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批評の文体をひらきたいー2025年から考える

文体にいちばん興味がある。昔から。

自分は小説も好きだが、漫画のことは心の底から愛しているし、ドラマも大好きだし、舞台を見ているときのときめきもほかには代えがたいものがある。フィクションのことが好きだと言い切る点においては、小説も漫画もドラマも舞台も映画も音楽の歌詞も同様に好きである。しかし私は文芸評論家と名乗っている。それはなぜかというと、文芸、というか文章で書かれた「文体」については、いくらでも評することができるからだ。

正直、絵や映像については評せない。台詞や展開にしか興味がわかない。だから漫画のことは好きだけど漫画評論家とは言えないなあ、と思っている。まあ要は自分に批評家としての才能があるとすると、テキストを読むことができる、言葉で書かれた文章の文体というものへの敏感さがある、これに尽きると思っているからだ。自分で言うのも何なのだが。ほんと。自分でこんなことが得意だなんて言うもんじゃない。でも自分ではそこが自分の才能だと思っている。他人のテキストを読めること。

(脱線すると、もちろん批評家として職業的にやっていくうえで使える能力はほかにもある――事務とか事務とか事務とか――まあ、いろいろと必要であることはよくわかっているつもりである。ちなみに私は、宇野常寛師匠の「事務の不得意な批評家など存在しない」という言葉を胸に抱いて生きている。批評とは物事を手早く切り分け整理することであり、それはすなわち事務であるからだ。事務が苦手だとか思った時点で自分は批評家ではないのだ。これは三宅の暴論です)。

文体の話だった。私は文体に興味がありすぎる。他人の書かれたテキストの固有性が私はなにより好きだ。この世に文体はあればあるほどいい。そう思って、いろんな本を書いてきた。他人の文体を読みたい。書かれた文章を。

(ちなみにまたしても余談だが、私はテキストにしか興味がないので、本当に言葉の「音」に興味が薄い。そのせいで文字の読み方もよく間違える。耳から入ってくる言葉を無視しすぎる、と自分で呆れるときがある。自分でいつも気を付けてはいるのだけど、どうしても音が弱い。漢字の読みが弱い。そのせいで大恥をかくことがある。でもそのおかげで文字を読むのがはやい。脳内で音にしていないからだ。一長一短ですね。あと、たまに夢に音がついていると言う人がいるけれど、嘘だろと思う。私は文字や映像だけの夢をよく見る。そんなわけで幼少期からピアノを習っていたし中高時代も合唱部だったけれど、本当に音楽の才能はゼロだった。楽しかったしいまも音楽好きだけど!)

そうだ、文体の話だった。私の二冊目の本は、「バズる」というパッケージで売り出した、文体論である。と自分では思っている。インターネット時代の書き手と、昔ながらの文豪の、文体を、並列して語りたかったのだ。

私は文章術の本をいくつか出しているが、常に「内容はなんでもいい」と強調することを意識している。昔から。なぜなら、内容はその人のなかにあり、他人が変えられることじゃない。だけど、文体はその人が磨くことができるし、他人によって変えられるものだし、そして文体こそが文章そのものだからだ。文体は読み手によって変わるが、内容は読み手によって変わってはならない。そういうものだと思っている。

内容はしっかりとその人の中にあってほしい。読み手によって変わってはならない。だけど文体は、読み手が変われば、ころころ変わるべきだ。それくらいに思っている。だからこそ、「正しい文体」なんてものも、あってはならない。文体や語り口によって誰かの正しさを担保することも、おかしい。――ずっと私はそう考えている。

まあ、そうやって読み手によって変わっていっても、それでも残る自分の文体の癖というものはある。内容よりも上滑りした、文体の癖が生み出した歪みたいなもの。そこに私はいちばん興味がある。


だからこそ、批評というジャンルの文体に違和感をずっと持っていた。違和感とは何か。それは、「文体がどう考えても一部の男性を向いているのではないか」とずっと感じていたことだった。

――雑な議論かもしれない。が、私は正直、書評家を名乗るよりもずっと前から、一読者として、なんだかずっとそう感じていたのである。なぜそう感じるのか具体的にいつか書きたいなあとずっと思っているのだけど。ここで論証はできない。だけど、私は、読者としてずっとそう感じてきた。

批評はずっと読者を変えていない。そう感じる。誰に向かって書いているのか。どんなふうに語るのか。それを変えていない。こんなに時代が変わったのに。

もちろん小林秀雄の文体はかっこいい。蓮實重彦も何言ってるかよくわからないところはあるが文体はかっこいい。柄谷行人もやっぱり何言ってるかよくわからないところはあるが文体はかっこいい。江藤淳も加藤典洋も吉本隆明も福田和也も文体が好きだ。私は。オタクに批評を解放しようとした大塚英志文体も、こんなにわかりやすい文章あるのかとはじめて読んだときに感動した東浩紀文体も、隠しきれない情念があふれ出ている宇野常寛文体も、私はけっこうどの文体も好きである。だから批評というジャンルが結局好きなのかもしれない。しかしそのどれも、私という読者のほうに、向いている気がしなかった。それは決して扱っている作品の問題ではない(それがまったく関係ないとは思わないけれど)。少女漫画を扱っていても、やっぱり、女性の読者が文体が語りかける対象に入っていない、と思った。

