映画 イーディ、83歳はじめての山登り
赤い服に青いリュックのイーディと、青い服に赤いリュックのジョニー。とっても映像の綺麗な映画でした。
お話として都合いいなぁと思う部分もかなりあって、こじらせ系の私では「ずいぶん都合よく見つかるな」とか「リュック置いていくんかい!」とかあったけど、そこはそれ、お話だからと言うことで置いといて。
最初の娘さんが怒るシーン。私にはなぜ怒るのか理解できなかった。幸せだと思ってた家族に実は母がうんざりどころか囚われの身だと感じてたことがショックだったのか。それを自分に相談してくれなかったことが悔しいのか。
はたから見てる私にはこんなに窮屈に暮らしてたんだね、大変だったね、やっと自由になれて良かったねってなもんなんだけど、娘さんは違うんだ。
もぉ〜母も娘もお互い自分の気持ちを分かってもらえない悔しさ合戦。お互い「あんたのために頑張ったし考えたし、めっちゃ苦労してるのに!!」って、分かってもらいたい一心の悲しい悔しいシーンが続きました。
この映画は悔しくて、やるせなくて、寂しくて、そういう時は必ず雨だった。
娘と現実を置き去り、逃げるようにお父さんと約束したスルイベン山に行く時も、ジョニーを登山の先生にしてからも、彼女はとにかく一歩進んで一歩下がってを繰り返す。
いざ山に登るまで、ずっと夢に背中を押され、現実に怯むの繰り返し。
若いジョニーも幸せいっぱいなのではなく、田舎町を早く出ればよかったと後悔しつつ、店を必死に盛り返そうとする彼女とすれ違い、友達がけしかけたせいで頑固なお婆さんの面倒をみるはめになり、親切心と面倒くささと、お金欲しさに苦悩する。
イーディの不幸な人生と、スルイベン山に登りたい理由を話し、聞いてもらい、理解してもらう。ジョニーのわだかまりや苦悩も話し、聞いてもらい、理解してもらう。楽しいお婆さんと心優しい登山の先生になってからも、小さな町はイーディを笑い、きっと彼女のためだからと、何も知らない彼女のためをうそぶいて、登山は諦めて帰るよう説得する。
イーディもジョニーも、夢と現実の間を押しては返しを繰り返すけど、時々、外からかわせない横波がくる。この辺りのシーンは都合云々ではなく、悔しさ、悲しさに胸を占められる。
登る、登らないをもう一悶着してから、結局一人で登らないと意味が無いと言って1人で登山に向かう。この辺から、うん、これはお話だから…と思っちゃうシーンが続く。
オールを無くしてもボートは目的地に着くし、テントが飛ばされても山小屋で助かるし、いよいよリュックも置き去りにして山頂を目指そうとするとジョニーが助けに駆けつけ、また歩き出す。
山頂に石を置くまでは映像美の時間。
登頂した人は頂上に石を置く。イーディは頑固なお婆さんから、やりたいことを全力でやって、助けてくれる手が必要ならその手を払い除けたりしない人に変わる。長い不幸の時間で歪んでしまった思いが解けて、柔らかくお転婆な少女に戻り、頂上にいるであろうお父さんに会えたんだろうなというシーン。お風呂で洗ってあげたりもして大事に、大事に持ってきた小石をそっと山頂に置く。
見せ場らしい映像になって、エンドロールが始まる。
すごーく平たくいえば、不幸で頑固なお婆さんが、わがままにドタバタを繰り出し、苦悩し、楽しいお婆さんになってハッピーエンドという、よくある成長を描く学園モノのなんら変わらないなぁという事なんだけど。不幸な老人が人生の最後にドタバタして幸せになる話なんだけど。
お転婆少女も時代には抗えなかったのか、亭主関白な夫に付き従い、夫のせいで父と疎遠になり、そもそもこのスルイベン山のことを発端に夫の30年もの長期介護が始まってる因果とか。
耐えに耐えて柔軟さを失った思考回路や性格を、歳をとって柔軟さが無くなった身体と合わせて表現してるのかな?とか。
素晴らしい登山を夢見て買い物したり、地図に印をつけたりするも、年老いて頑固で不幸な自分の現実に向き合えないとか。
息を飲む美しさの憧れの田舎町でも、住めば都とは行かない、田舎の苦労とか。
登場人物や環境の設定がかなりリアルで、そのリアルさがトントン拍子に進むお話感となんだかマッチしないだけで、考えさせられる映画ではあったな。
自分に言い訳して逃げてるうちにも歳はとる。
歳を取ればどうしても肉体は衰えていく。
衰えたから分かることもあるけど……
さぁ私、どっちの登山ルート取るの? って。