ICUC#024(篭って週間#018)2020.7.26【個人的アパルトヘイト】
今週ものんびりと知的好奇心のアップデート
【 ICUC 知的好奇心向上委員会】に参加したので、復習用の参加メモを作成しています。
今日の推薦図書 お休み
動画 (ICUC先行公開後に一般公開)
018「個人的アパルトヘイト」
僕たちは何かをチョイスする、誰かをセレクトするという行為で、無自覚な個人的なアパルトヘイトをしているのではないだろうか? そんな疑問を思った次第です。 もしよかったら、ご覧ください。
動画の内容
・4連休ってなんか嬉しい
・休みの日は休みたい
・フリーになるとは自立するということ
・ライフ=ワークとライフ≠ワークの矛盾
> 炊事洗濯、仕事もタスク
> プライベートと仕事を切り替える5分の結界
> モノを作るということを神棚に分けて置く
・区別することへの抵抗感
・関係性が入れ替わる面白さ
・情報と自分の関係性の変化を楽しむ
・たまたまその情報に出会うことの意味が重要
・個人的アパルトヘイト
・無自覚的片務関係
・アパルトヘイトな言葉
メモという名の私の感想
4連休ってなんか嬉しい
おはようございます。バラエティプロデューサーの角田陽一郎と申します。ICUCの…今日何日?7月…今日何日って誰に聞いてんのか分かんないけど、7月26日分でございます。本当だったらってのも無いけど、前々日の金曜日はオリンピックの開会式だったんですよね、木金土日4連休で。4連休って何か楽しいっすね(笑)すいませんベタで。
連休って自分がTBSテレビでサラリーマンやってるときは、休日でも普通に番組やるから作業は毎週同じものが行われる。ところが世間は連休で休みだから連絡取れないとか結構あって「なにこっちが働いてんのに休んでんだよ」なんて当時は思ってましたが、そんな現場から管理職に…なったのか?なってないのか?プロデューサー的なものになると、休みの日は休もうと思うし、時代もそうなった。
休みの日は休みたい
僕が若い頃は休みの日に働いてナンボだみたいな、今だったらパワハラなのかも知れないけど、僕がペーペーの若いディレクターだったとき、10個ぐらい先輩のプロデューサーとかやってる人が「なんか日曜日とか会社くると静かで作業しやすいんだよね」とか言ってきて「いい迷惑だな。なんでそれに付き合わなきゃいけないんだよ。」と。今や懐かしいけど。
だからなんとなく休みの日に働くの嫌いなんです。そういう上司を持った反動なのかもしれないけど、休む時は休んだほうがいいと思う。だけど実は自分はそんなにそれが出来てない、休みの日でもなんか仕事しちゃう。しちゃうでもないんだよな、気持ちだけ仕事してる(笑)そういう所がある。
フリーになるとは自立するということ
外国の著名なビジネスマンが週末は一切仕事を入れず、山荘に篭って釣りしてますみたいな記事を見たりすると羨ましいと思い、自分もそうしたいと思う。今は会社辞めてフリーだから極論すればいつ働いてもいいし、働かなくてもいいわけで、仮に月曜日を休みって決めてもいいわけで、日曜日に働いても働かなくてもいい。そういう風にやってるんだけど、やっぱり木曜日が久しぶりに祝日だったりすると、なんかホッとしている自分がある。木曜日が祝日だから自分のタスクと言うか仕事みたいなものをやってもいいけど、やらなくても怒られない。そもそもフリーなんだから誰からも怒られないけど。
逆に言うと自分を律する。自立って自分を律するってことだけど、フリーなるって事は自立するということがすごい大事なんだと痛感する。ところがフリー4年目、丸3年と7ヶ月しておりますが、なかなかサラリーマン時代の気持ちが抜けないというか、やっぱり祝日だから今日はやらなくていいとか。おかしいんですけどね。日曜日に働きたくないなー。
フリーっていつでもずっとやれちゃうから、ある方には「土曜日とかに仕事のメール来ても返しませんからね、週明けまで。」と言ったことがある。つまりそれは来た瞬間にメールを返しているといつまでたってもずっと仕事に追われていることになり、それが良いか悪いかというと、結果、憧れていた「週末は釣り」みたいな人生から延々と離れていく。
ライフ=ワークとライフ≠ワークの矛盾
炊事洗濯、仕事もタスク
