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ICUC-110_2022.5.22【サスティナブルに生きることはゴールを持たないこと(なんじゃないかな?多分)】ICUC知的好奇心向上委員会】

【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee !

角田陽一郎110「サスティナブルに生きることはゴールを持たないこと(なんじゃないかな?多分)」ICUC知的好奇心向上委員会

サスティナブルとSDGについて、なんとなく思ってることを喋りました。

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

サスティナブルな人生って何か?

 おはようございまーすぅ〜。ICUC知的好奇心向上委員会でございます。バラエティプロデューサー角田陽一郎でございます。今日はちょっと久しぶりに移動中にくっちゃべってみようかなーなんて思いながら喋っております。5月も22日ということでね。この時期、季節いいですね。まあ暑いけどまだ暑くないし…そんなに。で、梅雨でもないからまだ湿気もね、大丈夫だし。うん、まあ今日とか五月晴れってわけではないけども、まあ天気がいい日曜日ってことで。なのでちょっとね、移動中に喋っちゃおうかなーなんて思ったりしたというのが今日こんな感じでやってるってことなんですけど。
 今日はね、何を話そうかと思うとすると。サスティナブルって言葉について話そうかなーと思ってます。で、サスティナブルってね、もう最近すごい言う様になったじゃないですか。特にSDG’s、Sustainable Developing Goals(※) でしたっけ?日本語で言うと「持続可能な開発目標」みたいなね。そういう様な感じで、だからSDG’sって国連でも17個のことを言ってたりするし。つまり企業とかもね、この地球環境の環境破壊みたいな事と言うか、そういう事がもうにっちもさっちも行かない状況になってきたから、そういう事を意識している企業の方が実は株価が上がるみたいな話ってあるじゃないですか。うん、だからそんな様な感じでサスティナブルというものをむしろ標榜する企業とかが多いよなーなんて思うわけですね。で、それはそれでいい事だと思うんだけど。本当にサスティナブルってなんなのかな?って事を今日は話そうかなーと思っています。

持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)とは、2001年に策定されたミレニアム開発目標(MDGs)の後継として2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標。

 で、簡単に言うと僕が思ってるのは──。まあだからサスティナブルな人生って何か?ってことでちゃんと言語化されるかなぁ?昨日本当は文章書こうと思ってたんだけど、途中まで書いて挫折しちゃったんだよな!んふふふふ!そう…。まあいずれにしてもサスティナブルって言葉流行ってますよねっていう。流行ってるって流行って意味でしょう?流行ってサスティナブルじゃないですよね。一過性ですもんね。うん、だからなんかそういう感じでそもそもサスティナブルってのが今ブームですよねって言うのがそもそもサスティナブルじゃないよなーなんてのは…まずは思った上で。うん、思った上で、どうすればいいか?って事ですよね?うん。
 で、何て言うんですかね?僕がサスティナブルというのを…だからまあ企業とかがSDG’sと標榜することとはちょっと僕が言う事とは違うのかも知れないんですけど。結局もってサスティナブルであるってことはゴールを持たないことなんじゃないかなってちょっと思ってるんですね。だからSDG’sのGってGolesって言ってる段階でもうなんかサスティナブルじゃないなって思ってるというところがちょっとあって。で、それって国連が言うとか企業が言うんだったらまだちょっとアリなんだけど、こと個人の人生がサスティナブルかどうかって思う時って、ゴールを持たないことじゃないかなっていう風になんか考えてるわけです。

未来に対して今をケチる意味はある?

