ICUC-137_2022.12.4【導かれる方向に飛び立てばいいんだ】ICUC知的好奇心向上委員会
【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee !
角田陽一郎137「導かれる方向に飛び立てばいいんだ」ICUC知的好奇心向上委員会
動画の内容(+文字起こしメモ&感想)
教育と制作に疲弊してしまった
おはようございます。バラエティプロデューサー角田陽一郎でございます。ICUC知的好奇心向上委員会を今日はライブ配信してみようかなーなんて思っておりますと。12月5日…5日?6日4日…?(笑) 何で5日の後3日、6日って言っちゃうんだろ。4日ですね。12月4日になってしまいました。今年ももう終わりでございますね。いやあー…、、まあ、終わりを終わりだって言っててもどうせ終わっちゃうもんですから。なので、むしろもう今年を畳んじゃって、来年どうしようかなーみたいなことを最近考えてます。なんかそれぐらいの方がね、もういいんじゃないかなって思ってね。
なので。今日のですね、タイトルはですね、何でしたっけ?忘れちゃった(笑) さっき書いたんだけど!これはあの、配信してると書いたページが見れないから分からないってことなんだな。うん。ああ!「導かれる方向に飛び立てばいいんだ」ってタイトルにしてみましたけれども。これはね、僕が数日前にね、それこそ12月1日、師走朔日にね、書いてるんですけど。そこで書いてる気持ちなんですよ。これ何かというと。ちょっと読まさせて頂くと。
はい。なんかそんな事を書いたんですよ。ゥエホンッ!…これ本当に、さっきまで全然、咳出てなかったのに、喋ると咳出るんだよな。なおかつ夜なんですよね。すいませんね、なんかお見苦しくて。お聞き苦しくて。
そう、なんかね。そんな事をおもったんです。師走朔日に「昨夜思った」って書いてるから、厳密にいうと11月30日ぐらいに思ったのかな。
ちょうどね、30日にね。そうそう、大阪に行ってたんですね。いつもの大学に。で、大学に行ってて。その大学の関係者の方とお話ししたりしてたんですよ。その時にここに書いたけど、「教育と制作に疲弊してしまい」っていうのは…。そう、4月からね、大学の講師をやったりして。なんか桜美林大学でやったりとか。大阪は国際ファッション専門職大学ってところで講師やってたんですけど。まあ簡単にいうと僕なんかが学生さんに教えるレベルの人間じゃないんだなってことはすごく分かったなっていう感じがしましたね(笑) うん、教育に向いてないんだなって。まあ、でも来年も続けようかなーとは思ってますけど。でもまあ、なかなか僕には、何ていうんだろう、荷が重すぎたなっていう。うん。
執筆と研究が疎かになってしまった
教育者ってね、あれらしいですよ。つまり、例えば学生がいて。その学生が何十人かいたとして。僕の話を何十人が全部面白いって思うことはないわけですよ。うん、だからって悲観することではなく。その中の一人でも二人でもね、その人にとっての人生が変わるというか。その人たちの生き方とか、学問につながるきっかけを与えていれば、もうそれで満足なんだっていう風に思える人じゃないと、やっぱり教育者にはなれないんだなって、どこかに書いてあったんですけど。そんなことを思ったりもしました。
で、僕なんかはね、その…だから、エンターテイナーと言うとあれですけど、パフォーマーではあるんですね。だからパフォーミングとしての講義っていうのはやれるんだけど、それ以上のことはやれないんだなってことを痛感するわけですよ。それで疲弊してたな。
で、一方でそれをやってたから、執筆と研究が疎かになってしまったっていう。だからそれでちょうど朔日の日に…2日の日か、久しぶりに…でもないか。先月だから3週間ぶりぐらいにまた東大に行ってね。指導教官の中村先生と色々お話しして。うん、なんかね、博士論文の研究計画みたいなものを書いたんですけど。いや、書いてきてって言われて書いたんですけど。もう自分でもダメだなーって思うところを先生にご指摘されてね。まあ全然だめなんですよ、要は。全然ダメな理由も、何て言うんでしょうね、要はちゃんと研究してないんだけど。自分がくっちゃべってるだけと言うか、装飾で誤魔化してるだけなんだなーなんてことは実感されるんですよね。なんかまあそんな様な事をすごい感じたりして。つまり教育者のレベルでもないのに教育にかまけてるうちに、自分の研究が出来てないんだなっていう風に思ったっていう。