例えば洗濯とか料理とか、そういうことは果たして仕事なのかタスクなのかみたいなことを考えると、それって休日に関係ない。だからもしかしたらフリーになる事はタスクみたいに考えること自体が既にフリーじゃなくて、自分が生きていく上で、例えばその日が休みだろうが祝日だろうが休みじゃなかろうが、トイレに行きご飯は食べるわけで、それはタスクと言えばタスクだし、タスクじゃないと言えばタスクじゃない。呼吸だって睡眠だってそう。自分が仕事をしていくことをタスクにしていく必要があるのかなと思う。
プライベートと仕事を切り替える5分の結界
一方で、子供の頃に漫画家さんってご自宅で描かれてる方がいて、あれに憧れた。だから自分もフリー、アーティスティックな仕事に就けば会社とかに行かなくていいんだ!ずっと家にいられるんだ!いいなぁ!っと思った記憶がある。
ところが自分が仕事をし始めるとプライベートに仕事の領域がどんどん入って、頭の切り替えが行われないんだと分かる。漫画家さんが自分の家から歩いて5分なんですけど仕事場にって…歩いて5分なら歩かなくていいじゃん!て思ってたけど、すごいわかります。歩いて5分の結界というか、分けるということがプライベートとビジネスモードの結界になって、そこを超えると頭が仕事になるんだろうと。
矛盾してることを言ってる。ご飯を食べることが仕事なのかみたいなことで言うと、全てがタスクじゃないと言いながら、一方でそれをずっとやっているとやりにくくなる。そうすると自分が生きている上でやらなきゃいけないこと、やる必要のあることが何個かある上で、モノを作るということは別個にしておいた方が作れる感覚。それは別個でやるという感覚。それは漫画家さんの歩いて5分の話に繋がるんじゃないかと思う。
モノを作るということを神棚に分けて置く
僕の中でもモノを作るということがビジネスの領域になっているものもあれば、趣味の領域でしかないものもあれば、一方でモノは作ってないけど生きていくためにやっている仕事的なものもある。そこが一緒にグニュグニュと混ざってるからバラエティプロデュースと言っている。それでいいと思ってるけど、神棚に上げるというか、自分のやりたいこと、自分の推考な「自分はコレだ!」と思うコレを神棚にぐっと上げておくことで、普段はそれをやってないんだけど、そこに行くとそれをやる儀式みたいなものがあった方が、日々生きてていいだろうってことも一周回って分かるわけです。
だから面白い。僕の面白いは何が面白いのかさっぱり分からないかも知れないけど。つまりワーク・ライフ・バランス。数年前の僕は「何言ってんの。そのワークとライフを分けることがすでに古いよ!」みたいな、ワーク=ライフであってライフ=ワーク。ワークというと労働みたいになってまた語弊があるけど、自分がやりたいことを仕事にしていれば、そこはバランスというより分けて考えることが間違ってるんじゃないか?と言ってたにもかかわらず、そういう風にやってるとやっぱり分けた方がいいんじゃないかと思う。
区別することへの抵抗感
それこそ先週の動画でその話をしたけど、"分ける"という言葉で論理的に考える。言葉で考えていくとやっぱり分けることになる。言葉というナイフで物事を分断していく、切っていく、そこで分析する。分析って分けるって書くじゃないですか。だから何か厳密にやるとすると、やっぱり思考は分けてかなきゃいけない。そうすると”分ける”というのはやっぱり区別するってこと。だから区別するということが人間が生きていく、仕事していく上ですごい必要なことなんだけど、区別ということは結果差別になり、やっぱり僕の中では抵抗がある。
差別というのは人間的という意味もあるし、この情報に価値があり(=高い)この情報に価値がない(=低い)と段差=区別を付ける。低いと区別した、自分が要らないと思った情報が果たして本当にいらないのか?と思ったとき、この区別した人間である僕が単純にそれを下に定義したというだけで、それは単純に僕が見えてないだけ。違う人だったらこれが逆になるなんてこともある。
関係性が入れ替わる面白さ
そう思うと区別したあなたの区別感、区別したその言葉の使い方は果たして合っているのか?それで良いのか?いけないのか?合う合わない、良い悪いと言ったけど、正義の話をしてるわけじゃなくて…。
もしかしたら段差をつけたものの高低が入れ替わるかも知れない、その関係性の違いみたいなものが面白いんじゃないか?と。だから区別する/されることが言葉で切ったように、意見を感想を述べました、こちらの作品は良い作品こちらはクソですみたいなことは意味があるように思えるけど、そのクソですと言ったあなたがクソなんじゃないですか?という事実の方が面白いし、そう考えるとそれがキュッと入れ替わる、関係性が変わるところが面白い。
