岡崎から視る「どうする家康」#13「平和の配当」軍事技術の転用
この連載では、繰り返し「徳川の平和」Pax Tokugawana「250年の平和」の原点としての「岡崎」を強調してきました。
「平和」には「配当」があります。「平和の配当」という発想に違和感があるのは、それだけ「徳川の平和」が長らく日本の発想に強く影響しているからです。
戦国時代は戦いばかりです。そんな中に「技術」を見いだし、平和な時代に産業として開花させた経緯を考え、徳川による「平和の配当」を「岡崎から」考えてみたいと思います。
技術での軍事と民生の関係
私は「平和」を絶叫することに満足する「平和主義者」と称する偽善者が大嫌いです。日本学術会議という邪魔な団体があります。軍事技術の研究を一貫して反対しています。
しかし、これは全く軍事と民生の関係の歴史を見ていない議論です。技術において、軍事と民生は切り離せず、相互乗入の関係だったからです。日本学術会議による反対声明は「学者の政治的動機による反対ごっご」に過ぎません。軍事と民生の関係で実例をあげましょう。
サランラップは戦争から
「サランラップ」はアメリカのダウ・ケミカルの開発です。はじめから食品用に開発されたものではなく、軍事用に開発されたものでした。戦争の時、湿度の高いところで銃や弾丸、火薬などが使えなくならないよう、湿気から守るために包装用のフィルムとして使われていました。
戦後ダウ・ケミカルの二人の技術者がピクニックに行った時にラップでレタスを包んで行ったときに、食品の保管としての用途に注目し、食品用ラップとして販売しました。商品名は食品用に使うことに気付いた二人の技術者の奥さんサラ(Sarah)とアン(Ann)の名前にちなんで「サランラップ(Saran Wrap)」です。
掃除ロボット・ルンバも地雷除去から
有名な『ルンバ』は、アメリカのロボットメーカーであるアイロボット社が1990年代に国防総省向けに開発した「地雷探知ロボット」をベースに製作されています。段差から落ちたり、障害物を避けたりするといった高度なプログラムやセンサー技術はその転用です。
一方で日本では対人地雷禁止条約のキャンペーンが1990年代後半に起きましたが地雷の禁止・反対を言うことに満足していただけでした。除去の自動ロボットを開発する方が平和的で生産的に思います。現在ではコマツの地雷除去ロボットが開発されています。
軍事と民生のスピンオン・スピンオフ
これに限らず、軍事技術を民生に転用することをスピンオフ、その逆をスピンオンと一般的に呼んでいます。
スピンオフの事例
コンピュータ:弾道弾の計算を目的に実用化
原子炉:原爆開発が先行して民生の原子力発電に発展
ロケット:ミサイル開発のあとに人工衛星打ち上げに発展
GPS:軍用だったものをカーナビなどに活用
インターネット:もともと軍用として開発
スピンオンの事例
鉄条網:はじめは害獣よけだったが軍事で陣地構築に使用
ウクライナでの戦争・160年前のクリミア戦争
現在、ウクライナ、クリミア半島で戦闘が続いていますが、今から160年前のクリミア戦争でも、カーディガン、天気予報、看護師、統計などの開発の契機になっています。拙稿をご参照ください。
学術会議のセンセイ方には軍事技術の恩恵を受けた商品は一切使用せずに生活すべきです。
デュアルユースの経済安全保障
ただ、現在の先端技術はどちらにも利用可能なものが増えました。スピンオフ・スピンオンの両面で「デュアルユース」と呼ばれています。わかりやすいのが、ドローンです。ウクライナでドローンが活躍しています。
こういった軍事と民生の技術を同盟国も巻き込んでどう扱うか、が現在議論にされている「経済安全保障」の一つです。
「どうする家康」の時代も同じことが起きている
さて、「どうする家康」の時代にも同じことが起きています。軍事での技術の向上が、平和な江戸時代にさらに発展し開花した、ということです。「どうする家康」ではドラマとしては場面にならないので出てきませんが、家康が天下人になれた原動力としての岡崎の技術力や産業力と関連して考えたいと思います。
治水・利水のノウハウは築城技術から
「城」は軍事基地です。この当たり前の事実を忘れていませんでしょうか。
堀を開削し、水を引いて水堀にするのには測量の技術がまず必要です。土木作業での人員確保としては農繁期は人が集まらず、雨天は工事できないので労務管理も必要です。短期間で効率的に土砂や石を移動配置するので工程管理のノウハウも求められます。
今の企業で言う「マネジメント」「管理」そのものです。