で、僕、別に研究者でもないんですけど。そういう意味で執筆とかもね、やっぱり滞ったままなのは、なんかね、日々のバラエティプロデュースっていうものに時間と精神力と体力を取られてしまって出来なくなってるなーなんて思ったりするわけですよ。
導かれる方に飛び立てばいいんだ
で、そんな中で「導かれる方に飛び立てばいいんだ」って思った事ってのは何かって言うと。あのー…大した話じゃないんですけど。3月にちょっと要件があって。3月、ちょっとある場所に行こうと思ってたわけです。で、ある場所に行こうかなーって思った時に、ある場所に行くならわざわざ行くしかないじゃないですか。いや、わざわざ行きゃいいんだけど。わざわざ行こうと思って、その日がちょうど金曜日か土曜日か迷ってたんですよ。で、まあ、金曜日に決めたんですね。
で、そしたらその日、その朔日の日…じゃないや、30日の日か。なんかメールが来たんですけど。その金曜日の翌日の土日で学会があるので、そこで発表しませんか?みたいな。もう発表の申し込みの締め切りは今日ですよ、みたいなメールが来て。え?!って。その学会の発表する場所が僕が行きたい場所の超近(ちょちか)なんですよ、超近いの。うわぁぁ。
…だからね?これすごい面白いんだけど。その金曜日か土曜日か迷ってて、仮に僕もしその用事を土曜日にしてたら学会には参加できないんですよ。でも何となく金曜日にしてたんですよね。そしたらその翌日の土日って学会がその近くで行われることが分かり。なんか結局どこか行くのにわざわざ行くという事よりも、むしろ行く理由が出来てしまったってなった時に、なんかそのお導きみたいなものってあるんだなーって思っちゃったんですね。小さい話なんですよ、自分のスケジュールがカチャッてハマっただけなんですけど。
で、そう思うと、なんか自分がちょこちょこやってて、小さいことで、僕よくあるんですけど。予定がダブルブッキングだとかトリプルブッキングになっちゃった時に、自分がどうしようかなーと思ってるんだけど、どうしようかなーと思ってると、その先方の方からその日はちょっと無しにしましょうって来たりして。結局トリプルブッキング、ダブルブッキングは解消されるって事とかってよくあるんですよ。タイミングが導かれる方向に行くみたいな。
篭らなきゃ出来なかったこと
だからなんか教育と制作で疲れてしまった2022年って、総括すれば、さっきの書いた文章を読みましたけど。つまり21年ぐらいまではすごい篭ってたわけですよね、みなさんコロナで。20年、21年と。で、篭ってるのが、コロナがまだ収束したわけではないけども、やっと外に出る様になって。復活したから外に出始めたんですよね。そうすると、篭ってることはもうしなくていいや!って意味では外に出れてるんだけど。逆に言えばそれによって篭らなきゃやれない事みたいな事はやれるタイミングがどんどん失われて行くっていうことだったんだなーっていう。まさにタイミング的にね。あ、そういう事なんだなーなんて気付かされるわけです。
そうすると、僕が2017年からフリーランスでバラエティプロデューサーをやってて。17年、18年、19年っていうのはある意味外に出た3年間なんですよね。で、20年、21年、22年ってのは篭りつつ、22年で今まで出ていたのと篭っていたことのバランスがなんか崩れちゃったんだなーと思ったわけです。
この海の街のスタジオ、アトリエ、事務所はですね。そういう意味で2020年から使ってるんですけど。20年、21年はそういう意味では篭ってたんですよね。ところが今年から外に出てるという意味で言うと、結構ここに篭ってないんですよ。で、篭ってること…篭らなきゃいけないっていう現状から脱却出来た、逃走できたって意味ではすごいういいことなんだけど。むしろ篭って考えなきゃいけない、やらなきゃいけないことっていうことも同時に出来なくなってたんだなてことに気づかされたんですね。こりゃいかん、いかんなと思って。じゃあ2023年はどうしてみようかなーみたいな話です、僕が思ってるのは。
