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ICUC#020(篭って週間#014)2020.6.28【パッとしないと、地味だといけないんでしたっけ?ボルヘスの図書館で想う】

今週ものんびりと知的好奇心のアップデート【 ICUC 知的好奇心向上委員会】に参加したので、復習用の参加メモを作成しています。

今日の推薦図書
「ボルヘス『伝奇集』 迷宮の夢見る虎」今福龍太(慶應義塾大学出版会)

動画 (ICUC先行公開後に一般公開。)
014“パッとしないと、地味だといけないんでしたっけ?ボルヘスの図書館で想う」”
企画会議をすると、○○ならパッとするから盛り上がりそうで、××なら地味でヒットしなそう、って話によくなります。でもそれって本当にそうなんでしたっけ?
アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの幻想文学から妄想してみました。

[CAMPFIRE] ICUC 知的好奇心向上委員会

ICUC note

ICUC主宰:角田陽一郎webサイト

mireva channel

動画の内容
・妄想前のアイドリング
・虚飾でない本質的なもの
・資本主義によってつくられた自分
・迷宮の夢見る虎
・やべぇ!以上の気持ちは自分で出会った方がいい
メモという名の感想

妄想前のアイドリング

知的好奇心向上委員会の角田陽一郎です。よろしくお願いします…何がよろしくなんでしょうね(笑)だってこれ一人で喋って、よろしくも何もないんじゃないかななんて思いながらも、よろしくお願いします。

という意味で言いますと、自由大学での発展途上人学(zoom)では、講義が始まると僕だけ最初は画面に映ってなくて、校長の深井さんから紹介があると僕が出ていくんだけど、「お呼びしまーす」とは言ってもzoomですから、自分でカメラとマイクをオンにする(笑)この恥ずかしさが面白いなーなんて思ってる今日この頃でございます。すいません大した話じゃなくて(笑)

で、今日は何話そうかな。前も言ったかもしれないけど、自分が話すことで考えてることが具現化、具体化していくので、誰かに話すって大事。本当は他者がリアルにいた方がいいんですけど、こんな状況(コロナ)ですし、そもそもラジオをやってる時に話すことが自分にこれだけの価値(※)を与えてくれるんだと知ったので、自由大学では発展途上人学、知的好奇心向上委員会をやってます。
※私の耳がポンコツなため聞き取れず。言葉の抑揚からいくと「鍵」と仰ったかも。

虚飾でない本質的なもの

今日思ったのは先日のある番組の企画会議。どんなものを取り上げるとヒットして、どんなものだとパッとしないよねという話になった。パッとしないと流行らない、パッとすると流行るということが一対一の関係で繋がってることが無意識にある。あるものを取り上げようとした時に「パッとしてないからそんなに流行らないよね」と言う方がいて、みんなも「確かにちょっと地味だもんね」と言う。

そもそもなんで地味だと流行らないんでしたっけ?
流行るってなんなんでしたっけ?

それを企画にしようとしてる根本の一つは、コロナ禍でライフスタイルやビジネスモデルが変わり今まで通りにできない中で、売り上げが落ちてるなどそういうものにどう対応していこうか?というのが発端なのに、結局パッとするものをやりましょうということは、コロナで変わった僕らの意識を元に戻すというか、忘れ去ってるところが論理的におかしくないか?

今まで信じてきた《人を集めて盛り上げる/その熱量で経済を動かす》みたいなことで言うと、元々は三蜜=経済を回す原動力=パッとしたことで、それがコロナでできなくなったから新たなことを作ろうと言ってる時に、結局情報の三蜜みたいなものを求めてるって、なんか矛盾している。

そのとき「地味ですよね」に「うんうん」と言ったけど、「地味じゃダメなんでしたっけ?むしろ駄目とか良いとかよりコロナでみんなの考え方が変わった、気づいた、今までの虚飾がバレて不要になった、虚飾が嫌だと気づいたという人が多い中で、虚飾=パッとすることをこれからの企画として考えてることってナンセンスなんじゃないかな?」と。

かといって逆張りで地味な方にで行こうではなく、虚飾でない本質的なもの求める。これだけ人に会うなと言われる中で人に会うとはなんなのか?ということで人と会う価値が生まれるし、旅行にいけない中で家族や好きな人に会いに、ちょっと歩いて出かけるみたいなことの楽しさ。そいういうことがすごく大事なんじゃないかなと思ったわけです。

資本主義によってつくられた自分

別の会議ではスニーカーの話になり、スニーカーにこだわりがあるか聞かれたけど。
AじゃなくてBじゃなくてCというようにモノにこだわるというのは、結果的にAじゃなくてBじゃなくてCが売れますよというような、資本主義的なものに自分が束縛されてる感じがする。なので聞いた人には「スニーカーにこだわりはないです。履ければいい。」と。

