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ICUC-142_2023.01.09【紅白歌合戦の酷評と誘惑幻惑効果に抗う】ICUC知的好奇心向上委員会

【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee !

角田陽一郎142「紅白歌合戦の酷評と誘惑幻惑効果に抗う」ICUC知的好奇心向上委員会

紅白歌合戦、今回のはおもしろかったと想う。
つまり視聴率とかで酷評してるニュースは、そこに視点が行けてないんだと想うのです。

ブルーバックス『科学とはなにか』佐倉統著。素晴らしかった!自分が常日頃感じている、科学への懐疑と社会への不信と、それらを知識の誘惑幻惑効果として巧みに利用している書籍やテレビやネット記事等のコンテンツ商業主義の悪弊が一気に氷解したような感覚。佐倉先生とお話したいなー。

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角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

初稿を上げて海の街から脱出

 おはようございます。ICUC知的好奇心向上委員会、1月9日バージョンでございますかね。3連休、成人の日ですか、今日。成人の日って今20歳なんですか18歳なんですか?よく分かってないんですけど(笑) ね?成人は18歳だけどみんな20歳を祝ってるのかなぁ? だって18歳の時って高校生ですもんね。まだね。よく分かんないんですけどね。
 まぁそんな成人の日で、今日もなんか私はですね、ずっと年末から…どれぐらいだ?1週間…10日間くいらい海の街に篭ってましたですね。出版しようと思ってる本の原稿書いてですね。で、まぁ2022年中に書きますって言っときながら2022年中ってことは…みたいな風にして勝手に締め切りをですね、伸ばしたというかそんな感じにして。で、お正月明けにね、その編集者の方に「連休明けには原稿送りますので」と言って書いてた次第でございますと。
 で、まぁとりあえずそれがどこま出来ているかはともかく。 とりあえず初稿と呼べるものまではまとめられたのではないかなぁと思って。はい、まとめました。なので篭っていた海の街から脱出してですね。ちょっと東京のほうに向かっているというのが今日の私のこの移動中の1人喋りでございますと。
 それで何を話そうかなと思うんですけど、まぁその執筆してて思うこと…みたいな事かなぁなんて思いながらね。 うん、まぁ色々思うような事はあるわけです。
 ゔゔん!!なんかすごい声枯れてるな(笑) なんでだろう?誰とも喋ってないからかな?(お茶を飲む)あぁ。

literature - library / art - atelier / sound - studio

 どこから話そうかなまずその海の街の場所なんですけど。 場所、それを僕はスタジオと呼んだり、アトリエって呼んだり、何なら事務所って呼んだり、色々。
 自分の中ではアトリエって呼びたいんだけど、いざアトリエって言うほどアーティストかよ?!みたいなね、思いがあったりして。 なかなかアトリエっていうのが恥ずかしくて。で、スタジオって言ったりするけど、スタジオって音楽スタジオなのか映像の収録スタジオなのかって感じでは全然ないわけで。だからって事務所って言うとなんか味気なくてですね
 自分としては、場合によってオフィスは海の街にあるんですよみたいなことを言ったりとか、言わなかったりとか。 そんなことをしてるんですけど。なんかそんなことをこの年末に思ってたらですね…。年末にね、文章を書こうとしてて。なかなか書けないものですから、なんか色々着想みたいなものを図に描いたりとか、絵に描いたりとかよくしてるんですね。まぁそういう風にして自分の中でもね、何かアイデアが降ってくるのを待ってたりするんですけど。そう思ってて、そもそもここは…場所は、なんなんだっけな?と思ったりしてね。
 で、そう思ったときに、書斎って英語でなんて言うのかなと思ったら、libraryなんですよね。で、実験室のlaboratory、ラボってのもだし。それじゃあ書斎で僕は何を書いているかと言うと、一応文章を書いてるって意味で言うと、文章ってliteratureだとすると。ああ、literaturelibraryなんだな、この場所は。ふむ、ふむ…と思ったりして。
 で、そうすると、あれ?atelierって…絵を描くよなーなんて思って。まあ稚拙ですが絵を描いてたりするので。artをやるのがatelierなんだと。ああ、AAじゃんかと。それで、じゃあstudioってさっきも言いましたけど、音楽studio…音楽、sound。SSじゃん。だからLLでAAでSSなんだなーなんてちょっと思ったりして。 そっか、じゃあここの場所はLとAとSを──僕はオフィスって言ったりスタジオって言ったりしてたけど。アトリエって言ったりしてたけど。それって…全部なんじゃん!んふふふ♪なんて思ったりして。LとAとSで──。
 で、あとはね。ALSと呼ぶか?とか色々組み合わせみたいなのを考えてたんですけど。LAS、ラスってね、スペイン語で複数の女性名詞に付ける定冠詞。「それら」とか。だからその海の街にある場所をそれらと呼ぶのは面白いなーなんて思って【LAS】ラス、エル・エー・エスって呼ぼうかなーなんて思いまして。私は海の街のLASに篭っておりましした。んっふっふっふっふ♪