なので2023年は、やっぱりね、ちょっと、うん、何て言うんでしょうね、篭ってみようかな。ただ、もうコロナ的なものが縮小されてたらいいんだけど、それで外に、外界に出れるという意味で言うと、外界に出たとしても、外界でも篭ってようかなっていう。なんかちょっと自分の思索をちゃんと形にしなければいけないんだなって思ったっていう感じですかね。それがなんかね、拡散しすぎてて。自分の焦点というか、自分の思いみたいなものを分散してしまって。結果、分散すると色んな…こっち側(左右に)にわーっと広がっちゃってるじゃないですか。そうするとこっち側からこっち側に(左から右に)移動するだけで、身体も疲れるし、思考も疲れるなーというジレンマに陥っちゃってたんだなーなんて思うわけですね。
だから本当にね、半年前くらいのこのICUCで言ってたと思うんですよね。僕いまプロジェクト30何個やってましてーみたいな。うん──やっぱやりすぎですね(笑) やりすぎですねっていうのも、やってみなきゃ気づかないってところが僕がアホな理由なんですけどね。本当はやってるうちに気付きゃいいんですけどねぇ。
だから、なんかね、最近断りましたもん。今までね、仕事ってそんなに断ってなかったんですけど。全部やってたら本当回らないしと思ったし。なんかそんな事をね、思ったって意味で言うと、もしそれが、何て言うんだろうね、ターパイと言うか、自分がそれを出来ないって思ったのであるならば、その状況を改善しようというよりは、その状況に導かれるままに行ってみようかなってことがこの師走の朔日に思ったって事です。で、その状態でやれる事を粛々とやって、うん…何て言うんだろう、それをアウトプットとちゃんとしてみようかなって思ったってことかな。
お陰様でいま執筆をやらなければいけないものが3冊あって。来年上手くいけば4冊出そう何ですよね。だからそれをまずやるってことが1つと。
あと新たな連載もね、話も頂いたんで。それもやるって意味で言うと、結果、自分の身体は微妙に移動しながらも、移動しながらも…やっぱり自分の中で自分の思考に篭ってみようかなっていう。
禅とオートバイ修理技術
うん。でね、思考に篭ってみようかなって思ってる理由のもう1個は、なんかね、それこそ金曜日に大学に行ってね、指導教官中村先生と話してて。僕もう博士論文書けませんみたいな事をぶっちゃけ言ったわけです。いや、書けませんって言うのは気力がというよりも、書くだけの能力がもうないですみたいな。百歩譲って能力もないし、いや、能力があったとしても、それを働きながら、お金を稼ぎながらやる能力…だからそういう意味の能力。それをやり遂げるだけの能力がもう年齢的にも体力的にも無理っす、みたいな。
なおかつ博士論文ってやっぱり研究者としての、ちゃんとした研究というか。ちゃんとした研究をやらなきゃいけないってすごい馬鹿っぽい言い方ですけど。やらなきゃいけない時に、僕は、例えばでいう頭ですよ?世界史の研究者、歴史学者っていうのは「最速で身につく世界史」って本はやっぱり書きにくいわけですよね。書けないわけですよね。自分の研究フィールドなだけに。で、僕は「最速で身につく世界史」なんて本を書いちゃってるし。「人生が変わるすごい地理」なんて本も書いてるのは、僕は歴史学者でもないし、地理学者でもないから書いてるわけですよ。
で、つまり。学者になるために研究してるんだとするならば、むしろ僕がそういう本を書けなくなるっていうことになるんですよね。でも僕は、じゃあその研究をしてる上で、研究者として大学で偉い先生になれるか?なれないか?っていうと、まあなれないし。あの…なりたくもないしって言うのは、なれないからっていう意味と、他にやりたいことがあるしって思った時に、僕は歴史学者としての、例えばすごい歴史の超すごい論文を書く人よりも、「最速で身につく世界史」みたいなものを書く人でいいんじゃないかなってちょっと思ってるんです。