 で、ゴールって言うか目標とも言いますけど。目標も持たない。だからその達成できるか?達成できないか?みたいなことってなんかあるじゃないですか。で、その達成のために努力するっていうことで、で、その達成のために努力したことで乗り越えられた時の快感みたいなものがまずあると思うんで、そういうのがいいよって方はそれでいいと思うんだけど。僕はその達成できるか出来ないかのドキドキ感とか、達成出来ないときの挫折感みたいなことって、つまり目標を持つから苦しいのかなーなんてちょっと思うわけです。じゃあ目標を持たなくて自堕落に生きろっていう意味ではないんですけど。
 で、その目標、ゴールって行き着く先ってことじゃないですか。で、行き着く先って──だから…ね、ドラマって例えば最終回で終わると言う意味では行き着く先があるわけで。で、「人生はドラマよりバラエティに似ている」って僕はよく言ってるのは、調子良ければずーっと続くわけで、バラエティって。終わりがなくて。そう、だから最初から終わりが決まってるわけじゃないですよね。で、人間の人生ってのもまあそうじゃないですか。どこかで終わるんだけど…。それが明日かも知れないし、何十年後かも知れないんだけど、そこが究極的にはゴールなわけですよね?で、そこに向けての、こう…だからゴールに向けて何かをやるって考えると究極的には死に向けて何をやるかってことを考えることになっちゃうなーと思って。なんかそれ自体がもう、なんか楽しくないよなーなんて思ってるってのは前もこのICUCで言ったとは思うんです。うん。
 で、そん中でね。これ上手く言語化できるかなぁ?あのー…例えばこんなことを思ったんです。今僕毎週水曜日に大阪に行ってるわけです。大阪のね、国際ファッション専門職大学っていうところで非常勤講師をしてるんで、水曜日に行ってるんですよ。で、水曜日に行って。まあ今のところ全部一泊して翌日木曜日に帰ってるんですよ。なんだけど。その授業自体は午後なので、頑張れば日帰りで行けるんですね。うん。で、まあ夜とかに大阪とかでお会いする方がいればそれはそれでもう泊まるの確定でいいんだけど。そういうのが無い日とかはどうしようかな?もう帰ろうかな?と思ったこともあるわけですよ。もう、すぐ戻ろうかなと、こっちの東京の方にね。
 で、そう思った時に。そう思うモチベーションの一つは…つまり宿泊代がかかるじゃんみたいなね。うん、宿泊代、お金かかるんだったら勿体無いから帰った方がいいんじゃないかな?用事がないんだったらってちょっと思ったりもしたわけですよ。で、その時にはたと気づいたんですけど。宿泊代が7〜8,000円だとしますよね?ビジネスホテルの。この前なんか安いところで4,000円だったんですけど。で、じゃあそれを、もし泊まったらその分プラスでかかるわけですよね?
で、プラスでかかるんだよなーなんて思ってんだけど、じゃあ仮にその日泊まらないで東京方向に戻るじゃないですか。で、戻ったらそこから海の街まで車を走らせるわけで。結局それって高速料金がまあ1,000円、2,000円かかるわけですよ。うん…ってことはね、宿泊したら4,000円で宿泊しなければ2,000かかるって考えると、まあ大した金額の差はないよなーなんてちょっと思った時に、わざわざその日の出費を減らすということを考えて予定を変えても、また違う予定が出てくるわけだから、その予定で幾許かの資金がかかるんだよなーってことに何となく思ったわけです。
 つまり。それがね、来週自分の人生が終わるって決まってるんならばその中で一番お金がかからない様に生きようとかね──って、こう、なんか出来るじゃないですか。ところが…というのが翌日も翌々日も翌翌々日もってずーっと続くわけじゃないですか。何年続くか…何日なのか、何年なのか、何十年なのかは置いといて。とすると、その瞬間に得すること…なんて言うんだろう?得する瞬間を未来に対して…えぇーと、こう…なんて言うんでしょうねぇ。んぅぅ〜ん、げ、げ…なんて言うんだ?ぅん?言葉が上手く見つからないな。未来に対して、その瞬間ケチるということって意味があるのかなーってちょっと思っちゃったんです。だってまた未来があるわけで…また未来があるわけでっていう。この感覚ってなんか僕の言葉で伝わってるかなぁ?そんなに伝わってない気もするけど。すいません。