 でね。そんなLASに篭ってましたみたいな事って、もう、ただの僕の妄想で。それを誰に言うわけではないんだけど。そういう風にこの場所がどういう場所なのか?とか、今やっている事がどんなことなのか?っていうのを名称を付けて行くっていう作業って、本を書く時にすごい大事なんですよね。今思っている事はなんなのか?とか。で、その本を書く時というか、僕で言うと番組を作る時とかもいつもそういう番組名とかね、コーナー名とかばっか考えてたから、いつもいつもそういう風にそのタイトルはなんなのかな?なんてことを考えてるわけです。
 だからなんか僕もまず本を書くにあたって、この場所はなんなのかな?…あ!「それら」だっていう意味でLASって付けると面白いなーなんて思ってエル・エー・エスと書いてLASで、篭ろうとしてたわけですね。

紅白

 で、そんな感じで年末はね、紅白。やっぱり大晦日は紅白見たりして。紅白はね、なんかこれ言うとあれですけど、視聴率が過去2番目に悪いみたいな事があって。それをなんかことの他紅白は終わりだみたいなネット記事みたいなものがあったんですけど。僕ね、紅白面白かったですよ、普通に。
 でね、そのネット記事を書いてる人になるほど!と分かったんですけど。つまりその人達ってちゃんと紅白見てないんですよね。紅白ってどんな有名なアーティストが出る、無名なアーティストが出る、こんなアーティスト知らないからどうだとか、そう言うことじゃなくて。そのアーティスト、例えば世界の終わりが出て踊ってる後ろで郷ひろみさんが踊ってるみたいなのを楽しむ場だと言う意味で言うと、今回はすごい楽しかったですよね。中継がむしろ減ってて。やっぱりNHKホールと近くのNHKスタジオで収録してますけど。収録というか放送してますけど。その中でそのイベントというかぱパフォーマンスというかがね、どう生放送の中でやり遂げるか?みたいな意味で言うと、すごいよく出来てて。完成されていて。
 で、あともう1個は、じゃあ結構演歌の方とか出てないし。お年寄りがどうだとか言うけど。で、若い人が出てて、お年寄りが全然わかんないじゃんって言うんだけど。確かに僕も分からないアーティストっぽい方いるけど、それって一部の方で。二部は大体分かる方がやっぱり出てますよねとか。
 で、元々ね、レコード大賞って31日にやってたけど。レコード大賞が30日にずれたのって、実は7時20分から始まる第一部を創設したからですよね?紅白の。だから実は9時からの第二部って本当に正統派のこれぞっていうアーティストが出てて。ねぇ?なんか、例えば篠原涼子さんで、小室哲哉さんがサプライズで出るとかね。安全地帯がメンバーが亡くなったのにパフォーマンスするとかね。で、桑田さんと佐野元春さんと世良さんとCharさんと野口さんとのやつとかね。それは録画でしたけどね。ものすごい面白いんですよね。
