女性で優秀である事の弊害
「男女平等」
なんて、嘘っぱちだ。
男と女の特性を全て書き出して、バランスよく配置して正当に評価する。
それが男女平等であるはずなのに、リアルの社会では、男社会に女性が参入出来るようになった。
これだけの話である。
ということで評価の基準は専ら男社会の基準だ。
それを男女平等をうたう会社に入って嫌という程感じた。
男女平等をうたう会社が求めるものは、女の容姿をした男性と同等の能力・体力がある人を求めている。
ようは、女性の形容をした男性が実質的に求められているのだ。
と、いう事で前職の会社では嫌でも女性という事を忘れて雄化するしか生き残る道はなかった。
優秀であればあるほど、仕事も増え責任も増えていくが、しかし優秀だからと言って女性が男性と同じだけの体力を保有するように成長する事はないし、いつまでたっても女性のままなのだ。
そういう自分ではどうしようもない、性差の部分を無視して仕事に生きた優秀な女性たちには果たして幸せが待っているのだろうか。
男女平等の中で上に行けば行くほど、本来女性を守ってくれる立場である男性はその人を女性ではなくライバルと認識するため、平気で蹴落とそうとしてくる。
また、バリキャリの女性の数も少ないため、中々同性から共感を得る事も厳しいだろう。
お金は貰うが、使う時間もなく、仕事のストレスで体はどんどんボロボロになっていき、男から見た女としての価値は目減りしていく、、、、、。
これの何処が幸せなんだろうか。
男性であれば、仕事が出来れば出来るほど雄としての自信は磨かれていき、また収入も増えるため、例え少々見た目がくたびれようとも女性からはむしろモテるだろう。
だけど、女だった場合、稼げるようになればなる程いい男にモテるか?
と聞かれれば、その問いの答えはYESではないと思う。
そうなってくると、女性が優秀である事の意味は果たしてあるのだろうか?
はっきり言ってしまえば、単に勉強が出来る、仕事が出来る優秀ではなくて美しさや気遣い、家事スキル等女性として優秀な方が圧倒的に幸せになれるのではないかと私は思う。
偏見だなんて言われるかもしれないが、これは私が身を持って体験した事なのだ。
仕事が出来るようになればなるほど、男性の事を見下すようになり、体はボロボロになり女性らしさを失い、パートナーを見下すようになった。
私は、何一つとして幸せではなかった。
と、言うことで男女平等この言葉に私は真っ向から反対したいと思うし、性によっての役割分担は令和になっても必要だと思う。
そもそも、男女平等を望んでいた女性なんて本当はそんなに多くないんじゃないかな?
ごく一部の、男性社会でのし上がりたいと思った女性の声を採用しただけではないのかとさえ思う。
結局、マイノリティがメジャーになりたいと思って無理やりメジャーの幅を広げようとした結果、元々メジャーな人たちがマイノリティへと駆逐されているのではないかと思う。
これを言うと差別だと言われるかもしれないが、
今の時代生き方は選べる。
だからこそ、無理にあれこれ欲しがらず、自分が選んだ人生のリスクも承知の上で粛々と生きるのがいいのではないかと思う。
私は、自分の性を無視してまで男社会で生きたい・のし上がりたいなんてもう思わない。
ただ、自分が女性であることを受け入れ、大切にし、女性としての人生を生きていきたいと思う。