群れず、慣れず、頼らず
ものすごくのんびり読み進めてる『「99歳、ひとりを生きる。ケタ外れの好奇心で」堀 文子 著』、雨模様と風の強い日が続くとどうも心が塞いできて、もう何も手に付かなくなってしまったので、開く。
日本はかつて村社会でがんじがらめでした。そこからいかに脱出し、個人として生きるか。精神の近代化はそこにあったはずです。そのために多くの人が戦ってきたのに、今の方がよっぽど個がありません。
みんなと同じでないと不安になってしまう。これは日本という国の精神状態が弱っている証拠ではないでしょうか。あるいは、精神の自立がない社会だと言っていいかもしれません。(P.75)
脱出してみたものの、拠り所がないと不安になる。天気くらいで不安になる私の様な者からしたら、それは脱出後に自立できるほどの精神が養えていた人の言い分で、脱出したけど自立できない人というは、未熟だからこそ脱出できると見誤って脱出しちゃったんでしょう?と思える。
いやいや、日本全部でゆっくり脱出したのかも知れない、欧米に並ぼうということで。自立できるほどの精神が養えていた人はそのまま飛んで行けるでしょうけど、未熟者は戻る村すら無くなって、右往左往してるんだ。
先日、「最近どいつもこいつも私はHSPですって言うけど、どういうこと?」という疑問が発端で書かれた記事を読んだ。記事の中にはHSP(Highly Sensitive Person)提唱者本人ですらASDとの差を明確には述べられずじまいなんだと書かれてた。
「彩さんはHSPだよ」とカウンセラーの友人に言われて、私はそれを今も大事に思ってる。だけど私自身がそれを盾に逃げてる様にも思えて、すぐに自己紹介でそれを言うのをやめた。未熟者だからこそ養うべきものを、私の特性として仕方なく出来ないのだと言えてしまうと、何からでも逃げられそうな気がする。
結局、みんなちょっと疲れてて、何かに逃げ込みたいんじゃないのかな。
私はどうしても上ばかり見ては自分と比較して「あぁやっぱり私はダメだ」と卑下して拗ねて落ち込むんだけど、それでもやっぱり努力や挑戦をしてない自分がダメなんだと分かってる。だからきっとみんな分かってるんだろうな。
それを言うと「上を見て比較する必要なんかないんだよ」と教えてくれる人はたくさんいるけど、そこができないんだよな。そして逆に、そこはあっても良いんじゃないかと思う。私にはお手本があるという意味で。
勝手に落ち込んだあとは、出来なくても良いからやりたいと思えたことを未熟なりにやり続けられたらいい。そんなモノをどう見つけるのか、それも今日、知ってしまった。遅いよ、遅い。40年前にその方法が確立されてて、日本全土で当たり前になってたら、精神が自立した社会だったよ(笑)。
私たちはやりたいことは今まで腐るほどたくさんあったし、これからもあるんだけど、出来るだけ全部やってみちゃえばよくて、次の日にやりたいことの先生を見つけ、3日目には始めた惰性でスルッとやる。そうやって毎日1時間だけやるけど、合わなかったら即次へ行く。それを繰り返すんだと坂口恭平さんがインタビューに応えてた。
雨模様と風の強い日が続くとどうも心が塞いできて、もう何も手に付かなくなるんだよ。雨と風が別々ならわりと大丈夫なんだけどなー。