 そう思った時に──。あともう1個は、視聴率が悪いとか言ってるけど、今、世帯視聴率じゃなくて個人視聴率で世の中を見るようになってるわけですよ、テレビって。で、紅白とかワールドカップの時だけ世帯視聴率の名前が出てくるんだけど。じゃあ今その世帯視聴率なんて他のドラマとか一般的なバラエティって、昔だったら20%とか15%とか取ってたの…今全部一桁台ですからね。つまり世帯視聴率なんてもう関係ないじゃんみたいな感じの文脈になってるから、例えばじゃあ結構人気なバラエティ番組が一桁取ってたりとか、ドラマが一桁取ってても、別に一桁ってことで騒がないような世の中になっちゃってるんですよ。数年前は騒いでたのにも関わらずというか。
 なので、もうそういう世帯視聴率で良かった悪かったって話す時代じゃなくなってるくらい世帯視聴率は下がってる中で、という中で、紅白が30何%とか取ってるって、すーーーごいことなんですよね。で、その時だけ世帯視聴率で議論するっていう。だからあの、なんか紅白はオワコンだみたいなことを言いたいんでしょうね。
 あともう1つは、これ僕、年末に他のテレビ見ても思ったんですけど。結構ネット界隈の人…歌い手とか作り手とか、ライバーとかYouTuberとか、そういう方々って結構テレビ出てますよね。だからテレビってオワコンで年寄りしか見てないとか言いながら、そういう方々って結構テレビ出てて。で、テレビ出てるってのはテレビマンが出てって言ってるから出てるとも言えるけど、その人達もテレビに出たいっていうのがあるんだろうなーなんて思うわけです。
 そう思うとね、例えば僕が若かった頃とかって、それこそ中島みゆきさんとか、松山千春さんとか、甲斐バンドとか、テレビに出ないみたいなね。ラジオだけで聴けるとか、ライブだけで聴けるとか。そういうテレビ出ないみたいなのがカッコいいって時代が確実にあったと思うんですよ。それってじゃあ何でそれがカッコよかったかって分析すると、つまりテレビというのがメインカルチャーで。で、メインカルチャーで勝負してるのがなんかダサいみたいな、サブカルというと今なんか別の記号を持っちゃうんだけど。サブカルチャーな人達はもっとサブカルチャーとして屹立してることがカッコいいみたいなね、ところってあったと思うんですよ。それがテレビに出ることでダサくなってしまうっていう事があったから、テレビ出ない、だったと思うんですよ。
 ところが今はむしろテレビというものがメインじゃなくてサブになっちゃってるから。むしろネットの方がメインなのかも知れないですよね。ただメインの中でメインというものが細分化されちゃっているから、メインというものがすごく表れにくくなってるんだとは思うんだけど。そのテレビがサブになってしまってるって事でむしろ出てるとカッコいい!みたくなってんじゃないかなーなんて、思いましたよ。アドさんとか、バウンティさんとか。みんな出てたじゃないですか。
 なんか、だからテレビとかをカッコ悪いって言ってる事の方がもうカッコ悪いって時代になって来てるんじゃないかなーって事を思った時に、紅白ってのはよくやってるなーってぼくはすごく思いましたね。
 だからなんか紅白がオワコンだみたいな事を言っている分析って、それを書いているライターのセンスがなんかもうすでにオワコンなんじゃないかなーなんて思ったりもしたりもしました。