ステップアップ・ドロップアウト

 で、そう思った時になんか「今月はこうやろう」とか「来月はこうやろう」とか「自分の人生はこうだ」みたいな計画、目標を立ててそれに一喜一憂することってすごい心身的にも病むしハードだし。だからそれを乗り越えることに快感を持つっていう方だったらそれはそれでいいんだけどね。ただ僕の最近の知り合いでジョギングしてたら本当にギックリ腰になっちゃったみたいな方とかがいたりして。だからそれってさ、僕なんかと年齢大して変わらないからさ、そういう風に鍛えれば体ってのは鍛えられるんだっていうことを意識してたぶん鍛えてるんだと思うんだけど、年々体力は衰えていってるわけじゃないですか。だから負荷を掛けることで体が…なんて言うんだろう、成長するっていうのってある一定の限度を超えちゃうんだけど、自分の劣化にそんなに気づかないから、そこで体って調子わるくなっちゃったんじゃないかなーみたいなことをその人に言ったんですよね。
 うん、いや、だからそれは当然ジョギングするなって言ってるわけじゃなくて。だから無理をしないってことだと思うんですけど、簡単に言うと。その無理か無理じゃないかっていう自覚ってのがなかなか個人じゃ出来にくいじゃないですか。で、無理しちゃうんじゃないかなってことが、例えばそのジョギングの時はある。で、それと同じ様な事が目標みたいなものを設定するとやっぱり結局そこに向けて頑張っちゃう、あるいは頑張れない時に挫折を感じて落ち込むとかね。なんかそういう様な負荷の原因になるよなーって思った時に、それを毎日、毎時間、考え続けてるのってなんか人生がサスティナブルじゃないなーって思ったんです。…上手く言えてるかな?
 じゃあどうしろっていうことで言うと。なんか本当に目標いらないんじゃないかなとか、うん。いやだから締め切りがあれば原稿を書くんですよね、例えば僕だったら。締め切りがあったらそれまでに番組とか作るんですよね。まあそうするからその分のお金が頂けるっていうのもあるんだけど、なんかその日…いい意味でのサスティナブルなその日暮らしって言う様な風に自分の思考みたなものを変えてった方がサスティナブル思考なのではないかな?っていう風に思った次第なんです。
 で、これなんてね。このICUCは何をアーカイブしてるんだ?って言うと、僕の考え方の発露ってことなんで。で、尚且つまとまってすごい理論的に喋ってる回もあれば、今日みたくアイデアのポツンッっていう一つなわけで、まだなんか僕の言ってる事がいまいち伝わらないな、あるいは何か矛盾してるっていうことろがあるのかも知れないです。うん。なんか僕も上手く言えてるかどうかって若干不安ではあるんですけどね。うん…。ただなんかさぁ、その、こう──。例えばね。例えばですよ?うーん、例えていいのかな?例えばじゃあ恋愛というものがあったとして。恋愛って恋愛ドラマとかだとゴールって結婚とかじゃないですか。うん…例えばね。で、その結婚というゴールがあるからそのゴールに向かえるか?向かえないか?ってことで一喜一憂とかするわけですよね。永遠に愛しあえるか?あえないか?みたな。うん、で、その…まあだから永遠にってのの場合はある意味ゴールが見えてない感じなんだけど、そこに結婚みたいな話だと具体的にゴールが見えますよね?で、それって別に家を買うでもいいですよ。子供がどうとかでも、何でもいいんだけど。なんかそういう風に具体的なものがあると、その具体的なものへ切羽詰まったりするから、たぶん恋人同士もそういう話になるとすごい、あ、いや、それですごい幸せな恋人同士だったらそれはそれでいいんだけど…ぐちゃぐちゃしちゃう恋人同士ってのもあるじゃないですか。うん、だからそれが良いか悪いかってはなしじゃないですよ?今は比喩で言ってて、その比喩が若干合ってるか分からないんだけど。そう考えると、そういう事を考えないでただ愛し合ってることの方が幸せじゃないかな?って思う時って、まあ恋愛とかあるとありますよね?なんかそれと同じ様な事なんですね。
 で、それって若い時は…だから30代のうちにこんな事しなきゃいけないとかっていうタイムリミットみたいなものをやっぱり考えちゃいますよね。40代のうちにこうしなきゃいけないとか。あれをやらなきゃ、これをやらなきゃとか。だからそれをある人に言ったらね、出世に邁進してる時って出世に勝つと幸せで、出世に負けると敗北でって思うけど、ドロップアウトしてるから輝いてる人って結構いるんですよねーって話をこの前聞いたわけですよ。で、確かにそうだよなーなんて思うと、僕なんかもね、テレビ局を辞めたって意味ではドロップアウトしてるのかもしてんのかも知れないです。で、ドロップアウトしてるにも関わらず気持ち的にはステップアップ…。だからドロップアウトしたのにステップアップを考えてるわけで、そのステップアップってのはステップアップするために負荷をかけるっていうのがすごいサスティナブルじゃないなーなんて思ったんですね。