戦国時代は、戦もあるので短期間で水堀を作る必要があります。このノウハウが堤防を築いたり、河川を開削する際に活用されます。岡崎では家康の前から治水には力を入れています。これも築城での軍事技術の民生転用とも言えます。堀に水を引く技術は用水開削によって、豊かな水田を作ります。
岡崎城の南・菅生川端石垣は3代将軍家光のころの寛永年間(1624〜43)に築造されています。菅生川端石垣は全長約400mです。切れ目のない直線的な石垣城壁としては日本最長級です。名古屋城・熊本城・大阪城など威圧感で見せる石垣ではなく、治水を目的とした石垣です。これも家康の時代前後の築城技術を基盤にしています。
石材加工は築城に必要な軍事技術
岡崎市は石材加工でも有名な街です。石材加工に適する優れた花崗石が近くで採取できたことが背景にあります。
この石材加工は築城の際に必要な石垣を作るのに不可欠な技術です。
岡崎の石工の歴史は家康の関東移封に伴い岡崎に来た田中吉政が、城下町の石垣や堀などの建設に河内や和泉から呼び寄せたことに始まるとされています。これは家康の時代の前後からある程度石材の切り出しなど技術の基盤の上に技術が高度化されたと見るべきです。岡崎の中根石材さんの動画を参照下さい。
ちなみに、大名庭園などで雪見灯籠があります。江戸時代に岡崎での受注・製造もあるようです。石材を加工するノミをつくる製鉄などの技術も必要です。
それゆえ精巧な石灯籠は石材加工の技術を誇示する意味があります。当時の軍事技術のレベルを証明しているのと同じだからです。
今でも石灯籠の値段はいい感じですが、これを購入するなら運搬を含め経済力の誇示、自力で作るなら「軍事技術力の誇示」です。金沢の兼六園など、各地の城や大名庭園の灯籠はそうした観点で見る必要があります。
花火は火縄銃の火薬の平和転用
岡崎の花火は有名です。由来をたどると、火縄銃での火薬の平和転用です。
火縄銃の存在が非常に危険なので、今で言う規制保護産業として発展したのが花火です。岡崎はじめ三河や遠州なら幕府に対する謀反のリスクが少ないからです。当初の目的の規制制度が独り歩きを始め利権化・特権化することは今の日本でもしばしば見られますが、その良い面かもしれません。
火薬について。火縄銃に用いるのは硝石(硝酸カリウムを主とした硫黄、木炭などの混合物)です。日本ではほとんど産出しないので初めは輸入していましたが、後に土中から硝酸塩を取り出して作る塩硝により国産化されます。紀州(和歌山県)の根来寺など、戦国時代には火縄銃で有力でしたが、この硝酸塩の生成のノウハウを把握していたようです。
なお硝石について、制度上は三河などしか作ってないはずですが、加賀前田家(石川県)では合掌造りの五箇山で硝石を隠れて製造していました。加賀の前田は文化的で平和的なイメージですが全く違います。
三河木綿が火縄銃にも使われたか?
三河は木綿の産地でした。
『類聚国史』799年や『日本後記』840年によると崑崙人(東南アジア?)が現在の西尾市福地に綿種を持って漂着。これが日本の綿の伝来という伝承ですが、その後の製造と継続が確認できません。西尾市に神社があります。
国産木綿が初めて文献で確認できるのは、永正7年(1510)に興福寺大乗院に残る「永正年忠記」に年貢180文相当として「三川木綿」をとったとして記されています。最初に綿業が根を下ろした土地は三河であり、家康の祖父清康の永正年間(1504~1520)既に綿織物業が興っていたことが確認できます。江戸時代には三河で綿の栽培と綿織物が盛んになり、「三白木綿」として江戸に送られています。
なぜここで木綿なのか。火縄銃との関係です。
火縄銃は西洋のマッチロック式マスケットと同様なので点火用に導火線を付けます。また浸みこませる薬剤は花火で述べた硝石です。ゆっくり燃える必要があるので細い紐を縒り合わせてあります。これが火縄です。
一方で、火縄は火が消えやすい弱点があります。ここで木綿の出番です。当初は麻が使用されていましたが綿の紐に変化したのは紐の中に火薬を入れることで燃焼力も上がり、湿度に対しても強いからです。
長篠の合戦は現在の暦で6月29日。梅雨真っただ中。雨天でなくても湿度が高い時期です。ここで麻より湿度に強い三河木綿の火縄が役に立ち、勝利に貢献したのかもしれない、という私の勝手な想像です。雨だったら火縄銃が全く使えずに勝敗逆転したかもしれません。
なお木綿は衣服には肌触りが良い特徴があります。徳川改姓や三河守叙任での朝廷へ根回し工作する際の公家へのワイロアイテムにもなっていたに違いありません。
家康の時代の軍事技術は「平和の配当」としての岡崎の産業を支える
現在にも続く岡崎の産業の端緒がこの「どうする家康」の戦国時代の軍事技術との関係と言う観点で考え、ドラマと岡崎がより身近に感じられるのではないか、という「愚管」です。