想いとエビデンス

 で、本当はね。今書いてた本ってそういう事を本当は書きたいなーなんてすごい思ってるわけですよ。で、そういう事を思ったりとかしてて。ただ、なんかね、10日間ぐらい篭っててなかなか文章が書けなかったのはですね。という事を解説しようとした時に、じゃあその角田の言ってる事のエビデンスはなんなのか?とか。まあそれはちゃんと調べりゃ出てくると思いますよ?紅白にこんなアーティストが出てたとか。でもそのすごい研究してその文章を書くという事が、なんかぼくの中では鬱陶しいというか、億劫というか。なんかやりにくいような今気持ちになっちゃってるんですよね。僕としては。
 で、そうするとエビデンス流行りなのって、本を書く時に…どうなのかな?ネットで記事を書く時にってちょっと思った時に、ただ僕が思ったからってだけじゃダメなのかなぁなんてすごい思ったりするわけですよ。
 そうするとね、なんか最近読んだ本で、あえて名前は伏せますけど。僕のインスタとか見たら分かると思うんですけど。なんかすごいトンデモ本みたいなものみたいなものを読んだりとか、すごいちゃんとエビデンス、論拠がしっかりしているものも読んだりしてるんですけど。そのトンデモ本みたいなものにも…何て言うんだろう?エビデンスを付けちゃってる。自分は、こんないい大学を出ているがとか。自分はこれだけ研究していた自分がとか。あとこんな論文に書いてあったみたいな。それってあえて名前を1個、本の名前を上げれた。「進化思考」っていうね、本がちょっと話題になってる本があって。その進化思考ってのはある著者の方が進化というものをベースに思考していくとすごいデザインとか発想みたいなものが豊かになるみたいな話を書いた…トンデモ本じゃないと思いますよ、僕は。ただその方の想いを書いたエッセイなんだと思うんですよ。エッセイって論文って意味のエッセイじゃなくて、日本語の随想に近いエッセイだと思うんですよね。
 ところが、それを進化思考批判みたいなことをやっている学者の方々がいて。その方々は進化思考にはこれだけ間違っている…なんか20個ぐらいあるのかな?これだけ間違ったところがあるみたいなことを指摘しているわけです、学者の方が。で、たぶんそれは正しいでしょう。そうなんだけど。僕別に進化思考の方は、太刀川さんって方かな、自分の想いを文章にしてるだけだから、いや僕なかなか参考になりましたよ。で、その時にこういう進化的な、生物学的な進化というものが実はこう書いていてっていうのが、実はこう…まあその方は学者じゃないしね、ちゃんとした。なんかこう論拠が曖昧だったり間違ったりしてるわけですよ。で、そこを指摘してるんですけど。
 僕ね、別に間違っててもいいんじゃないかなってちょっと思っちゃったんですよね。進化思考っていうのがすごい論文として、何て言うんだろうな…学術書としてどうかっていうような…。う~ん、言葉を選ばずに言えば、レベルの本じゃないんですよ。なのにその本を出す時にじゃあそういういう風にどこかの論文からこういう理論があって、こういう理論があって、継ぎ剥ぎの様に引用してるわけですよね。
 で、たぶん元々論文を書くってそういう引用しながら書いていくわけだから、そういう風にやってるんだけど。そこがたぶん使い方が稚拙だったり曖昧だったりしてるというところが、たぶんその論拠の薄弱さというか、誤謬というか、そういうものがあるんだと思うんだけど。なんか僕別にそれをいう事がすごい野暮だなーて思っちゃったりするわけです。
 一方で。でもそういう本が、何ていうか進化思考以外の本でも、そういう本が出てる時に、やっぱりそこにエビデンスをすごい求めてる感じの世評…、時流というか、潮流というか、時代がそうなってるのかなーなんて思うんですね。
 だから一番質が悪いのはトンデモ本なのにさもエビデンスがあるかの様に書く、みたいな。これっていいのかなーと思った時に、さてじゃあ僕が。例えば僕は地理の本を書いてて、地理思考なんてことを言ってたりとかね。最速で身に付く世界史って本では資本主義ではなくて「し」に「゛」で時間の「時」になって時本主義になるとか、僕が適当に言葉を作って書いたりしてて。これエビデンスあんのか?っていったら無いですよ!僕がそう想ってるという。だって駄洒落だもん。
 ただそういう風に世界を見立てると、きっと思考みたいなものがなんか繋がって行くというか、見えやすくなる。見えにくくなる学者の方は別に見なきゃいいし、なんなら読まなきゃいいだけだと思うんだけど。なんかそういう事でああ、なるほど、ちょっとした知と、ちょっとした楽しみみたいなものを連関させる時の見立てみたいなものが僕はすごく面白いなーと想ってるし。僕がそういう事をやるしかね、バラエティプロデューサーとして番組を作るとか、本を書くって、やっぱり出来なかったっていう事の方が正解かも知れないですね。ちゃんとエビデンスを、論拠をしっかり書いてやるって事が出来る能力が僕に無いだけなのかも知れないんだけど。なんかそうこら辺の僕がこう見立てたっていう事を書くっていうだけで十分なんじゃないかなと想ったりするわけです。
 ところが一方で、進化思考批判みたいなものとかを見た時に、ああ~、でもやっぱりエビデンスはちゃんとやらなきゃいけないんだなと思ってる事のうじうじ感が、年末年始の僕の執筆…LASでね、篭ってる時にすごい僕の中でなかなか筆が進まなかった理由なんだろうなーなんて思うわけです。