履ければいいというのはこだわってないわけじゃなくて、足にフィットするとか、使い方に合うとか、気持ちいいデザインとかはあるんだけど…
自分の《思い/欲望/希望》があり、一方でそれにマッチした商品もある。その商品を作った人は僕にマッチするモノを作ったとも言えるし、この商品によってマッチする僕の感性が作られてる。
そんな感じで半世紀も生きてると、結果的にそういうものが良いモノだと思ってる自分というのは、実は資本主義によって作られてるということに、元々うっすら気付いてる。

例えば田舎暮らしがいいとか家庭菜園やりたいとか、そいうことをテレビで取り上げたりもするんだけど、それは都会に疲れたというアンチというか、アンチなことを流行らせるという意味では結果的に資本主義に乗ってる。資本主義的な大量生産は嫌だから自然的なものをと言ってる割に、それがブームになってしまった時点ですでに大量生産というような矛盾をずっと感じてきた。みんな薄々感じてたのが、今回のコロナで気付いたんじゃないかと思うんですよね。

地味で売れなくていいじゃんと言う、とさすがに僕の仕事が成立しないんだけど。
糸井重里さんがコピーライターからほぼ日になった時に仰ってたのは、コピーを書いてその商品を売るというのは、発注がきたらその仕事を受ける。どんなに素晴らしいコピーを考えても、それは仕事だから当然考えるけど、自分が勧めない商品も勧めなきゃいけないことに嫌気がさしたから、ほぼ日を作って自分のお勧めしたいものだけ勧めることにしたそう。

ほぼ日作られたのが49歳。僕が今49歳で今年50になるけど、今からでも新しいことって出来るのかなってちょっと思ってる。その新しいことと言うのは本当に新しいことというより、昔に戻るでもな清貧でもなく。
半世紀間、49年間、自分に染み付いた資本主義的なもの(儲け、売る、バズる)。それのための広告モデルで飯食ってきたテレビ業界にずっぽり20数年いたから、つまり人生全部が資本主義、その半分はテレビというどっぷりofどっぷりの僕の人生から、違うところに行ってみたい感じがすごくする。

違うところが果たしてあるのか?と言うか抗ってみたい。抗ってみたい=アンチと言ってる段階でそこに縛られる気がするから、そんなこと気にしない方がいいと思う。
そう思ってる時に、たまたま読んだ本が今日の推薦図書。ボルヘスというアルゼンチンの作家。ボルヘスの伝奇集について今福龍太先生が書かれている「迷宮の夢見る虎」。

迷宮の夢見る虎

ボルヘスが好きで何冊も持ってるんだけど、最初に出会ったのは「砂の本」。大学で第二外国語にフランス語を選択したら、そのテキストがこの本のフランス語版で。習いたてのフランス語だし、訳してみても分からない。単語が分かって文法が分かってるのにわからない。これはどういうことなんだ?!と思って日本語版を試験前にあんちょことして買って読んでみたら、つまり幻想文学とかマジックリアリズムで、はまった。

砂の本にはまって、ボルヘスが好きで、元々アルゼンチンってなんか好きで。行ったことないし縁も何のに、なんかエノスアイレスとかパタゴニアとか聞くとキュンとする。
小学校の時に高畑勲さんの「母を訪ねて三千里」を見ていてイメージがあるのかも知れないし、チェゲバラはアルゼンチンの出身だし。そんな中ボルヘスにはまり、大学時代には全部読み、新刊が出れば買った。

ボルヘス好きは公言してて、テレビ局に入って作家の先生から君は何が好きか聞かれた時も、アルゼンチのボルヘスって作家が好きですと答えた。聞いた先生は知らなかったんだろうけど、そんなのが好きなのかと言ってくれ、そのことを周囲に言いふらしてくれた。

この好きということについて何を伝えればいいのかって、伝えない方がいいなと思う(※)。この文学、どれも短編ですぐ読めるんだけど、簡単かというとそんなに簡単でもなく、夢みたいな作品ばかりでとても夢見心地になるというか、フィクションなんだけど、どこまでがフィクションかわからないというメタ視点も、はまったきっかけかも知れない。
※ここでは伝えない理由に言及せずボルヘス作品の雰囲気の話になりましたが、後の方で言及してます。

学生時代に好きだったということは30年くらい読んでない。20世紀後半に読んでたけど、21世期になりこの本棚に置いてあるけど、読んでなかった。たまたま今福先生が新刊を出したということを大学で聞き読んでみようかと思った。読んでみて、「あぁ僕はボルヘスが好きだった」ということがすごく良く分かった。これを今読んでるということが、さっき言ったパッとしなきゃ駄目、地味じゃ駄目なんだっけ?ということの基本点みたいなものが分かった。