存在と関係の2つがありそのものができてることをずっと思ってたら…今、人格ついて考えるという倫理思想の夏の集中講義を受けていますが、まさにそういう話で、先生が仰るにはアウグストゥスがその話をしてる。アウグストゥスって紀元前の人。その人が今僕が言ったようなことを言っている。
関係性がインタラクティブなことがその人の存在にとって一番大事なことなのかと思う。それは実体みたいなものがあるとみんな思うんだけど、それをどう評価するかでレベルが変わるわけだから、結果評価する人との関係性なんだと思ってたら、もうアウグストゥス先生は仰ってるわけですよね、今から1600年前に。
情報と自分の関係性の変化を楽しむ
そうすると仮にインフルエンサーや著名人が言った凄い面白いこと対してふむふむと思うけど、その人が言った凄い面白いことは既に1600年前にアウグストゥスが言ってたと知らなければ高い位置にあり、逆に知っていれば低い位置になり。そこにもまた関係性や上下みたいなものが起こる。そうすると、あなたは上こちらは下のように、言葉で区分けすることはそんなに意味がない。
意味はあると思いますよ、その人にとっては。その人にとってはあるんだけど、2020年7月現在僕が思うことは、この著名人がこの作品について良いと言っていた、あのインフルエンサーがこの作品をクソだと言ったとかは、どっちでもいい。それよりもその作品について自分が思ったってことが大事であって、なんだそんなことはもう1600年前から人類が知ってたんだと思った時に感じる、ある種の絶望感みたいなものを感じるということの方が意味があると思う。だから情報とはその情報に価値があるというより、情報と自分との関係性の変動に意味があるのではとすごく思う。
1600年前にアウグストゥスが思った事は、アウグストゥスより前に思った人がいたかもしれない。それは記述されていなければアウグストゥスは知らないし、同様のことが記述されていても、仮にそれが岩波文庫に入ってても、それを現在のインフルエンサーが読んでなければ知らない情報だったとすると、レベルは一緒なわけです。あとは現代のインフルエンサーがどう思うか、1600年前のアウグストゥスがどうと思うかだけのこと。
だから僕が思うのは今この瞬間から全く新しいことを思っても考えても、多分もう新しくない。結局、結局結局、それはプラトンがもう言ってるかもしれないし、安部公房先生が書かれているかもしれないし、誰でもいいんですけどトマスアキナスとかね(笑)、そんな歴史的な人ばっかり出しちゃってるけど、そんな人がもう考えてるんだろうなと思うと、自分が思ったことと、過去に誰かが思ってたことの変化を感じるということが、実は一番に楽しいことなのじゃないかと思う。
たまたまその情報に出会うことの意味が重要
これって、何かを言っているようで何も言ってないような気もするけど。やっぱり何かを言ってるんだけど。つまり何かがあり、それにどうレッテル貼るかみたいな評価は世間の資本主義的なマーケットに多く、自分もテレビにいたからそんなことばっかやってた気がする。評価している自分が大したことない場合、果たしてその評価に価値があるのか?無いなとなると、さっき言ったインフルエンサーとか素晴らしい人が評価してるなら価値が高いだろうということで、テレビとか作っていると専門家に話を聞くわけです。
そういうことをずっとやってきて、それに対するアンチテーゼとうか、だからって自分が面白いと思ったから面白いでいいじゃないですかと、そんなに思えない自分がいる。だってあなたはそれを面白いと思ったけど、それしか知らないからじゃ?みたいな。じゃあ世の中のこと全部知れるのかと言われたら、世の中のことはほとんど知られないまま死んでいくわけです。だとすると、(角田さん自身の)後ろにこれだけ本があるけど、それでも自分が出会える情報は限られている、こんなに沢山ある中で。とすると、たまたまその情報に出会うということの意味がすごい重要なんだなと思う。
たまたま出会うことが重要だということは時に多くの人が感じているから、そのたまたま起こる重要なものを良いものにしようと思って人のリコメンを調べてみたり、Aという旅館に泊まるよりBというホテルに泊まった方が良さそうみたいなことで選別していく、セレクトというか。