誘惑幻惑主義

 で、そんな中でそんな風にしてる時に、ブルーバックス。ブルーバックスは比較的論拠がしっかりしている本だと思うんですけど、新書だと思うんですけど。講談社の。で、「科学とはなにか?」っていう。佐倉統先生の本をね、たまたま、これはだから読んだというよりオーディブルでね、聞いてたんですけど。すごい面白くて。で、音で聞いてると言葉が分かんないからってことで、結局買っちゃっいました。
 だからオーディブルで興味がある本は、興味があるとやっぱり実は買っちゃうんだなーって、ちょっと自分で思ったりしてね。で、年明けにその本が届いて。で、読んでいたら。僕が今まさに思ったこのエビデンス至上主義みたいなものって何なのかなーと思ったら、「科学とはなにか」っていう本の中に書いてあったんですよ。
 で、この「科学とはなにか」を──たまたま僕は最近ブルーバックスをオーディブルで聞くマイブームが起こってたから、たまたま「科学とはなにか」を手に取っただけなのに、僕が今書いててすごい自分の問題提起みたいなものを、すごいエビデンス至上主義みたいなの気持ち悪いなーと思ってたら、「科学とはなにか」の中に『誘惑幻惑主義』っていう風に書いてあって。
 つまり幻惑、科学的なんだよって幻惑させる誘惑がすごい読者の方にも製作者の方にもあるんだみたいなこと。科学者の方にもあるっていう様なことを、実際それが問題なんだってことを「科学とはなにか」を考える時に…っていう時にね。まさにエビデンスとして佐倉先生が書いていて。ああ!僕が気持ち悪いと思っていたのはこの誘惑幻惑主義なんだなっていう。
 で、この誘惑幻惑主義ってテレビとかを作ってて。まさにこれを、これを聞いている本の編集者の方とかいたら一番そこを──。だからそういう、何て言うんだろう?これは東大の先生が書いたからみたいなことで誘惑幻惑主義を乗り越えるとかね。ここのこの論文のある部分だけ引用して、それが間違ってるか正しいかという事をそんなに吟味せず、どんどん、どんどん理論的に補強が…稚拙な感じで補強して。何となく1冊の体にしている本ばっかだなって思うんだけど。むしろそんなことより「この人がこう思っただけです」って書いてた方が、僕は潔いんじゃないかなと思ったりしてですね。
 うん。だから誘惑幻惑主義に囚われない本作り──もしこれを見ているテレビマンの方がいたら、誘惑幻惑主義に囚われないテレビを作るとか。なんならネットに記事を書いてる人がいたら…とか。 なんかそういう様なことがすごい求められてるんじゃないかなーなんて思ったりします。