もっともそれを感じるのは斎藤美奈子文体で、私は彼女の文章がめちゃくちゃ面白いし鋭いし好きなのだが、やっぱり斎藤美奈子文体も、よく評価される初期作品は私は男性を向いているように思えたのだ。ちなみに『批評の歩き方』でいちばんおもしろかったし納得したのは「斎藤美奈子さんは文体で女装している」という批評で、その女装の方向性に対して私は言いたいことがめちゃくちゃあったのだが『批評の歩き方』イベントではその話ができずに終わってしまった……。

で、ここからが問題で、もちろん斎藤美奈子さんだってずっと男性の読者を向いているわけではない。キャリアの途中から、彼女の文体は、明らかに女性の読者を向いている。少女小説の解説を最近はやっているわけだし。しかしそうなると、世間の評価がどうしても着いてきていないように感じるのだ(これも私の主観なので異論はありそうな話だが)。斎藤美奈子さんはいつだって面白いのになあ、と首をかしげる。まあ世間の評価なんてものは超絶曖昧だし、何で賞をとるかなんて時代のタイミングだなんてよくよく分かっているのだが。

そういう意味で、私が「この文体は私のほうを向いている」と真に感じた批評家は、橋本治と中島梓だけだった。ふたりとも、女性のほうを向いている文体を書いている批評家、であるように感じた。感動した。『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』とか『コミュニケーション不全症候群』とか、はじめて読んだときの衝撃は、なんというか「こんなところにあったのか!」だった。だけど、やっぱり批評史の評価が着いてきているとは思えないのだ。面白いのにね。もちろんこの二冊だって完璧だとは思わない。出された時代が古いから乱暴な書き方も雑な論もたくさんある。私だってすべて頷けるなんて思っていない。しかしそれでも、文体が、私に語りかけていた。だけどそれだと批評として評価されないのだろう。

まあ、要は批評が評価されるには、文体が必要なのだ。それっぽく見える、文体が。私は一読者として、そう思っている。

一部の人にだけ書いていますよ、アカデミックから零れ落ちた話をここで説明しましょう、きみたちにだけ、と語りかける文体が。



男性からすると「そんなん男女の問題じゃないでしょ」と思われるかもしれない。文体のジェンダー差なんて言われても、論証してみろよ、と困惑されているかもしれない。だから今ここでは、書き手としてというより、批評ジャンルの一読者として「そう感じるんだ」と駄々をこねるしかない。だってそう感じるのだ。いやいや、きみたち私を読者に入れてないだろう、ばかやろう、と。

私は批評の文体を変えたい。それはつまり、読者をひらくことだ。

単純にわかりやすく書くとか、そういう話だけでもない(もちろんわかりやすさは大切だと思うが)。男性読者に向いているという言い方が好きでなければ、「いつも決まった一部の読者にだけ向いている文体を変えたい」という言い方でもいい。自分が知らないことを伝えてあげるんだ、という暗黙のメッセージを伝えている言い方がいつまで通用するんだ、みたいな話でもいい。もっといろんな読者がこの世にはいるはずだ。別に私も女性だけに向けて書きたいわけじゃない。男女ともに、たくさんの読者に、読んでほしい。


こういうことを考えるときいつも思い出すのだが、紀貫之は『古今和歌集』に和歌の批評を載せるとき、仮名序をひらがな――漢文じゃない文体で書いたのだ。日本ではじめての歌論、つまり日本ではじめての批評といわれている文章だ。

すでに『古今和歌集』には、当時公式文体だった漢文で書かれた真名序があったのにね。ちなみに真名序とは「本当の(真の)序」という意味である。ようは仮名序とは「仮の序」とされてきたわけである。

紀貫之が書いた日記が、わざわざ女性のふりをして、「男がする日記を私もまねてみようかな」という書き出しではじまるのはあまりに有名だけど。紀貫之って歌人だけど批評家だったんだよなあ、といつも思う。

批評家だったから、歌論を、ひらがなで書かざるを得なかったのだと思う。漢文じゃなくて。公式の文体じゃなくて。

たぶん、現代批評の文体だって、小林も蓮實も最初は「アカデミックではない(公式ではない)文体」だったんだろう。だけどそれが公式になったら、また違う文体が生み出されるべきじゃないだろうか。そうやって批評も、文章も、民主化されていくはずだ。いろんな方向で。


このイベントで話題として出そうと思っていたけれど、結局時間がなくて最後ちらっと言っただけで終わってしまったのでnoteに書いてみました。


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