締め切りのない生活

 だからSDGで…Developin Goles って言うか、持続可能な開発って開発しなきゃいいじゃんってちょっと思ったりするというかね。だからそれは全人類だったら開発しなければエネルギーはどうするんだとか、経済はどうするんだってことがあるから、まあSDG’sは成立するんだけど、こと自分の人生だとするとそんなにそういう領域を開発するか?しないか?いや、してもいいんですよ。開発してもいいんだけど、開発すべきとか、そういう風に何々すべきみたいな枠というか…うん、なんかこう、なんて言うんだろうね、枷みたいなものを持つということがなんかすごいこう…疲弊していくなー、毎日が、、、っていう風になんか思ったんです。人間関係だろうが、それこそ仕事だろうがね。生き方とか。そうするとなんかこう…なにか問題が起こった時に…だからまあ対処しないって言うとまた語弊があるんだけど、でも本当に対処しなくていいんじゃないかなってことなのかも知れないです。僕が言いたいのは。だって対処しても次にまた問題が起こるんですもんね?で、また次の問題が起こるっていう。なんて言うんだろうね、常にどこかが水漏れしているダムみたいな感じと言うか。で、水見れ作業をどんどん修復して修復してるといつの間にか疲れちゃうみたいな。もう修復しないでダダ漏れでもいいんじゃないかなっていう風に思ってる。ただダダ漏れの中でどう…なんて言うんでしょうねぇ、決壊しないか。ダム湖が。自分というダム湖が崩壊しないかみたなことは考えた方がいいんだけど。日々の亀裂を埋める作業みたいなことに精神を使い過ぎると結局それで…なんて言うんだろう、もう日々疲れちゃうなっていう風なことを感じたりしたわけですよ、うん。
 なんか上手く言えてるかな?言えてないかも知れないんだけど自分としてはなんかね、どう目標を持たずに生きて行くかって事を…なんか、目標にしようかなってちょっと思ってるっていう風に思えたってことかな。だからサスティナブルに生きるためにはそんなに目標を持たない方がいいんじゃないかなって思ってるという事を目標に生きてみようかなーってなんかこう思えたって言うかね。うん。なんかそんな事が実際こう…やれ仕事があるとか、やれプライベートでこんな事がある、あんな事があると言うと、結局日々のタスクみたいなものってのが溜まっていきますよね?で、そのタスクっていうのは何日までにしなければいけないとかなんだけど、その何日までにしなければいけないものをやった後もまた次の何日までにやらなきゃいけないことって来ますよね?それ延々とやってるうちに死んじゃうんか??って思うと、何日までにやるってことをどれだけ減らすのか?っていう。どんだけやらないで生きるか?っていうことの方がいいのではないかなと。いや、その上でやることはやっても…何にもやらないとまた退屈ですからねぇ、やってもいいと言うかやるべきだとは思いますよ。やるべきだとは思うんだけど、やるべきことっていうのをなるべく持たないで生きて行くという事を生存設計すると言うかね。それがサスティナブルな生き方なのではないかなーなんて思ったりもするわけです。うん。