だから僕がやっている文化資源学っていう学問で「最速で身につく文化資源学」みたいなものが書けたらいいなって思ってるわけで。で、それって多分僕は研究者になってしまうと書けないんだよなーみたいな、そんな事をなんか思ったりして。
だから僕はここまでそういう、バラエティプロデューサーとして生きて来た自分としては、もうそのフィールドでやれる範囲の事をやるとすると、研究者としての、博士論文はそもそも書けないし、研究者じゃないからねっていう風に思うみたいなことを先生に言ってみたわけです。
そうすると当然その研究者だけど、そういうこやってる、両立してるひともいらっしゃるじゃないですかって言われて。まあいらっしゃいますよね。でもそれって僕が30代とかだったら出来るけど、もうちょっと無理っす…っていう話をしてね。
で、そこから先生とじゃあ最近読んだ本でインスピレーション受けたのありますか?って。この事はまだそんなに話してないんですけど。「禅とオートバイ修理技術」って本を今読んでて。すごい感銘をうけてるんですよね。その話は今まだ上巻下巻の下巻のまだ3分の1ぐらいしか読んでないから、上巻下巻全部読んだ後、何週間後このICUCで喋ろうかなーと思ってたんですけど。
その「禅とオートバイ修理技術」っていう本にかなり感銘を受けてるわけです。って話をしたところ、なぜそれを、感銘を受けてるかっていうと。僕は文化資源学で研究してるメディアとか、テレビとか、バラエティ番組の、僕がなぜテレビで視聴率を取るためにバラエティ番組を作ってたって時にその行為に違和感を感じてたのかな?とか。その違和感が高まって6年前にTBSテレビを辞めちゃったとか。その後YouTube番組とかやってて、この「ICUC」をやったり、「寿司特」ってのをやってんですけど。別に番組として人気番組なわけでもないのに何でやってるのか?みたいな話って、僕の中での、そんなに言語化してないある思いみたいなものが「禅とオートバイ修理技術」って本には書かれてたんですよね。
その場の空気の記録
そっか。僕が「オトナの!」って番組をやったりとか、今「AtoBtoC」ってのをやったりとか、「豊津徳」っていう山本豊津さんとのね、アートの番組をやったりとかしてるのって、『あ!そういう事だったんだ!』って事が分かったんです。
それって何かって言うと。何かを説明しないと卑怯だと思うんで一応説明すると。例えば僕がテレビ作ってましたって言うと、映像のプロですよねーとか言われるんだけど。僕ぜんぜん映像のプロな自覚がないと言うか。すっごいカッコいい映像とか作れたりしないわけですよ。…なんか、CGガチャガチャガチャーッとか。ワーッとか。ビューンッとか。…と思ってる、それって自分がテレビの中にいた時に、テレビ番組を作ってる時も思ったんですね。なんかすごいCGとか使ってすごい綺麗な映像を作れる人、すごいなーとか。
僕らなんかね、カメラ持って行って、バラエティみたいなもの…その場での喋りを撮って、それを分かりやすく編集して、分かりやすいテロップを入れてお送りするっていう事しか出来ないとすると。僕、別に全然映像のプロじゃないんだよなーなんて思ってるわけです。
で、それって何なのかなーと思った時に、バラエティ番組って例えば現場の空気を大事にするみたいな話ってよくするんだけど。それって別にバラエティ番組だけじゃないと思うんですよね。何か取材してるとか、インタビューしてる時に、その取材とかインタビューしたその時の雰囲気だから相手が答えて頂ける答えみたいなものとかがあったりして。それの空気を壊さずにどう文章化すればインタビュー記事になるのかな?みたいな事とかってあるじゃないですか。
だから文章という名文を書こうというよりも、その場のルポルタージュとしての、その場の雰囲気をどう文章化するか?みたいな事って、僕はすごい大事にしてるんだと思うんですね。その番組の動画もそうなんです。だから僕、映像作家なわけでは全然ないと言うか。つまり映像的な能力なんかすごい無いなって思った時に、それこそ金曜日にね、ケラリーノ・サンドロヴィッチさんが演出の、ケラさんが演出の「KERA・MAP」っていう舞台を下北沢の本多劇場に行って来て。そこで「しびれ雲」っていう舞台を観て来た時に。僕は舞台結構好きで、よく観てますけど。なんかあの舞台の、その場の空間で感じる感覚みたいなものていうのって、バラエティ番組の現場の感じとすごい似てるんですよね。そのリアルさというか。その生々しさというか。それを僕は番組にどう保存するか?というか。どう番組で表現するか?ってことをやってたんだなって思うんですね。「ご長寿早押しクイズ」を作ったりとか。「金スマ波乱万丈」を作ったりとか。そういう事をやってる時に。「オトナの!」って番組をやってる時とか。「あいまいナ!」って番組をやってる時とか。
