岡崎から眺めるG7広島サミット:中国ロシアと向き合う「舞台」
広島で開催されるG7サミット
広島でサミットが開催されます。地元の岸田総理は当然ですが並々ならぬ意気込みです。メッセージにも力が入っています
さて、会場となるのはグランドプリンスホテル広島です。広島市の南で海に面した宇品地区のホテルです。この「宇品」が今回のサミットの隠れたキーワードです。
「原爆投下・平和の街」広島
G7サミットに広島を選んだのは、岸田総理の地元だからと言うのもありますが、原爆・平和の街だからと言うことは誰しも思うところだと思います。
ロシア・中国と対峙する時局の偶然
折しも、ウクライナでの戦争があり、岸田総理のウクライナ訪問。ちょうど時期を併せて、習近平総書記がロシアを訪問しています。対称的な光景になり、「日本が中国・ロシアと対峙する」構図になっています。
サミットの開催日程も興味深い。5/19-21です。5月27日は日露戦争・日本海海戦記念日です。
なぜ原爆は広島なのか。「軍都広島」
ところで、なぜ原爆投下は広島だったのか。
簡単に言えば、広島が戦前日本での軍事上の一大拠点だったからです。「軍都広島」だからです。話は明治維新にさかのぼります。
広島の「軍事的価値」
そもそも広島の軍事的価値に着目したのが児玉源太郎のようです。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の高橋英樹さんの熱演が思いだされます。
①地形上の有利
広島湾は、瀬戸内海のなかでも、さらに「奥まった」地形です。敵国海軍から脅かされるリスクはほとんどありません。空襲は別として大東亜戦争でも海からの攻撃は受けていません。
②朝鮮半島との近さ
清国ロシアの脅威は明治初年から当然意識されていましたが、同時に朝鮮半島で作戦を展開しなければ不利と認識されていました。清国・ロシアとは、朝鮮半島・満洲での「決戦」が妥当と言う判断です。これを道徳的心情で論じるのは無意味です。リアルポリティックスの当時として最もコストの少ない選択肢がそうだっただけです。満洲の緒戦で迅速に数的優勢を得るためにはできるだけ半島に近い地点から出港させ、短時間で兵力を動員する必要があります。
この2つの条件を満たすのが広島宇品港です。兵力動員での必要なのは鉄道ですが、突貫工事で日清戦争開戦の明治27年に広島まで開業させました。
陸軍第5師団の拠点があったこと、そして宇品港が事実上軍港として整備されていたことから、広島が臨戦地となりました。明治天皇・政府高官も広島に滞在。事実上首都として機能し、帝国議会も広島で開会されています。
こうした背景で「清国(≒中国)とロシアと対峙する拠点としての広島」という面が見えてくると思います。そこに今回のサミットの意義を感じます。
「しゃもじ」は日清日露戦争が契機
日清日露戦争多くの若者が朝鮮半島や満洲の戦地に出征しました。終結した広島で兵士が戦地に出征する前に厳島神社に来て、しゃもじを奉納しました。しゃもじが「飯とる」ものだから、戦地で「敵を召し取る」という縁起だからです。戦地に赴く前の最後の家族旅行で武運長久を祈る。その時にしゃもじを購入し奉納しました。絵馬に願い事を書いて奉納すると同じです。
ちょうど今回、岸田総理はウクライナ訪問で「しゃもじ」を持参しました。持参したしゃもじには重い意味が込められています。
宇品港の築港
原爆が落とされた「軍都広島市」は日本の随一の「陸軍専用軍港宇品」なしでは説明がつきません。そもそも宇品築港を指揮したのは、明治13年に広島県令になった千田貞暁です。千田は幕末の薩英戦争から会津まで従軍した元薩摩藩士。
千田は広島県令として産品の輸出のために近代的な港湾整備が必要だと考えたようです。宇品から15km離れた海岸には並行して海軍が呉軍港を造成していました。現在の呉基地です。もちろん軍港は民生用には利用できません。