分かったということを言語化しようと思えばできるんだろうけど、うまく言語化はできないと思うので、言語化はしません。しないけど、つまり、やっぱすげぇボルヘス!ということもそうなんだけど、そういう好きな作家の作品、好きな作家について今福先生が語ってるというような、そういう本を見るだけで、自分が疑問に思ったところが書かれている。書かれてるってことがすごいなと思っちゃった。一応、扉のところだけ読んでおくと…

20世紀文学の傑作(中の傑作)、ボルヘス『伝奇集』。この巧智あふれる書物に向き合い、その多彩な謎を鮮やかにとりだして再‐物語化しながら、虎、無限、円環、迷宮、永遠、夢といったテーマをめぐる探究を読者に誘いかける。ボルヘス流の仮構やたくらみを創造的に模倣しつつ語られた、まったく新しい画期的なボルヘス論。

これを読んで、さっきの地味じゃ駄目なんだっけ?ということに対しての回答が分かったような気持ちがした。
それをnoteに書いたんだけど…

今日はダブルブッキングが1つ、トリプルブッキングが1つ。その間の移動時間0が2つ。色々大変だったけど、リモート作業がそんなスケジュールをなんとかこなしてくれる。
一方で自分の真の問題はスキルが有っても誰かに相談しても解決策は見つからない。その問題を引きずって生きていくしかないのか。
そう思うと、うまくやるとかうまく生きていくって、結局何なのだろう?って思ったりもする。歳取るごとに経験を積むごとに、その瞬間の個々への対応は上手になるけど、その解決策は実はどんどん朧げになる。老眼が進むようにどんどんボヤけてくる。この問題に解答なんて実は元々無かったんじゃないか?この世界自体が、実は例えばボルヘスのバベルの図書館だったんだ。
とすると生きることをどんなにマニュピレイトしても結局それは何事も為さないし、それでも自分ができることといえば、たまたま自分が出会ったその瞬間の記憶をなんとか記述することぐらいなんじゃないだろうか…なんて妄想が生まれる。
それがたとえ読まれても読まれないとしても。

まさにこのボルヘスの伝奇集。「迷宮の夢見る虎」で最初にバベルの図書館という有名な短編について書かれてるんだけど。バベルの図書館、あらゆることが記述されている本があり、アルファベットのあらゆる組み合わせがある。そうすると宇宙の何倍も大きくないと駄目で、有限なのか無限なのか分からないほどの図書館。そこで人は自分のことが書かれている本を探し旅するんだけど、そう考えるとその図書館の本はあまりにもあり過ぎて、自分が出会う本は限られてる。
それって2つの思いがあって。

1. 現実のメタファー
あらゆるものが書かれているというは現実もそういうことだと言っていて、僕も今福先生もそう思う。この現実に今生きていてパッとしなきゃ、地味じゃ駄目なんて話してる中で、現実の世界がこの図書館だとすると、たまたま出会った本がバズろうがバズらなかろうが、出会ったのはその本で、遠くにバズる本があったとしても、それは永遠に手に入らないかも知れないし、手に取れた本がバズるかも知れない。所詮その程度の誤差なのではないか?

この本が正しい正しくないということが仮にあったとしても、その正しい本に逢う確率は確率と言えないほどの確率でしかない。その本が正しいとか正しくないとか言うことって意味がないように、自分がうまくいった/いかなかったは、どうでも良いんじゃないかなと思ったのが、さっきの文章だったわけです。
2. ほとんどのコトとはアクセスできない
僕の本棚に読んでない本も結構あるし、それが僕の人生の中で全部読めるかどうかもわからない。読まないかも知れないし、でも本は買い続けるだろうし。そう思うとあらゆるものの中で文学だけじゃなく音楽/映画/人は自分と関係ないまま自分の方が消えてしまう。だったら選ぶ必要がないんじゃないか?スニーカーのように。自分のところに来たものを食べるとか、自分のところに来た本を読むとか。来たということは、無限と思われるバベルの図書館の中を彷徨いながら、今日あったことや明日あることは、ぱっと取った本にたまたま書かれていただけなんだと思った。

それしかないんだなと思ったときに、じゃあなんで僕が生きてるんだろうと思うと、今日はこんな本に会いました、この音楽に会いました、この人とこんな話をしましたとか、こんな美味しいご飯を食べましたってことを記述することしかできないなと思ったんです。
記述されたものが良いか悪いかというのはバベルの図書館のメタファーでいうと、手に取った本が意味を為すか為さないかなんて分からないくらいあり、自分の書いたものが読まれようが読まれなかろうが、あると言えばある、でも永遠に出会わない、出会えない、誰も見ないとしたときに、何でそれを見つけられなきゃいけないんだっけ?と思った。