Inter+esse=興味

 それで。そんな事を思いながら何とかね、もう本当に、もう本当にさっき一応第一稿を上げたんですけど。昨日とかも結構…なんかもう1個インパクトが欲しいなーなんて思った時に、前も話したんだけど。今回「間」っていうのを結構テーマにしてですね。「間」って言うのは人間の「間」って書いた、時間の「間」って書いた、空間の「間」って書いた、あの「間」、あいだってかいた「間」を結構テーマにして書いていて。で、そこから話はどんどん広がって行くんだけど。その間というものは何なんだ?って事を考えてるんだよなーってことが僕の中ではあったんですよ。
 そうしたら昨日、僕のね、参加している学術団体というかね。そこからメールが来てて。ある先生の論文が添付されてたんですよ。ほぉ!と思って、ちょっと読んでみるかと。タイトルが面白かったんで、ちょっと読んでみるかとおもって読んでたら、これが──。だって、あれですよ?僕はその「間」の事をこの年末年始ずーっと考えてたと言うことは、その学術団体のメールを書いた人にはなんら…なんら繋がってないにも関わらずですね、そのメールに添付されてた論文の中に「間」の事が書いてあるんですよ(笑) これ、すげぇな!と思って。そこから引用させて頂きました。うん、エビデンスとしてね(笑) これすごいなと思うんだけど。
 で、何かっていうと。関心、興味ってinterest。interestingのinterest。interestってそもそも間という…ラテン語でinteresseっていうのかな。そのラテン語は間がInterだと思うんです。esseっていうのは事実、存在とか。だから間と存在というものが合わさった言葉が関心、興味なんだっていうことが書いてあって。うわぁ~!そのエビデンス、僕の中では今度の本に欲しかったんですよね。僕がなぜ知的好奇心に興味があって、知的好奇心向上委員会なんて事をやっていて、そんな想いを文章にしているのか?そしてそれを本にしているのか?っていう時に、そもそも僕という存在みたいなものっていうのと誰か…でもいいし、何かでもいいし。何か事象、つまり人と物と事。僕と人物事、あるいは人と物との間、物と事の間とか、物と物の間とか、事と事の間とか。何でもいいんだけど。その間というものが何か?って考えるのが「間」 だなって考えてて。それをバッファって言ったりするなーなんて思った時に、そもそも関心っていうのは、存在の…間というものがある事を関心と言ってるじゃんていうことにね、すごい、こう…なんか僕が書いている事の本質みたいなものがまた降って来たんですよね。うん、エビデンスとして!んふふふふふ!これがねぇ、なんかすごい面白いなーなんて思ったりしました。
 で、原稿まとめて。さっきまさにその部分を引用してね。interestっていうのは間と存在という言葉でできている言葉なんだっていう事を書いて。だから僕らが存在している間に、存在の間にあるという事が関心であり、人間というのは存在なので、関心、つまり僕で言うと知的好奇心みたいなもの=人間の存在意義なのではないか?っていうような事を書いたりしました。
 でもね。それに、その事自体に、僕がそう思ってる事自体にエビデンスがあるかと言われたら、僕がそう思っているってことしかないんですよね。で、僕の本はやっぱり「最速で身につく世界史」もそうだし、「人生が変わるすごい地理」もそうだし、「最速で身につく日本史」もそうだし、「運の技術」もそうだし、「出世のススメ」もそうだし、「読書をプロデュース」もそうだし、「天才になる方法」もそうだし、「好きなことだけやって生きて行くという提案」っていうのもそうだし、…うん?バラエティ的プロデュース?「成功の神はネガティブな狩人に降臨する」もそうなんですけど。結局僕がそう思ったっていうことの…、事実としてはそれしかないので。そこに辺な誘惑幻惑主義に囚われないで書こうという事を書き。これ第一稿なんで、もしかしたら誘惑幻惑主義に対しての僕の中での…、なんかそれへの対抗みたいなものでこの本を書いたんだってことは第二稿で書こうかなーなんて思ってますけど。そういう様な事をね、書いて。なんか自分としては出来たんだなーなんて思いました。