工事にあたって呉港の造成で人夫が取られ、千田は私費で乞食を雇って人夫を増やしたという逸話もあります。工事は5年3か月で完成しましたが、落成(明治23年4月)の直前に、千田は新潟県知事に左遷されています。予算超過で国庫に余分な支出を強いた杜撰計画で年俸減給もされています。
【追記】宇品港の現在の画像はNori3さんのポストが興味深いのでご参照下さい。
費用と技術上の難点
当時の港湾建設で重要なことは工事をできるだけ一気呵成に短期間で完成させてしまうことでした。波は凄まじいパワーです。工事途中の状態で波がその間に基礎部分を徐々に掘り崩し、次の施工段階へ進めません。工事費だけ無駄に増えます。迅速な工事のためには、江戸時代のようなマンパワーの数だけではどうにもなりません。
ここで画期的な活躍をしたのが三和土(たたき)です。「たたき」はセメントがなかった時代に、地面を固めるために使われていました。現在でもやわらかい感触が好まれ住宅向けに使用されています。
日本では明治時代に既存の三和土を改良した人造石工法が、湾港建築や用水路開削などの大規模工事にも用いられました。広島の宇品築港でも最新のセメント技術での築港を考え見積したようですが、余りの高額に手が出なかったところです。お雇い外国人ムルテル(フランス人)の見積が、申し訳ないですが「ボッタクリ」金額。
「長七たたき」の活躍
ここで手を挙げたのが愛知県碧南出身の服部長七でした。長七の評伝については神野新田のHPをご参照ください。
「長七たたき」は水中でも固まる人造石の特性から、海岸や河川の堤防工事に使用できると考え、明治初期に安価な工事実績をあげました。これをもとに工事計画を提示。明治16年見積書提出。明治17年受注。明治22年完成。詳細の経緯はこちらです。
ただ難工事は間違いなく、実は見積超過分は自腹切った分もあったようです。(もっとも受注目当てに安く見積すぎだろ、というツッコミもありますが)このあと陸軍が宇品港を軍用港として使用するようになり、千田貞暁も服部長七も高く評価されることになります。
なお、服部長七の工事実績は多く、岡崎市の近辺では明治用水頭首工も請負っています。明治42年完成。現在の頭首工完成の昭和33年まで50年間、長七の旧頭首工は矢作川の水勢に耐え役目を果たしました。
一方、昭和33年完成の現在の明治用水頭首工は64年後の令和4年に大規模漏水。服部長七が見たら何と言うでしょう。
広島と宇品港:日清日露戦争と防疫
さて、今回のサミットの会場「グランドプリンスホテル広島」は、この宇品港にあった造船工場の跡地です。この宇品港が無ければ日清日露戦争での勝因の一つである「緒戦での迅速な兵力動員」ができませんでした。
そして、日清戦争・日露戦争から帰国する兵士たちが一刻も早く帰郷したいところを防疫で隔離したのが宇品のすぐ南にある似島です。
この立役者が後藤新平。日清戦争後に疫病の蔓延を阻止した地点としても、日本の「防疫史」のシンボルでもあります。「アフター・コロナ」と「防疫検疫」を国際的にG7が論じる舞台としてふさわしいと言えます。
それだけに宇品港の建設にあっての「長七たたき」の服部長七の貢献は巨大なものがあります。
服部長七の岩津天神への信仰
この服部長七が信仰していたのが、岡崎市岩津にある「岩津天満宮」です。
服部長七の功績も岩津天神で紹介されています。実業を引退後に岩津天神の宮司として余生を過ごしています。
なお、岡崎市役所では名誉市民としてたった1行だけの紹介です。繰り返しますが、たった1行です。
服部長七が岡崎から眺めるG7
広島サミットでただ「平和」「核兵器廃絶」を絶叫するのでは意味がありません。「中国ロシアと対峙した拠点」としての広島、それも宇品港に位置するサミット会場は単なる偶然ではありません。
岡崎から眺めるとサミット会場の宇品港建設に尽力した「服部長七」の貢献に注目して欲しいところです。
岡崎市の岩津天神から服部長七がG7を自慢げに見守ることでしょう。
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