気分のいい時間を増やす

 なんかあれですけどね。自分が思ったこととかをやりたいことみたいなことを、それをやろうとすると当然それをやるために準備しなきゃいけないとか、それに自分のリソースを割かなきゃいけないわけですよね。でもそのリソースって限られてるわけで。その限られてるリソースの中で自分というものが何をやるか?っていう風に考えた時に、逆に自分のリソースの中で何がやれるか?ってだけでやってる方がいいのかな?ってことかも知れないですね。それって成長しないじゃんとも言えます。だからSDG’sって標榜してるのって実は成長しなくてもいいんじゃないの?っていう思想が一方であるじゃないですか。一方でと言うか確実にありますよね。うん、だからやっぱりそれって前回、前々回のICUCでも喋ったんですけど、やっぱり自分の中でステップアップしなくても満足を得るということを自分の中でそれでも生きていけるんだっていうことをやっぱり感じるしかないんだなーなんて思ったりもします。
 だからそう考えるとこのね、タイトルの知的好奇心向上委員会って言ってるんだけど、知的好奇心を向上させる必要があるのか?って話にも確かになりますよね。うん、知的好奇心向上させなくてもいいんじゃないの?っていう。じゃあICUC、名前変えちゃうか…んっふっふっふっふ!うん、そう。
 うん──なんつーんだろうなぁ。…なんかね、それって、あの、こう、すごい言い方をすればいい加減に生きるみたいなことかも知れないし。うぅ〜ん、なて言うんだろうねぇ、日常を大事にしようってことなんだけど過度に大事にしないってことかも知れないし。自分という人間を、こう…なんて言うんでしょうねぇ…自分という人間に負荷をかけないとも言えるんだけど、怠惰というのとは僕の中ではちょっと違うんだよな。そういう風にやった方が自然と他人にも社会にも優しくなれるし。自分も結果的にストレスがないわけだから、なんかこう上手く行くことが多いのではないかな?っていう風に感じてるってことですかね。
 うん、で、それって自分が調子悪いなーと思う時と、自分が調子いいなーって思う時の差を考えると、明らかにそういう風に考えてる時の方が調子が良いという時事があるじゃないですか。だからそうすべきだみたいなことを何か解放している時。それが、そっちの方が気分がいいなと思うとすると、自分のサスティナブルに生きるってことは人生の中で気分の良い時間をどれだけ割合を増やして行くか?ってことなのかなってことかも知れないですね。っで、そうするとある瞬間に、、ああ!?だから、そうするとこういうことだ!だからある瞬間に目標を立てて、2年後の目標のために死ぬほど頑張って、で、結局目標を達成したって言うと、その目標を達成しただけの爽快感は素晴らしいのかも知れないけども、逆にその2年間は結構苦しい思いをするわけですよね?で、それをじゃあ2年と1日経った時の1日の爽快感のために2年苦む方が良いのか…、──うん、まあ苦しまない場合もあるのか、そういうのって。よく分かんないけど。うん。でも比喩ですからね──なのか、そうじゃなくてもいいのか?っていうところで、さあ皆さんどっちで行きますか?ってことかも知れないですね。
 だから僕なんて視聴率を取らなきゃってテレビにいたし。テレビってね、そういう意味で広告というもので成り立ってるビジネスモデルって意味で言うと、すごいすごい資本主義の賜物のような、うん。資本主義が形成される前からあった職種じゃないじゃないですか。だからすごい資本主義的なところで生きて来たから、そういう考え方みたいなものがずーっとあって。なんかやっぱりそうすると今期の売上は前期の売上より、今年の売上は昨年の売り上げより、どんどん増えて増えてって事を考えななきゃいけないし。…っていう成長戦略みたいなものとかがずーっとこびりついちゃってんでしょうね、頭に。で、そういうものとか無くてもいいじゃんって思った時に、さあ自分がどう生きるか?みたいなことは、もしかしたらもう若い人とかははなっからそういう風に思ってる方とかはいるかも知れないですね。 
 だからポスト資本主義というかね。で、僕なんかが年齢的に資本主義どっぷりの中でポスト資本主義にやっと気づき始めてるというのがあるんで自分の中での今までの生き方、考え方との整合性が取れないところとか違和感というか、そういうものをどう脱却しなきゃいけないのかなーみたいなことを、もしかしたらずーっとずーっと考えてるのかも知れないです。で、その考える時にね、自分のプライベートでも色々あったし、実際コロナってのがあるし、ウクライナってのもあるしみたいな風に、世界情勢もそうだし、日本の社会もね、色んな歪みみたいなものが出て来てるわけで。そんな中で情報革命、インターネットみたいなものとかがある中で…。で、自分の加齢、過老、みたいなものがある中で。どう生きて行くのか?っていうことの考え方みたいなものをもう、叙情に、自分の中で変えなきゃいけないんだなーとは思うわけです。 
で、それが社会的に言えば…社会的に言えばSDG’s、サスティナブルってことだし。で、それってのは大まかにおいてたぶん合ってるというか、必要なことなんだろうなーとは思うんだけども。さて、それが本当にね、自分が生きてく上で、さて本当に本当にサスティナブルとは何なのか?ってことを考えると、実は──うん、SDG’sじゃないんじゃないか?っていうことかな──ってことかも知れないですね。