だからやっぱり先週に続き”分ける”ということが果たして良いことなのだろうか?そうは言ってもそうやらないと人は定義できないし、A旅館よりBホテルのがいいって知ってたらBホテルに泊まりたくなると思うけど、なんとなくポンっととその町に入ってCという宿に泊まりたいなと思う時もあって。そのCがAよりもBよりも劣っているかどうかなんて実はその時の天気や到着時間で変わるようなものと思うと、初めからAかBかを調べて選別していることは果たして意味があるのか?なんて。
個人的アパルトヘイト
”分ける”で言うと、アパルトヘイト。南アフリカでやっていた人種隔離政策。アパルトヘイトって僕は最近よく聞く〇〇ヘイト、憎む、憎悪のヘイトで、アパルトってアパートだからアパート+ヘイト、そっか!分けてヘイトすることなんだ!なんて思ったりして、でも調べてみたら違った。heidは英語はhood、Brotherhoodみたいな。ドイツ語だとヘイド…オランダ語?南アフリカってオランダ語からアフリカの言葉になり、ヘイトはアパルトを名詞化してるからやっぱり隔離政策みたいな意味らしいということで、ヘイトというのは憎しみとか嫌悪じゃないんだなと。それはいいんですけど。
アパルトヘイトは南アの人種隔離政策だけど、僕はいつも結構アパルトヘイトって言葉を使う。例えば自分が会社に行ってたとき、局員とプロパーの雇っている制作会社の違いで待遇が違い、このボタンは局員は押せるけど制作会社のディレクターだと押せないなどがある。それはすごいアパルトヘイトだと思う。
このアパルトヘイトの罪深いところは「決まりなんで」と言ってそういう決まりをし死守しようとする人が無自覚にそういう行為をするところ。それって、アパアルトヘイトではホワイトとカラードに別れてましたけど、カラードにされた方の気持ちって考えたことあるのかなと思うと、その制度設計している方はホワイトの方だから全然気持ちがない。それがもうすごいムカつく時があって、会社の中でそういうことを無自覚にやっている部長とかいた時には「やってることがアパルトヘイトと同じですよね?いいんですか?報道を司っているテレビ局でアパルトヘイトやってて。」って言ったこともある。
無自覚的片務関係
先日もあるプロデューサーから「〇〇さんという面白い人がいて、その〇〇さんに面白い人を紹介する企画をやってます。角田さんは面白いので紹介したいのでzoom飲み会やませんか?」と来たわけです。見ると知ってる人も参加するようだし、スケジュールも巻いてたし、じゃぁ参加しますと送った。すると「翌日ズームのアドレスはこうですけど、たくさん人がいるとごちゃごちゃになっちゃうから、時間区切ってやりたいんです。角田さんは〇時〜〇時でその人と会ってください。」って内容が返って来た。
それが前日。セレクトされている。それで僕はなんでだよと思い「あなたのやってることってアパルトヘイトですよね」ってメッセンジャーで送っちゃった。なんで選別されなきゃいけないのあなたにって。〇〇さんが偉い人のか偉くないのかむしろどっちでもいい。偉くなかろうが偉かろうが、その人に合う時間を区切ってまで何で僕は会いたいんだ?その面白い人が誰か知らないのにね。プロデューサーというセレクション、キャスティングをしている仕事だから、まさに僕だってそういう仕事をやっている者だから、そこを無自覚に行っているなと、なんか罪深いなと思う。
この罪深さってその人はたぶん無自覚なんです。これは結構危険なんじゃないかと思う。するとすぐ「すいません。そんなに怒られると思っておりませんでした。どうも申し訳ありません。ご気分害されたようならすいません。」みたいな返信があり、しかしそれもプロデューサーっぽい返答。だって送る前にそのことを考えてなかったと思うし。
それでこのとき書いた「無自覚的片務関係」という、ちょっと読まさせていただくと、
その人と人間関係ができると取り立ててもらえると思っていたり言うことをきいてもらえると思って近づいてきたりして、そのための人間関係を作ろうとしてくる人の浅はかさこそが、その人を取り立てなかったり言うことを聞かないことの一番の理由になることに気付かない浅はかさに、さらに嫌気を感じる。
すいせません、これ音で読んでると全然わかんない。僕がめんどくさい文章の書き方をしているから。でもわざと書いてるんですけどね。なぜわざと書いてるからまた違う回で話してもいいや。で続けると、