僕の想いを言語化する
それって「禅とオートバイ修理技術」の本で言うと、オートバイ修理技術というものをちゃんと持つ事が禅なんだって言ってるんですよ。で、何となくオートバイの修理技術と禅的なものって違うものだと普通、人間は思ってしまうんだけど。同じ事なんだっていう。その感覚を僕は何となく思ってて、ずーっと、ずーっと。で、それをテレビの現場でも思ってたらか、なんかテレビの現場に違和感を感じテレビ局を辞め。今のネットの状況みたいなものにもちょっと違和感を感じてるんだ、みたいな話を先生に話したところ。「それめちゃくちゃ面白いですよ」と。「それを博士論文に書けばいいじゃないですか」と。
って言われた時に、「あ、なるほどな。」とちょっと思ったんですね。僕のこの想いみたいなものがちゃんと言語化されて、ちゃんと論理が…理路整然とされて、ちゃんと論文化されれば。なんか本当に…。今までメディア論で語られてこなかったメディアとかについても考察が出来るんじゃないかなって思った時に、これをちゃんと言語化しなきゃいけないんだなってことにちょっと気づいたんですね。まさに先生に導かれる方向に飛び立てばいいんだって思ったって事かもしれないです。今日のタイトルと一緒だとすると。
そうするとね、その先生と面談だから「禅とオートバイ修理技術」を読んでるわけじゃなくて。「禅とオートバイ修理技術」を読んでるのは、漫画原作者の竹熊健太郎さん、「さるまん」、僕が尊敬する、僕が大好きな、「サルでも描けるまんが教室」を相原コージさんと作った竹熊健太郎さんのTwitterに、本当に何ヶ月か前に「禅とオートバイ修理技術」って本をもってるんだけどさ、それって宗教の棚に置くか技術みたいな棚に置くか迷ってんだよねみたいなことをたまたま書いてただけだったんだけど。その時「なんだ?!その本のタイトルは!」って。僕知らなかったわと思って手に取ったんですよね。
だからその手に取った、そのTwitterを見たってのも導かれてるし。で、その本ってもう絶版だから、古本しかないんですよ。で、その古本を買って、手に取って。で、それをたまたま上巻を読み終わって。下巻読み始めてたぐらいでその先生との面談があって。その話をしたところ、それを論文に書けば?って言われた時に、ああ、そっか、僕が今こう思ってるこの想いみたいなものをやっぱり言語化しなきゃいけないんだなってちょっと思ったっていうか。で、それって論文もそうだし、今自分が書こうと思っている本にも、この想いを書けばいいんだなって思いました。
で、この想いってのは、だからまあこの想いって漠然と言っちゃってますけど。やっぱり、うん、今ある既存の自己啓発書とはちょっと違うんですよね、たぶん。だし、うーん…、その著者はね、「禅とオートバイ修理技術」でその事を書いてるんだけど。僕はその目線みたいなものをバラエティプロデューサーとして書けるのかなーなんて、ちょと思ったわけです。思ってるわけです。うん。
師匠に出会った喜び
なのでね。だから…、ああ、今コメント頂きました。「導く方向を見せられる先生、すごいな。」うん、すごいですよね。本当に言ったんですよ?その時。もう、そんなんじゃ博論書けないじゃ無いですかみたいなことを言われたから。もう書けないんですよ僕、はっきり言って僕のレベルじゃ。じゃあ、でも、何でそれでも書こうかなーと思ってるかと言うと、この歳になって、恩師というか師匠が出来たっていう喜びがあるんで。その先生と出会えたという。もう先生に出会えてしまったんだから書かなきゃなって思ってるだけです!みたいな。もう先生の愛情というか、それがあるから書こうと思ってるだけですよって、もう、言っちゃいましたね、うん。でも、それってそういう、導かれるってそういう事かななんて思ったりもするわけですよね。