ぐるぐる回す

 うん──、なんかね、この比喩がまた合ってるか分かんないんですけど。僕何年か前にね、腱鞘炎になったんですよ。初めて…あれだ、世界史の本を書いた時だ。Word打ってて、だから僕あのブラインドタッチとか出来ないからすごい変な感じで右手とかやってたら、右手が腱鞘炎っぽくなったんですね。で、腱鞘炎っぽくなって、当然医者とか行くじゃないですか。そうするとまあ腱鞘炎ですねーみたくなって。なんかステロイドとか打つと痛み取れますよって言うから、じゃあお願いしますって打ったらスーッて痛みが消えて。ああいいなぁ〜と思ったわけです。ところがそれがまた2週間、3週間くらいするとまた痛みが出てくるんですよね。で、なんか色々ね、調べたりすると、つまりそういうのってどんどん麻痺して行くからそんな打たない方がいいよって言われて。結局2回ぐらい打ったのかな。でもまた2回目打ってもすぐ痛くなっ来て。ああこれはあれだーと思った時に、もう打つの止めようと思った時に、でも痛いなーと思った時に、針だったらどうなのか?とちょっと思ったんですよ。腱鞘炎で針ってのがあったから。ああ、じゃあ針打って見ようと思って渋谷の鍼灸院に行って来たんですね。行ったんですよ。そしたらおじいちゃんの先生だったんですけど、腱鞘炎なんですって言って、僕はここが痛いですって言ったら…そこをね、ぐにゅぐにゅ死ぬほど揉むんですよ、ぐわーって。針打つ前に。で、わーって、ぐわーって揉んで、その後針打ったんですけど。…そしたらね、痛いの治っちゃったんですよ。で、痛いの治っちゃったんですけど、僕ね、針で治ったと言うより揉んだから治ったんじゃないかなってちょっと思うんです、そのおじいちゃんが。
 うん、でね、そう考えるとなるほどって思うんですけど、(カメラ位置が落ちる)…なるほどって思うんですけど、あのー……今曲がっちゃった(^^) んっふっふっふ。自分が例えば腱鞘炎になったみたくなったりすると、それをどうするか?みたいなことを医者に言うと、やっぱり安静にしてくれとか。だからつまりこう、サポーターやって動かさないでみたいな風になるじゃないですか。うん、動かさなくみたくなるわけですよね。で、そうすると…だから例えばそんなに揉まないって言うか、痛いところはそんなに触らないようにしようみたいな感性ってやっぱりあると思うんですよね。で、そうなるじゃないですか。で、それで結果実は痛みが続いてたのかなーなんてちょっと思っちゃったりして。分かんないけど。だってそのおじいちゃん先生がぐにゅぐにゅ揉んだら治っちゃったんですよ。で、それからその先生が揉んでるんだから自分も揉んでもいいじゃんと思ってなんか定期的にこうやってぐるぐる回したり、揉む様にしたんですよ、パソコンとか打った後に。そしたらそこからもう腱鞘炎って治っちゃったんですよね。
 だからなんか何かあった時に動かさない方がいいって──うーん、だから本当に炎症がひどい時はそうなのかも知れないんだけど。実は日々サスティナブルに生きるってのは日々…だからちゃんと…よく歩けみたいな話と似てるんだけど、適度に体を動かすっていうことって大事じゃないか?ってよく言うんだけど、それはその腱鞘炎みたいなものだってそうなんじゃないかなっていう風に思ったりします。うん。
 それとサスティナブルって話が繋がってるかなぁ?僕の中では日々そういう風に手をぐるぐる回すみたいなこととかって一番サスティナブルな行為だなーなんて思ったりするわけです。うん、で、そこが何か痛い時があった時にそれに対処しようとか、それを薬で治そうとか、対処することの方が結果的にその瞬間はいいのかも知れないけど、やっぱり負荷が掛かるんだよなーと思うと、負荷をかけないで日々をどうスムーズに動かして行くか?みたいなことがサスティナブルなんじゃないかなーってちょっと身体的には思ったりするんですね。うん。なんかちょっとそんな事を思いながら今日はサスティナブルな生き方って事について話してみました。全然今日まとまってないな。うん。でもまあサスティナブルな、んっふっふっふ!のって、こういうテーマがあって、To Do があってみたいな。ライフハックがあってみたいな…ね、動画じゃないので、これは。僕が思ったことを適度に適当に喋ってるだけな動画ってことで。まあご容赦願えれば──と、思います。はい。そんな感じでICUC知的好奇心向上委員会でございました。ではまた来週よろしくお願いします!