つまり信用とは双務的なもので、人間関係とは片務的なものではないのだよ。その人が自分の好き勝手に相手を選んでるようで、その行為自体がその相手には物凄く失礼だったりするのには、その選んでる方の人は気付かないのだ。そしてその無自覚さこそ、無自覚故に、相手にはむしろ敏感に感じられるのだと思う。
プロデューサーやキャスティング的な作業をしてると、そう相手に思われるような行為をしがちだ。なので、そこは常に自覚して、常に敏感にしなければいけないんだと、自戒する。
つまり結論からいうと自戒した。そう考えるとそのプロデューサーの言う面白い人を〇〇さんに紹介という、その面白い人が角田さんなんですってことも最初聴いた時には別になるほどと思ったけど、なんでお前に面白い人って言われてんだよみたいな。どこから上目線でアパルトヘイトしてんだよ!なんてことをすごく思ったのです。
アパルトヘイトな言葉
つまりそういう風に思ってるから面白い人・面白くない人ってセレクションしてて、そこであなたは私のセレクションのお眼鏡に敵った人だから私のzoom会に参加しませんか?と。ところがそのzoom会に参加しませんか?と誘われた人は何人かいて、その面白い人の中でたぶん僕は最下層だから紹介する時間はこの時間に限られますみたいな。アパルトヘイトな上にアパルトヘイトみたいなことやってるなーと思った時に、その人のことを別に批判してるわけじゃなくて、僕らというのは無自覚にそれやってる時があるなと思ったんです。
アパルトヘイトという仕組みがあり、アパルトヘイトすることはすごい許されないことだけど、僕らは実はさっきの旅館を決めるとか、旅館だけじゃなくて何を食べようかみたいなことも含めて常にセレクトしているという意味で言うと、セレクトに入らなかったものを貶めているわけではないにしても、無自覚に貶められているというときもある。
個人的無自覚アパルトヘイトみたいなことは言葉で行われることって多々あるんじゃないかなと思った、ということでございます。
今日紹介する本あったんですけど、アパルトヘイトの話になっちゃったから今日は紹介する本もないまま。
アパルトヘイトだなって思ったんです。それでいいのだろうか?いや、むしろそれやらなきゃ何も決められないっていう意味では仕方ないんだけど、そんなにアパルトしなくてもいいんじゃねーの?っていうことを今僕は思ってるということで、今日のICUCを終わりにしたいと思います。どうもまたよろしくお願いします。
メモという名の私の感想
角田さんの言う”わざと書いてる音で読むと全然分からない面倒くさい文章”、読むの心地よくて好きだ。書いてる時の感情・感覚を文字で表す方法なんじゃないかと思ってるけど、ぜひぜひ正解というか、理由を聞きたい。
140字に仕舞われた句読点や改行の有無まで含めた文字並びの見た目、読んだ時の単語から単語へ進むときの滑らかさやザラつき、センテンス毎の韻や波で、感情や感覚や角田さんの思考のぐるぐる具合を表現してるんじゃないかなと想像しているところ。
どこまでが必要な区分で、どこからが人に嫌悪感を持たせる不要な区分になるのか。私は幸か不幸か郷に入っては郷に従えと思いあまり気にしてないので、不要な区分をしないためにまず自分が区分されたことに敏感になっておく必要があるかな、快不快は別として。まず区分を認識できないとどうにもならない。
昔々珍しく勢いで読んだ酒見健一著「陋巷にあり」では、礼儀は身を守る術と書いてあって驚いた。小説の中ではお辞儀すると矢が避けられたりとメタファーめいた表現になっていたけど、礼儀ってもしかしたら仕方なく区分するときの無礼を回避する役割があるかも。
日本の礼儀作法って堅苦しい。2020/7/12のICUCでも出た型、型が苦しい。欧米みたいにはっきり物申して判断すればいいと思うけど、実は日本人の気質、高い"相手を推し量る能力"には、堅苦しい礼儀作法は合ってたのかも知れない。推し量り力が型からジワリと広がるから、型があるくらいがちょうど良かった。いや、型枠が推し量り力のドライバーを担っていた様に思えてきた。と言ってもイメージとしてはボーリングのガターにつける子供用のバンパーみたいな(笑)
ICUCは
一人一人の知的好奇心がくすぐられるような
さまざまな「ヒト・モノ・コト」を
皆で持ち寄って
話して聞いて調べて楽しんで
自分の知的好奇心をアップデートしちゃおう
って集まりです。
(by 角田さん)