木村知氏の記事に示された事実と安楽死慎重派の私が感じた違和感

今回の記事では、木村知氏が執筆し10月22日にプレジデントオンラインで公開された記事「玉木雄一郎代表の『尊厳死の法制化』発言に恐怖で震えた…現場医師が訴える『終末期の患者は管だらけ』の大誤解」で示された重要な事実と、私が安楽死慎重派(積極派でも反対派でもない)としてそれでも感じた違和感を書いていきます。

私は最初この記事を読み始めたとき途中の表現の複数の矛盾があることから疲れて読むのをやめてしまったので、この記事を書くために休みながら読み直しています。

なお、私は以下の木村氏のポストに対しても、国民民主党・玉木氏に対する批判が甘すぎると旧Twitter (X)上で批判しています。

(もちろん、人間以外の動物の殺処分でも大問題です。)


事実 1. 玉木氏・国民民主党は高齢者の事実上の殺処分を主張している

10月12日の党首討論で、国民民主党の玉木雄一郎代表は「社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え(後略)」などと発言し、「医療給付を抑え」「社会保障の保険料を下げるため」に「尊厳死」の法制化が必要だと主張しました。
さらに、玉木氏個人が優生思想を有しているというだけではなく、国民民主党の政策パンフレットの「現役世代・次世代の負担の適正化に向けた社会保障制度の確立」との大項目のなかの小項目内で、「尊厳死の法制化」が言及されています。
すなわち、優生思想を有している玉木氏と国民民主党は、終末期医療における本人の意思による消極的安楽死(延命治療の停止)を指す「尊厳死」という用語を、世代間の負担の「適正化」や「保険料を抑えるため」といった目的による事実上の殺処分に利用したい、と主張しているのです。

事実 2. アドバンス・ケア・プランニング(ACP)は定義上、本人を主体としたものである

「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」は、日本医師会によると「将来の変化に備え、将来の医療およびケアについて、本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援するプロセスのこと」です。尊厳死を含めた選択の主体は、あくまで本人だけなのです。
一方で、国民民主党の政策パンフレットでは、「本人や家族が望まない医療を抑制」となっており、「家族」も主体に含んでしまっています。すなわち、国民民主党は事実上の殺処分のために「家族」の意思をも利用しようとしているのです。

違和感 1. 過剰な医療は行われていないと主張する一方「家族の要望」による点滴があることを提示していることへの違和感

この記事において、ここまで私は、木村氏の記事の内容を概ね肯定しながら玉木氏への批判が少なくとも妥当(むしろやや甘い)と主張してきました。
木村氏は記事の中で、「『終末期は管だらけ』という医療は、いっさいおこなわれてはいない。」「老衰で終末期を迎えた高齢者に集中治療をおこなうために入院させてくれる病院などはない。」と言い切る一方で、「もし本人の意思と異なる老衰での胃瘻(いろう)や点滴がおこなわれることがあるとするなら、それは医師の勧めや押しつけではない。そのほとんどは家族の要望である。」と語り、「苦痛の除去や延命にはならない」一時的な点滴を「本人のためというより、家族の心を満たす意味合い」で「最長でもひと月程度」行う場合がある、と主張しています。
終末期における「家族の要望」による点滴は、それがたとえ(医師から見て)件数が少なく短期間のものであったとしても、本人の意思に基づかない以上、先ほどのACPの説明とは乖離していると、私は考えます。
また、ACPに参加しうるような「家族や近しい人」へのメンタルヘルス上のケアを終末期患者の生前から行うことの必要性も、私は認識しました。

事実 3. 本人の意思に基づかない医療は、医師ではなく「家族の要望」により行われる。医師から見てこのような医療は件数が少なく短期間のものである

先ほどの違和感について検討したことで分かった事実です。

違和感 2. 「マニュアル化・ショートカット化」という表現について

木村氏は記事の中で「1940年10月にナチスドイツが提出した『安楽死法』(『治癒不可能な病人における死の幇助に関する法』)の最終案の一部」を提示し、もし尊厳死・安楽死が法制化された場合「難しい臨床判断を条文へ『当てはめ』ることを第一にと考えるあまり、これまで悩み熟慮することによって保たれていた生命への倫理的思考が、マニュアル化・ショートカット化されていくことのほうが危惧される。」と主張しています。
しかし、この懸念に関しては、ACPで既に行われているように「本人を主体に」「繰り返し話し合い」を行えば、「マニュアル化」したとしても「ショートカット化」には必ずしもつながらないと私は考えます。
優生思想を社会から取り除けば、「本人を主体に」「繰り返し話し合」うなかで、本人が死にたい理由を本人と「医療・ケアチーム」が掘り下げて理解することができるはずです。そうすれば、本人が死にたい理由を踏まえた尊厳死・安楽死以外の選択肢が提示され、本人が納得すれば尊厳死・安楽死以外の選択肢への道も開かれるはずです。
ただし、これは優生思想が未だ蔓延している現在の日本社会では不可能に近いと思います。あくまで優生思想が社会から取り除かれた将来の展望として留めておくべきでしょう。

違和感 3. 出生賛美的なエピソードについて

この論点は、先述した2つの違和感とは異なり、安楽死慎重派としての私が感じた違和感ではなく、反出生賛美者・反出生主義者として私が感じた違和感です。
木村氏の記事では、木村氏の母の容体が悪化した際のエピソードを提示しています。木村氏の母の退院後、ひ孫(木村氏の孫)との面会をきっかけに木村氏の母の「目には、明らかに生気が蘇った」などと書いています。
このようなエピソードを提示していることから分かるように、木村氏やその母は、社会に蔓延している出生賛美を内面化してしまっていると言わざるをえません。
また、記事副題の「『死なせてほしい』という意思はきっかけ一つで変わる」も問題です。出生を強いられるという重大な事態を「きっかけ一つ」と表現することは、生殖行為が有する子に対する暴力性・権力性に対する無知を露呈していると言わざるをえません。
この木村氏の記事のように出生賛美の言説を無批判に再生産することが、生殖にそこまで積極的ではない人や生殖の難しい人を苦しめるものであることは言うまでもないでしょう。

まとめ

木村知氏の記事は3つの重要な事実を提示するとともに、3つの深刻な問題を抱えていることを、本note記事では明らかにしました。
今後も、優生思想やそれに基づく主張に対して、論点を整理しながら的確に批判し続けていきたいと思います。

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