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人として。
生方美久さんの書く脚本が好きです。
生方美久さんの紡ぐ言葉が好きです。
社会に上手く馴染めない異端同士が、どう言葉という共通項を通して解り合っていくのか。その関わり合いを以て、この断絶された社会をどう灯し暖めていくのか。そんな答えの出ない問いに対して、彼女は真正面から「脚本」という手段を以て向き合い続ける。
人それぞれ違う考え方があって違う生き方してきたんだから、解り合えないことは絶対ある。他人のこと可哀想になったり、間違ってるって否定したくもなる。
それでも共にいたい人と共にいるために、言葉があるんだ。
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一方で、彼女はその関わり合いに於いて生まれる「関係性」を絶対に " 定義 " しない。誰かの関係性と誰かの関係性を比較して序列を付けることもしないし、登場人物に異性愛的なニュアンスを孕んだ「好き」という言葉を言わせたりすることも、簡単にキスしたりセックスしたりさせることもしない。
友達とも恋人とも親友とも言い表せない、どこまでも個別具体的な1対1(1対N)の関係性を丁寧に掬い取り、登場人物同士の言葉のやり取りや非言語的な所作だけで表現してしまう(ちなみに ... 登場人物の軽妙な掛け合いは、彼女の敬愛する坂元裕二さんの「カルテット」や羽海野チカさんの「ハチミツとクローバー」にも似たものがある ... 気がする。この二つの作品にピンとくるものがあるなれば、きっと彼女の作品も好きになれるはずです。多分)
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本来、誰かと誰かとの関係性とはかくあるべき。でも人は何かと解り易いラベルを求める。優先順位を付けたがる。
私と赤他は友達だった。成立してた。それだけ。他人は関係ない。二人の間のことだから。
男女が二人でいたら恋愛しかありえないと考える人もいる。それはそれ。でもだからって、二人の関係は恋愛だと決めつけるのは、暴力。みんなもっと他人に無関心で生きたらいいのに。
性別や肩書に関係なく、目の前の人一人ひとりと好い関係性を紡いでいくこと。そんなことを大切にしながら人と関わろうとしてきたここ数年間。その努力を小さく肯定してくれる(どことなく不器用な優しさを孕んだ)彼女の表現に、ほんの少しだけ救われた気持ちになる。
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誰かと解り合うとはどういうことか。目の前の人を大切にするとは、等身大の愛情を以て愛するとは、どういうことか。特にこの一年(今までにない深さのパートナーシップやメンバーマネジメントを経験する中で)再び考える事になった問いに対して、彼女は一つの指針を示してくれていた気がするんです。
夜々ちゃんは(誰かの)お人形にならないでね。夜々ちゃんでいてね。
でも『みんながあの子のこと嫌いだから』っていう理由で『みんな』にならなかったのは凄いよ。それだけでその子は救われる。
あなたという人、その人自身がただ幸せであれたらよい。
あなたが、お互いが幸せであれたら、それでよい。
来年の今頃には一点の曇りもなく、誰かにそう言える自分で在れたらと、そんなことを考えます。