どうなんだろう?
高校の同級生、考具の著者の加藤昌治君とも「年かね」と話していたんだけど。ただ、その年を取った、半世紀ぐらい生きている僕らが、半世紀ぐらい生きたその年にコロナがあったというのは、バベルの図書館のメタファーでいうと、その瞬間に出会った本にはコロナとかCOVID19とかVirusとかオリンピック中止とか書かれてたんだろうなと思う。
そうじゃない本に出会ってたかもしれない、だからその本に出会ったというのはそれでいいんだと思うし、何かの啓示なのかと思う。その啓示ってなんなのかと考えると、話がぐるっと戻って、パッとしてなくてもいいんじゃないかなってことかと思う。

でもこれ言いすぎると角田に頼むとパッとしないもの勧められるんじゃないか?と思われても嫌なんですけどね。
パッとしないものだけ勧めようってことでもないんだよな。パッとしなきゃいけないんでしたっけ?と言ってるんです。映えなきゃいけないんでしたっけ?地味でもいいんじゃないかなとかね。なんかそんなことを思ってるという感じでございます。

やべぇ!以上の気持ちは自分で出会った方がいい

ボルヘスでお勧めというか、やっぱり有名なのは今福先生の本でも論じてる伝奇集。ボルヘス知らない人が今福先生の伝奇集、迷宮の夢見る虎を読んだら面白いんだろうか?うん、これを見ている方で面白いんだろうなと思って手に取るか取らないかが、伝奇集の中のバベルの図書館でその本に出会うか出会わないかという話のメタファーになってるということかな。砂の本というのも二度と同じページが出てこない話で面白い、ボルヘスすげぇなと思う。

今日はいつも以上に脈絡のないものかなーなんて、思いながら、すいません。なんかボルヘスのことを語ってたからそんな感じになったのかも知れないし。

こういう本の分析についての語りってもっと厳密に語れるような気がします。この本はこういうことが書かれてるというか。ところが自分の中ではこの本はこういう風に書かれてると言い過ぎるのは嫌だという、それはやっぱり第二外国語のフランス語で"何書かれてるかわからないというところで出会った"ということが、これだけボルヘスにはまっている自分を作ってるとすると、仮にこの動画を見てボルヘスに興味を持った人が「こういう風に言ってた話よね」というより「なんだこの訳わからない図書館の話は?!」と思って読んでいただいた方がいいんじゃないかなと思うので、僕が映画の感想を「面白かった!やべぇ!」くらいしか書かないっていうのは、やべぇ!以上の気持ちは、自分で出会った方がいいのではないか?という思いでございます。


メモという名の感想

自分が思う自分らしさは、ほとんど資本主義に作られたもだろうし、そうすると自我なんてあってないようなもの?今日も「彩さんでもできたね」と顔をほころばせて言った人への悔しさを思い出す。悔しい理由は私には遊んで暮らせるだけの金がないことで、私は家庭が幸せだから成功できないと言われたことだと分かっている。幸せで安全な生活でも金ひとつで悔しいと感じるだけの資本主義が私にはまだ濃く残ってるんだと思う。

なんで自由に選べないんだろう?いや、自由だったら私は何を選ぶんだ?なんの指標もなく、自分だけで何かを選択なんてことができるか?
そんな生きづらさとか生きにくさは誰にでも少しはあると思う。そこから離れていくというのは、自分を知っているから歩けるのかも。知らないうちは片足だけでも資本主義に突っ込んどいた方が安全かなぁ。

選ばず来たもので生きる。本当に小さな部分、例えば同じパンを買うのに右と左のどちらにするか?とか、選ばないならどうするの?そこで角田さんも今福先生も加藤さんも、そんな話をしてるんじゃないと理解しているかどうか。
突き詰めて根本から正確にと思うあまり、対象に顔を寄せ視野が狭くなる。妄想するには顔を引き、一歩下がって不要なものまで見えてなくては。長らく近づいて近視になっていれば、矯正に眼鏡もいる。
そんな阿保なレベルの話をしてるんじゃないとだけは分かっておく大事さ。
あ、これを悪意や蔑みを持って堂々と「選ばずどうする?」言えばクソリプが出来上がるんだと思った。

「物事を決めるなら自分が心地いいと感じる方へ進め」とよく言われるけど、どこから心地いいを選んで良いのか、私にはちょっと悩ましい。私の頭はとても小さい範囲でしか物事を捉えられていないということはよく知ってる(それをすごく悲観するかしないかは別として)。大丈夫、分からないなら分からないと正直に思って公言できれば、クソリプ脳でもまだ生きられる。

子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。
角田さん、50にして一気に40~70を制覇するのでは?

ICUCは
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(by 角田さん)

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