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文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 何事も塩梅ということかな。自分が生きるに必要な行動・運動で心地いい塩梅を見つけられたら、それがあなたのサスティナブルと言うか。

 タモリさんが言ってた「俺の知り合いに健康オタクのやつがいてさ。そいつが死んでも健康になりたいって言うんだよ。」を思い出した。目標のために我慢して頑張ってたら、頑張り過ぎが原因で死んじゃうのは嫌だ。だけど頑張りが苦にならないどころか楽しくて仕方ないなら、健康に死ねた!嬉しい!もありなのかも。人の幸せとか健康って視点が少しずれるだけで満点にならなくなる。だから陰陽そろってたら(陰があるのに)満点。視点は接近して狭めて、同時に遠く広くも見るようにしよう。

 知的好奇心向上。向上という言葉の意味を上を目指すと解釈すると義務的というか、好奇心は向上すべきみたいなことになるけど、ICUCってなんだろうな?と知的好奇心で覗いてみたら、好奇心が向上してよかったね♪となるといいな。向上を満足とか発見と言い換えても良いかも知れない。Discover Japan みたいなやつ、Discover ICUC。知的好奇心は”あり過ぎて時間が足りない”という意味では困るかも知れないけど、知的好奇心が多いってことは、それだけ物事を柔軟に、色んな視点から見る事が出来てるってことだから、知的好奇心は向上してくれていいと思う。

 30代の時にはこれ、40代の時にはこれをやっておかいないと…というのは、つまり自分の未来が何かしらの不幸に見舞われるかも知れないという不安を解消してくれる提案、または不安を煽る行為、またはその年代でこれが出来ていれば幸せだったのにという後悔、または私はそれが出来ていたから私は満足という自慢。無謀な生き方も用意周到は生き方も短命だな。

 山本豊津さんの言ったサスティナブル。式年遷宮の20年ごとの取り壊しと建て替えは本当の意味でサスティナブルであるという話。放射性炭素年代測定的な歴史を残すことと、当時の技術が失われないことの違い。残すべきものが残されているのは良いこと、新たな何かを生み出すのも良いこと。だけどもう残し続けることも増やして行くことも限界だとするなら、残さず増やさず続けることになるのかも。壊して建てる技術も、解体した木材の行き先も、時間経過で朽ちることも、モノの命の流れの内にあって続けることなのかな。

 角田さんは時々自分は真面目なんだって言うけど、全くその通りで。若い頃は真面目が自分の首を絞めても若さで乗り切れた。乗り切った満足感もあったと思う。今は真面目が首を絞めないように出来るけど、物事が”ちゃんと出来てない”と感じることはまだまだたくさんあるんだろう。”ちゃんと”ってなんだって話。テレビ局時代の指向性や判断基準が残ってるままフリーランスしてると仰ってたけど、フレームとボルテックスってフレームが見えたからボルテックスの発想が出たのかな?もしボルテックス基準で始まってたら、取り止めなさすぎるから少し枠を作ってカテゴライズしようみたいな発想になったのかな。枠→渦の発想の広げ方、渦→枠の企画の実現みたいなことを思った。

 一見自分がやりたいとか、やらなきゃと思ってることでも、実は自分以外の人が決めたことがタスクとなって自分を追ってくる感じだろうか。洗濯だって乾燥機で満足なら晴れた日に外で干して取り込む心配をしなくてもいいわけだし。seasoningでもあったけど、例えば鏡は綺麗にしていた方がいい。確かにそうだけど、気にならないなら…と言うか、綺麗にしたいと掃除したくないのバランスを自分の基準でみることが出来ていればそれでいいというか。お風呂の鏡は特に綺麗な方が…とも言うけど、視力悪い人ならお風呂の鏡を見てもねぇ。

 腱鞘炎の例と似たものだなーと思うのは家と山。家は人が住まなくなると途端に痛んで住めなくなると言うし、山は手入れがなくなると荒れると言う。結局人が使える状態を維持するってだけの話で、人の手が入らなければ朽ちる方へ変化して、手が入りすぎれば腐って行くような。腱鞘炎だってキーボードを打つという作業を維持するためには多少腕の運動なりストレッチなりしておく必要があるけど、炎症起こすほどやるのはやりすぎで。私にとっては文字起こしがいい感じの手先の運動だ。いつでもピアノが弾ける気がする。
 今時は怪我したら完治まで大事にするより、ある程度治ったら動かせる範囲で動かしながら直すが主流になった。例えば動かしてみてちょっと痛かったけど、その痛みが1時間以上続かないならその範囲まで動かしていこうみたいな。血液やリンパ液が幹部周辺をちゃんと流れるようにすれば栄養も届くし、体の一部としても滞りが長引かない。
 自分の塩梅を死ぬまで更新し続ける。

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