見出し画像

ぼんやりメモ001

YouTube、企む、上を見る、分ける言葉、資本主義は集団→個

 朝ごはんをかなりゆっくり食べてから洗濯機を回すんだけど、洗濯ものを干したり畳んだりするときはラジオやYouTubeを流す。YouTubeは画面見なくていいやつでね。それで、聞いてたら、なんだか繋がった気がしたものがあったのでメモ。

 企むということは、ある程度自分に自信がある、満足できる環境にある、だから企むことが出来るんだと思う。企むだけの余力があるんだね。逆に言えば油断大敵の状況かな。
 余力があるなら良いことを考えよう。
 楽しみにしまっておいたことをやろう。

 あまり上ばかり見ていると自信を失う。逆に言えば、心から尊敬できて、かつ、ずっと見ていられる人というのは、どこかに自分と重なる部分が見えているのかも知れない。

 言葉を覚えると同時に天才性が失われるらしい。そういうことなら言葉を覚えなかったらどうだろうか?と思ってみたけど、人や物に名前がないのは不便だ。
 でも名前があることって分けることの最所なのかなと思った。上と下、空と地と海、昼と夜、大人と子供、男と女。
 いや、名前なんかなくても、自分とそれ以外があれば分けるね。区別するって認識することだから、生きていくのに要るもんね。これは毒きのこ、これは食べられるきのこ、とかね。
 でも人なら、区別してることを意識できるようにすること、区別することに倫理感は持たないとだめだよってことだね。

 資本主義というのは集まりを個にバラしていくということ。例えば家族という集団に1つ売れば良かったテレビは、個に分けると4人家族で4台売れるということ。
 人類が誕生して、家族、親戚、一族、村、だんだん集団が大きくなって、大きくなれば自分は取り替え可能ないち歯車的になるけど、関係濃厚なシガラミからは逃れられるし、物も情報も豊かだなーって思ったから、人類は頑張って発展させてきたんだよね。
 でも最近は行きすぎちゃって。物も情報も多すぎて選べなくなったし、どんどん売らなきゃいけないから修理より買い替えでゴミは増えるし。
 2020年は大きくて関係希薄な集団から、小さくて関係濃厚な集団を意識するようになった年。人類誕生から反対側まで振り切ったから、戻ってくる折り返しの年になるのかな。
 個性を売りに出来るのが資本主義だったけど、個性は大事にしながらちょこっと戻って行けたらいいね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?