見えなくても学歴
私は大学を卒業してから盲学校にはり灸の免許を取りに行ったのだが、盲学校には不
思議な発見がいくつかあった。
その一つが大学至上主義だ。
盲学校の寮には中高生と、特にはり灸や音楽などを勉強している専攻科生がいた。
当時、はり灸を勉強する理療科の生徒は高校を卒業して、大学に進学せず理療科に来
た生徒がほとんど。
その彼らを、高校生たちがなんとなくバカにしているような感があった。
どうやら大学に行かれなかったから理療化に進学した?みたいなイメージだったよう
だ。
私はクラスメイトに、大学出ても仕事がないから理療科に来た話をした。
ここでひとつお断り。理療科のクラスメイトは皆、私よりずっと優秀でした(汗)
目が見えなくなって、どうしたもんかと思った。
当時は今より選択肢は少なかったものの、当時も今も最強なのは国家資格。
できるできない、向き不向きは度外視しても、はり灸マッサージの資格を取っておく
のはマストだと、娑婆から来た私は思っていた。
だから、進路はそれぞれだとしても、理療科の生徒が軽んじられるのは大変な違和感
だった。
後後、何人かの人に聞いたところ、視覚障碍者の大学進学への道のり、つまり、点字
受験を認めてもらうまでの道のりが大変な茨だったようだ。それを乗り越えるための
苦労が半端なかった背景があるので、今でも大学や大卒を特別視する文化ができてし
まったという。
娑婆の恐ろしさを知らない高校生が大学に過剰な夢を持って、理療科生を下に見てい
たのである。
しかし、盲目に生まれてきたからマッサージしか選択しかないというのも酷な話。夢
見る高校生たちの気持ちも察して余りある。
あれから数十年、デジタルツールでも音声サポートが格段に上がったが、晴眼者と同
じ環境で働くのは今でもかなり大変である。
マウスが使えない視覚障碍者は、会社のシステムがキーボードで動かなければいくら
知識があろうと仕事にならない。
処理のスピードも音声と目とではかかる時間が何倍も違うので、見えない人ができる
仕事でも、見える人がやってしまう方がはるかに効率がいいという事もしばしば。
一方、はり灸マッサージもかなり特殊な仕事なので向き不向きが顕著である。
人が相手だし、サービス業だし、手の感覚や頭脳労働も求められる。
私は一年生の一学期で、実技の才能がないことが判明したうえ、知らない人と話すの
が苦手である。
それでも国家資格は最強なので、視覚だけは取った。
今はあまり上手でもないし愛想もよくないマッサージ師として会社の障碍者の法定雇
用率要員をやっている。
仕事は適性が皆無だと実感しつつも、このコロナ禍で、定収入をいただけたのは感謝
にえない。
仕事はスキにはなれないけど、会社には感謝している。
健常者だって、皆が皆やりたい仕事についているわけではない。ましてや障碍者をや
である。
とりあえず、私のような重度障碍者が自立して食べていかれるだけでも感謝せねばと
思う今日この頃である。