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加越能紀行④高岡銅器の知られざる「兵器製造」

 

 高岡銅器の起源は1609年、加賀藩主の前田利長が高岡入城し、高岡開市の際に金森弥右衛門ほか7人の鋳造師を呼び寄せたことに始まる。しかし、仏具や工芸品を平和に作ってきただけにとどまらないことは軍事の専門家にしか知られていない。


 幕末の高岡の鋳物師には既に他藩の大筒を製作した経験があった。1846年(弘化3年)に鋳物師藤田勘右衛門は丹後国宮津藩大筒鋳造の仕事を紹介され請負の記録もある。加賀藩の火術方役所(壮猶館)初代奉行の大橋作之進は、元高岡町奉行で西洋火術にも通じている人物だった。そのつながりから、1853年(嘉永6年)7月のペリー来航を受けた直後から火術方役所より「玉」や「野戦筒」の発注が高岡の鋳物師たちに次々に舞い込む。「玉」「野戦筒」の受注を受け、金沢まで納入している(大筒の図面も複数現存) 。

1854年(嘉永7年)金沢に陸路運んで検査を受けたが、不良箇所があったため、一旦持ち帰り、改めて納入している。(下請メーカーの悲哀が当時にもあったと思うと笑える) 

ここで注目すべきは、品質管理として受入検査で寸法測定等のノウハウと実施できる体制が、加賀藩の壮猶館に既に存在していたことだ。

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金沢市壮猶館跡

 ちなみに、島田一郎と言っても誰も分からないだろうが、大久保利通暗殺事件の首謀者だが、この猶猶館のOBだ。猶猶館で洋式兵術を学び、戊辰戦争の戦功で藩兵隊の士官になったが廃藩置県後に解職。いわゆる不平士族だったが、洋式兵術を学んでも結局活かせなかった悲哀にも感じる。

 また、この壮猶館の西洋砲術師範として活躍していたのが佐野鼎と言い、開成学園(開成高・中学校)の創設者でもある。

 戊辰戦争前後では高岡では鋳物師たちにより小銃弾が製造され、兵器の一大製造地になっていた。実際、加賀藩もゲーベル銃やエンフィールド銃の購入もしている。

 当然弾薬も加賀藩では黒色火薬は内製できるプラントを保有しており、十分供給可能だった

官軍の長岡攻撃に際して、高岡鋳物師は兵器と弾丸の引渡しを求められた。その折に明確な返事をしなかった(要するに今風に言う営業トークのあいまい回答)金森家などの鋳物師の多くは、このため、長岡陥落後に身の危険を感じた。兵器関係の書類を焼却し、妻子を残して伏木港より船で脱出し、函館で榎本武揚と合流し、五稜郭で戦う。

五稜郭での敗北後は当然、辛酸を舐める。明治10年頃に高岡に戻り、銅器生産を再開する。これが、高岡での金森藤平(株)などに至る。歴史に翻弄されてきた銅器の重みは、質量とは異なり軽くはない。

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