だからなんか今僕がこの頭の中にあるある考えというか想いみたいなものって、このICUCではちょこちょこ喋ってるんだけど。それをちゃんとメディア論という意味では博士論文に書きたいなーと思ってるし。僕が今、来年出そうと思ってる本には、ちょっと一般書になるかも知れないけど、その事を書こうかなーと思ってますというか、思えたというか。
そうすると、やっぱりここに篭ってですね、このパソコンね、Macをカチャカチャ打ちながら、やっぱり早く文章化しなきゃいけないんだろうなと思ってます。うん、なんか、色んな事を置いといて、まずそれをやるべきなんじゃないかなと。今思い始めてるというか。
とか言いながらね。来週もね。また関西に教育で行きますし。木曜日にはまた東京に戻って来て、制作をやらなきゃいけないんですけど。…まあ、やりますけどね。でもなんかそっちじゃないんだな、今僕がやらなきゃいけない、僕が導かれてる方向はって事を思ったっていうのがこの12月ですかね。だからまだね、まだというか、あとね、3週間、4週間ぐらい今年はありますけど。その4週間のうちに僕のこの想いみたいなものを、プロトタイプでもいいから形になったらいいなと。で、それを持ってね、ちょっと来年以降の生き方みたいなものの…。それがまた出来上がると、そちらの方に導かれるのではないかなーなんて事をね、思ったりしてるっていうのが今の感じでございますかね。
はい。そんな感じでICUC知的好奇心向上委員会でございましたが。今日とかもね、本当は…東京からこっちに来てたりしてて。車の中で喋ろうかなーとも思ったんだけど。車の中で喋ってるやつって如実に数字がよく無いんですよね。だからってココで話してれば数字がいいのかって言うと、数字は良く無いんですけどね。この違いって何なんだろうなーなんて思って。ちょっと興味深いから、今日は車じゃなくてこの生配信にしてみたら、結局どうなるのかなーなんて、ちょっと思ったりして。でもって、こちらに着いて。ちょっと夕方、お酒飲んじゃったんですよね。お酒飲むと無性に眠くなっちゃって。で、眠くなって、ちょっとやる事があって。それで何とか起きて。やる事を何とかやって。で、それが一応なんとなく出来たので。今、ICUC知的好奇心向上委員会を喋ったという次第でございます。明日ね。月曜日の夜。24時。クロアチア×日本戦ですよね。本当はね、ワールドカップについても色々話したいなーとか思ってんだけど。でもそれ、その時の今の気持ちを話してても、クロアチア戦終わった後にこの気持ちを見るとね、またちょっと雰囲気も変わるなーなんて思ってるんで。まあ、その話はおいおいって事で。今日のICUC知的好奇心向上委員会は終わりにしたいと思います。みなさんもね、咳とか出ないように(笑) 年末、寒くなって来てますが、お身体を大事に。またよろしくお願い申し上げます。失礼いたします!
文字起こし後の文字寝かし
「まあ、一度きりの人生だしね。」特別な言葉というより、よく聞く言葉ではあるんだけど。父の私宛の遺言はこれになったなーと聞くたびに思うし。思えば後悔しない生き方をしているか?と疑問が湧く。もっとこうしていればと思うことはたくさんあるし、その気持ちは嘘ではないとけど、だからと言ってすぐ動けるほどの熱もない。後悔は嘘じゃないけど、あの時はそれを選択する以外になかったとか、その選択になったから今こうしていられるとか、他の気持ちも無視できないだけなんだ…と思うのは、やっぱり逃げや弱さなのか。そこを掴まれてあなたは本気じゃないと言われると心底腹が立つ以外の道を見つけたい。
メール、発表の締め切りギリギリすぎる(笑) つい登壇者不足で最後のアタックを角田さんに賭けてきたか?!と勘繰ってしまうけど。そうだとすると、逆に偶然性が際立ち過ぎてて面白い。
