見えなくても文化芸術
上記の、障害者の文化芸術を考えるシンポジウムに登壇させてもらうことになったご
縁で、先日東京アートサポートセンターライツが開催している「コミュニティスペー
ス「わぁとなじかんwithライツ」というイベントに参加した。
そこはアートや舞台芸術に関わっている障害当事者と健常者の情報交換の場。
私も自分が所属している視覚障害者を中心とした朗読グループ「こうばこの会」のア
ピールをしつつ、舞台鑑賞のバリアフリーに取り組んでいる人たちを始めイラストや
絵画を製作している障害当事者の人たちと交流した。
こうばこの会ホームページ
http://www.koubako.jp/
そこで印象深かったのは、発達障害(今は障害者手帳を持っていないらしい」のおじ
さんの話。
若かった頃は発達障害なんていう概念はなかったからいろいろ苦労したと言っていた
。整理整頓ができない、場所が変わると思ったようなパフォーマンスができないなど
など。
その後自分はどうやら人と違うんだという事が客観的にわかってからはとても安心で
きたそうだ。
彼は絵を描いている人なのだけれど、「パラアート」という分類の仕方に納得できな
いと言っ ていた。
今の基準だったらゴッホもダ・ヴィンチも発達障害か精神障害認定だったのではない
か?!
確かにその絵を健常者が書いていようが精神障害の人が書いていようが知的障害の人
が書いていようが関係ない。
アートとしてそれが素晴らしいかそうでないかが問題だ。
星野富弘さんみたいに、体が不自由で筆を口にくわえて絵を描くとか足で筆を持って
絵を描くとかそういうところになると、実際に手で絵を描くということに対して障害
があるわけだからこれはパラアートと言うことになるのかもしれない。それでも結局
作品の良しあしが最初に来る。
そして後からこれは手が不自由な人が筆を口にくわえて描いたんだよという話になる
。
私はスティービー・ワンダーが視覚障害者だという事をずいぶん後になってから知っ
たが、だからと言って彼の音楽が変わるわけではない。
小学生の頃、夏になると手のない人が描いた絵はがきというのを学校で販売していた
けれど、別に障害があるとかないとか関係ないレベルで素敵な作品が多かったので私
もよく買っていた。
問題なのは結局完成した作品であって、作り手が障害者かどうかなんて二の次三の次
だ。
しかし特に知的障害や精神障害の人たちはいくらよい作品を作ってもそれをプロデュ
ースするのが難しいだろうから、「パラアート」として企業やライツのような団体が
彼らの作品を世に出す手伝いをするのはありなのではないかとも思った。
今は彼らの作品をアートとして販売を代行している企業もあるとか。こうなってくる
と「パラアート」はもはやブランドだ。
ところで、私が関わっているのは朗読や朗読劇。
音声での表現に視覚障害は全くハンデにならない。私たちの問題は点字や音声素材で
作品を探したり練習したりするのに時間がかかること。
とにかく盲人は何をやるにもタイパが悪いのだ。
見えていれば初見での朗読でも、うまい人はそれなりのクォリティーで読める。
ならば点字が得意な人も同じようにできるのではないかと思いきや、なかなかそうは
行かない。
目で文字を読むときは次の行を先読みすることができるけれど、点字は触れている一
つの文字、あるいは先読みできても次の2,3文字しか認識できない。だからこの分は
誰の視点か、このセリフは誰のセリフか、次の展開をふまえつつ読むことができない
のである。
それでも事前準備ができれば、音声表現において見えないことは何のハンデにもなら
ない。
しかし動く芝居となると舞台であれテレビや映画であれ自然に動くのは難しい。
以前障害者を始めいろいろなマイノリティーの人たちが出演している舞台を見た。中
にはプロの俳優さんもいてその人たちは当然お上手だったのだが、中には正直学芸会
レベルの人もいた。そういう人が一人でもいるともう興ざめである。
障害者か健常者かで分ける前にまずはちゃんと芝居ができるかどうかで分けてもらい
たい。
その上で当事者が当事者役をやるのは大いに結構だ。
最近は障害者の作業所で作っているパンやお菓子もクォリティーが高いものが増えて
いる。昔は「障害者が作った」といえばかわいそうだから買ってあげようみたいな感
じだったが、それでは持続しない。
アートも舞台芸術も何の忖度なしに認めてもらえるようなレベルのものを出していか
なければ結局は生き残ることはできないだろう。
そのためには「障害があるのに偉いわね」みたいなおためごかしは笑ってスルーし、
常に障害者側も自分を府監視することを忘れてはいけない。
そうやって出してきた作品はどうかバイヤスをかけず、正当に評価していただければ
と思う。
そして価値があるものは価値があるものとして、そうではないものはそうではないも
のとして正しく評価される世界になってほしい。