 うん。まあそんな事を思いながらね、なんかさっきのLASじゃないんだけど、僕がそういう風にキーワードを作ってるなーと思った時に、なんか圧倒的に自分のね、まさにエビデンスがない僕の考えにエビデンスがないって意味で、圧倒的な自分の稚拙感というか無力感というかね。みたいなものを思った時に、なんかキーワードだなーと思った時に、なんかそういう自分の迷いとか執着とか、なんか関係性へのこだわりみたいなものが──こだわり過ぎてるからなんだなーと思った時に、それを断つ必要があるんだなーなんて思って。遮断するの断、断つ。断つって英語で何ていうのかなーと思ったらseverっていうんですね。でも断つ、タツってほら、stand、立つこともタツじゃんと思った時に、出発する発つ…出発するもタツじゃんと思った時に、タツタツタツじゃんと思ったわけです。
 で、断つはseverで。立つはstandで。発つはstartじゃんと思った時に。また全部Sが付くじゃんと思って。なんかsever、stand、startっていう、なんかそれが僕が本を書いている最後に思った事。sever, stand and startというか、なんかそんな事を思ったりしてね。

なんかそれがまさに昨日、昨日はロックの日って言われてますけど。1月8日。デヴィッド・ボウイが誕生して亡くなった日。で、エルビス・プレスリーの誕生日でもあるのかな?だからロックの日らしいけど。なんかその1月8日にね、僕はなんかsever, stand and startっていう様な事を思いながらね、なんか黙々と一人で文章を書いていたんだけども。なんかそんな事を思っていたらね、さっきの間っていうものがメールから降りて来てね。なんか本が書き上がったっていう事がなんかすごく僕の中では…うん、なんかすごい孤独感もありながらね。だってタツって言うのは孤独ってことですからね。関係を断つってことだし、一人で屹立するってことだし、一人で出発するってことだなーなんて思って。でも思ったからこそ書き上がったのかなーなんて思って、今日はそんな事を話させて頂きました。
 さて。週明け火曜日からは僕も正月明けというか、ちょっと仕事をしなきゃなーなんて思いながら。やっと今年もね、ちょうど1週間前は元旦に話しましたけど、海でね。なんかこう幼年期の始まりだって話をしましたけども。うん、2歳ですから!(笑) 3歳になる今年、ちょっと色々よろしくお願いいたします。ってことで、知的好奇心向上委員会でございました。

文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 アトリエというほどアーティストか?──私はずっと自己啓発セミナーとかキャリアコンサルなどとは距離を取っていたけど、いざ話を聞いてみて思ったのは、そういう場所、そういう人は「言い切れ」と言う。作品に対する自信の有無ではなく、アーティストとして活動する事が目標なら、まずアーティストだと言え理論。作っているなら作家や職人、作るものを考えるならデザイナー、それがアートだと思うならアーティストで、活動に伴う事務作業の場所なら事務所。私は自分の場所を作業場と呼んでいて、それは気に入っている。角田さんの「それら」と近くて、思考も製作も雑務も、色んな作業をする場所だから。
 人によっては私をアーティスト、場所はアトリエと言われることもあったけど(それはやっぱりちょっと嬉しかったりするんだけど)、やっぱり自分の作品がアートなのか?と言われるとちょっと違うと思うし、このちょっとした違和感を残したまま言い切りをしたくない。
 角田さんは例えば番組名など、名前を付けるとそこを軸として企画が進む様になると言っていた。やりたい事が不明瞭なまま、点でバラバラな企画の寄せ集めだったものが、名前をつけた事でまとまって進み出すと。言い切る事と同じんなんだけど、角田さんの言い方の方が的を得ていて、よく表現されている。軸になるモノに違和感は無い方がいい。
 講師の中には言い切らせてその気にさせ、たまたま言い切った名前に沿ってグンッと伸びた人を実績として紹介し、その他の人は能力努力不足とする人もいたし。名付けるために気持ちの深掘りが重要だという人ももちろんいたけど、深掘り方がせっかちで強引で、違和感を無視してしまう人もいた。私の様に深掘り自体が激浅で話にならない者はどうしたものか。名付けが必要な場合、過去の記録だったり、どう転んでも希望が残る名前がいいかも知れない。3月に生まれたから弥生とか、彩豊かな人になる様に彩とか。人名は案外参考になる。
 余談。名前には力があり、それに指差しを加えたならば呪いになったのだとか。例えば雀を指差し「雀よ落ちろ」と言えば、その雀は落ちてしまう。だからみんなあだ名を持っていて、本名は気軽に打ち明けなかったし、本名を知っていてもあだ名で呼び合ったとか。

