフェニキア人にある」という考え方です。このフェニキア主義は、19世紀後半に現れ、フランス政府やカトリックの突撃隊とも言うべきイエスズ会が学校教育を通じて広めていました。
「レバノン人は地中海で活動する海洋民族だったのであり、今後も西を向いて生きてゆくべきだ」とする考え方です。こうしてキリスト教徒であるためフランスと関係が強く、レバノン独立後も経済的にはマロン派が支配しています。
ただ、イスラーム教とのシーア派、スンナ派と三つどもえの対立をつづける中、「ファランジスト」という民兵組織を持ち、たびたびイスラーム勢力と戦っています。
しかも、レバノン内戦は17年続いており、この混乱がレバノン移民を産んだわけです。この「なれの果て」とも言えるのがカルロス・ゴーン氏。
失礼ながらいかにも成り上がり者の金のセコさ意地汚さを見させられているようにも思えますが、彼ら自身フランスのオモチャにされたのが、ちょうど100年前の一次大戦でした。しかし、彼によってオモチャにされたのが、日産だったが、報復でオモチャのような脱出劇を見せました。
ちなみにレバノン(政府)軍は、軍用車両で、ルノーを採用していません。
一方でフェニキアを想起すると、フェニキア人は紀元前12世紀に、現在の南部レバノンのティルスなどの沿岸諸都市を中心として地中海の制覇に乗り出しました。
彼らはアフリカ北岸に沿って西に交易圏を拡大し、紀元前814年には現在のチュニスの沿岸に植民都市カルタゴを建設。地中海の港湾都市は、フェニキア人が植民した交易基地から発展したものが点々と存在しています。
考えてみれば、フェニキアの伝統は商売に長けていることなのかもしれません。ゴーンの騒動は、そんな歴史に翻弄された一端にも思えてきます。
トップ画像はレバノンスギ。この木材が造船を可能にして、フェニキアの繁栄をもたらしていた。