二兎を追うものは一兎も得ず。一石二鳥

私は二兎を追うことを辞めた。

失恋と激務により私の心が壊れて1年半。

暗いくらい暗闇の中でもがき続けた。

愛する人も、仕事も全てが私の思惑通りに手に入りそうになった時に、まるで全ては砂で出来ていたかのように跡形もなく崩れ去っていった。

真っ新になった私は、また新しい砂のお城を建てる気にはならなかったが、どうにかしようと建てては崩し、建てては崩しと、まるで賽の河原でずっと石を積んでは崩されるようなそんな日々を過ごしていた。

だけど、遂にそこから脱出する事を心に決めた。

結局、世界中から批判されようとも「私は私である事」を辞める事も私自身の素質を変える事も出来ないのだ。私は、どれだけ嫌いでも私にしかなれない。だとすれば、残された道は「私を受け入れる」事しかない。

そう思ったからだ。

私は、演じるのがとても上手だ。

可愛らしく男ウケするぶりっ子も得意だし、かといえばバリバリなキャリアウーマンっぽくも振舞うことも出来る。

だけど、相手に合わせて自分自身を変えすぎたせいでいつのまにか、本当の何も演じていない「自己」がわからなくなってしまった。

いや、「演じないと自己を保てなかった」というのが適切だろう。

演じてない私は空洞なのだ。空っぽなのだ。

その空っぽな自分を直視するのが嫌で私は演じ続けた。

仕事も、恋愛も何もかも失った私は、本当に何も残らなかったのだ。

私は呆れるほどに環境・人に依存していた。

依存し続けていた私は、その依存先が亡くなった事により嫌でも自分の空っぽさを突き付けられた。笑えるほどに、私には何にもなかった。

何の欲も、悲しみも湧いてこない。

もしかしたら、人はこの状態を鬱状態と呼ぶのかもしれないが、

それとは違う気がした。

ご飯は美味しいと感じるし、笑う事もあるし、怒る事もあるが、呆れるほどまでにあった「ああしたい、こうしたい」というそういう欲が全くもってなくなったのだ。

動く植物状態とでも言えるだろうか。

空っぽのまま婚活や就活をしても上手くいくはずがない。当たり前だ。

と、いうことで私はひたすら空っぽになる事にした。

世間体やトラウマ、私のこれまでの27年間蓄積されてきた様々な思考を全てデリートにして、しばらく過ごしてみた。

その結果、1つの答えにたどり着いた。

私は「働いている時、目標に向かって頑張っている時の自分でいるときが1番自分らしくいられる」そして、そんな自分が好きだという事に。

だから、辞めたのだ。

過去のトラウマを乗り越えるためだけに婚活や就活をする事は。

もう辞めたのだ。

正直言って怖い。

周りが結婚ラッシュに入ろうとしている中でそんな相手も見つからない不安。

この美しい容姿が減っていき、ますます結婚から遠のくのではないかという不安。

ー花の命は短く儚いー

という事は、嫌でもわかる。

私がこれまでモテてきたのは圧倒的にこの外見による事を知っているから、余計に怖い。

だけど、こうも想う。

ー花の命は短く儚いが、咲き方は自由だし何よりも咲き誇る事が大切なのではないかー

どれだけ、素晴らしいものを持っていたとしても蕾や6分咲きではその美しさは分かりようがない。

短い花の期間。

だったら、散る事を恐れて咲き誇らず、その本来の美しさに気が付かれないよりも、思いっきり、めいいっぱい咲き誇ってその花である期間に美しさを最大限表現し、散っていった方が美しく後悔がないのではないか。

と、いう事で私は、男にモテそうなお嫁さん候補の事務職やワークライフバランスの仕事なんてものの選択をすることを辞め、「心からやりたい!ワクワクする!」そう思え夢中になれる仕事に就く事を決めた。

これが、私の咲き誇り方だ。

二兎を追う事を辞め、一石二鳥を狙うのだ。

この選択に後悔はない。

動く植物状態にはもう二度とならない。

めいいっぱい生きて、生きて、生きて輝かしいほどに生きてやる。


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