 人はオワコンだと思うものが欲しい。それを思うといつも士農工商の下、穢多非人と同じだなと思う。平たく言えばドヤりたい。なぜドヤりたいのかというと、自己肯定感がないから。何か軸になるものと比較して自分が上であるという方法でないと、肯定の代わりが出来ないから。本来なら自己が軸になるので上も下もなく、幸せ、満足感があるので、外のモノを持ち込んで心を満たそうとしない。自己肯定感が低いのは不足感ともいえる。
 進化思考は批判も含めて全く読んでないけど。学者が誤解またはイライラする程度には、エビデンスとするものを付記しているということなんだろうな。著者がそうしたかったのか、編集者がそうしたかったのか。
 ただ角田さんが言うのは、そうだとしても、その人(著者か編集か)の自我の発露ですねーでいいじゃんってことだ。私もそう思う。で、編集者として、こういう表現にしたらどこの誰の、どんな気持ちを掻き乱す可能性があるか?無駄な誘惑幻惑を誘発してないか?つまり炎上商法みたいなことで売れればいいだけの本にしたいのか?そこを考えてみないか?!ということだ。
 学者のプライドも自己肯定感の「心の不足」状況と似てるのかも知れない。私は議論と感情の線引きが出来ないから議論は苦手だけど、今の学者さんには私ほどではないけど、感情と切り離してちゃんと議論ができる人が少なくなったのかも知れない。もちろん人だから名誉欲なんかも絡むし、学者が学者として在ることは結構難しいんだろう。
 学者、言い換えると研究者は、とにかく研究費用をどうやって確保するかという研究の本道ではない部分に相当な労力が要るそうだ。関心の高い研究分野か有名な研究者なら資金調達はしやすいことを考えると、なんちゃってエビデンス付きの本が売れることは、誘惑幻惑主義に正当な研究者が負けるってことだ(正当な研究者って言い方はさておき)。心中穏やかで無いのは察せられるけど、叩く行為が学者の…品性と言えばいいのかな?品を下げてやしないか?とも思う。それくらい必死にならざるを得ない研究界隈事情もAIの登場でなんとか良くなったりしないだろうか?(それはAIに希望を持たせすぎ(笑))

 「間」は言い換えれば遊び。角田さんがよく使う言葉だとバッファ。心の隙間という間・空きがあると自己肯定感の不足で、幸せで埋まれば満足になるけど、間はそれとはまた別のもの。骨で例えるなら心の隙間は骨密度で、間は軟骨かな。それぞれ別に、どちらも必要なもの。
 なんら繋がりのない学術団体から「間」に関するメールが届く──以前豊津徳で豊津さんが「アーティストは時代の空気を最初に表す人」と仰った。角田さんと研究者とメール配信者は、時代の同じ空気を読んだ者同士だったんじゃないかと思った。実はこうして本人が知らずに空気を読んでいること、それが同時多発することが往々にしてあるんだ。

「interest なりたち」で検索していた時に読んだ記事。間にあるもの、介在するものとして指していたものは金利だったというお話。

英米人のビジネスマンと話していて、ある事業が interesting だと言われると、はじめは「遣り甲斐のある」、「興味深い」、「ためになる」感じを受けていましたが、彼らはどうやら「儲かりそうだ」というニュアンスで言っていることが多いということがわかりました。

https://maonline.jp/articles/interest

 interestの意味が好奇心とか関心であり、それは楽しいとか愉快という意味とはちょっと違うという理由がものすごく分かりやすい。
 esseから生まれた単語にはessence=本質があるのも面白かった。人は動物だから生きることが本質だとして、より確実に生き抜けられる可能性を秘めた道具としてお金が登場した。しかも金利とはお金が生むお金、ゲーム的にはちょっとチートな感じの道具。生き物としてそこにこそ関心を持つのはすごくすごく本質的なんだ。

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