わざわざ行く用事が出来たり、先方から私のダブルブッキングを解消してくれたり──という事で思い出すのは、やっぱり私が初めてギャラリーに行ったこと。豊津徳を見て、どこかでギャラリーというものに入ってみたいとは思うものの、正直、作品を見なくたって、ギャラリーに入らなくたって、全く死なないし、なんの支障もない。でも試しに入れてみた「チラシミュージアム」というアプリでめちゃくちゃ気になっていたものが、開催期間と場所が予定とぴったり合致した。ICUC友達と美術館に行くからこのアプリを入れていて、行く先は発展途上人学友達が働いているところで。不思議な面白さ。
コロナで20ー21年と篭っていて──まだ収束してないけど、22年は外に出たとすると、角田さんが言っていた1000日ひと区切り的にはまだ篭ってないといけなかった期間なのかも知れないと思った。17ー18ー19年の3年間は外、20ー21ー22年は篭る。でも22年に外に出てバランスが崩れてしまったから、23年からの3年は外出とお篭りのバランスを探る3年だったりして。
教育、制作、研究、執筆、よく言えばどれに対しても真摯に向き合っているけど、悪く言えばどれも全力なのでパワー不足問題が解決しない。全体でバランスを取るのか?4当分の内側でそれぞれバランスを取るのか?篭るという行為の、言葉の意味の、拡大解釈、角田的解釈が出来て、断れる仕事を断るか紹介で送り、バランスを取り直す。
私はすでに60代くらいのパワーバランスで生きてる気がするけど(それが自信のなさや後悔の部分でもあり、苦労の先払いでもあると思ってるけど)、明日の自分は見知らぬ自分、ずっと初めての状況に対峙していくしかないんだな。
博論書けません──先生の返しがどうして「最近読んだ本でインスピレーション受けたのありますか?」なのか?もしかして角田さんが導かれている流れを最近インスピレーションを受けた本から推測しようとしたんだろうか?映画より本の方が”書かれているもの”という点で、博論を”書く”という部分に近くて参考にしやすいのか?先生は角田さんに導く方向を見せてくれるというより、角田さんの導かれている流れの増幅機的な役割を担ったのかも。
色んな事を置いといて、まずそれをやるべきなんじゃないかな──確かにそうだ。大学のシステム的なものはよくわからないけど、博士論文ってものは大学の博士課程にいる時にしか書けないんだろうし。卒業後に書けるとしても、そうなったらそれこそ仕事に追われて書けなくなってしまうし。そんな状況で中村先生にご相談できるとも思えない。やっぱり書くのは今しかないんだろうな。
禅というのは、つまりオートバイの不調に自分自身の技術で向き合い、改善できること…なのかな。向き合うとは集中するってことでもあるだろうし、技術を適切に使う能力のことでもあるだろうし。
みんなが思う”映像のプロ”は、バイクで言えばカスタムなのかも。角田さんは純正品派で、設計もパーツも純正を基に、耐久性やスピードを最大限に発揮させる修理(=制作や思考)を行えるライダー(=パフォーマー)でありたい。馬力やスピードを用途に合わせてカスタムする僕の特別な1台より、街乗り用もサーキット用もそれぞれの設計を尊重し、適した場所で走らせたい。そんな感じなのかな。
角田さんがどんなに自己啓発書を書こうとしたって、自己を啓発する方法が書かれることはないと思う。角田さんの想いがタインミングよく届いた人が、結果的に自己を啓発した、そのきっかけにしかならない。ということは、「教師というのは聴講生のうちの1人か2人の人生が変わるとか、学問のきっかけになればいいから、ほぼ全員に届いてなくても悲観しない」ことと、本を出すことは何も違わない。角田さんが学生さんが寝ちゃってることに落ち込むのは、パフォーマーの部分ってことか。
僕の想いみたいなものがちゃんと言語化されて、理路整然とされて論文化されれば、今までメディア論で語られてこなかったメディアについても考察が出来るんじゃないかなって思った時に、これをちゃんと言語化しなきゃいけないんだなってことにちょっと気づいた。──修士論文の時にも同じ事言ってた気がする。つまり疲れて自信がなくなっちゃっただけで、書けませんじゃなくて、書く気持ちがあったでしょ?というのは、中村先生は知った上で…なんだろうな。やっぱり先生業は生徒に自信をどう持たせるか?持ち直させるか?が本質なんだろうな。
来年、上手くいけば4冊か…。立て続けに出ることも考えられるから、その急な分の予算を確保しておかねば。