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ICUC#016(篭って週間#010)2020.5.31【数の論理・人はなぜ数を求めるのか?求められるのか?】
今週も元気に知的好奇心のアップデート【 ICUC 知的好奇心向上委員会】に参加したので、復習用の参加メモを作成しています。
今日の推薦図書
『日の名残り』カズオ・イシグロ:土屋政雄訳(早川書房)
動画 (ICUC内で一定基準をクリアすると一般公開されます)
#016「伝えること、書くということ/グラビィティ・ゼログラビティ問題」
映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』を映画館で観ました。最高でした!
そこに内在化するグラビィティ・ゼログラビティ問題について話しております!気ままにご覧ください。
動画の内容
・対面でないといけないのか?いけなくないのか?
・今日話したいことは数の話
・人が何か伸びようとしていることをバカにしちゃいけない
・僕は常に数は積極的に要らないと言っているのは3割負け惜しみ
・自分が生きていけるくらいの他者との関係性を構築することが生きていくためには必要
・今日の推薦図書
私のメモという名の感想
対面でないといけないのか、いけなくないのか?
6月が始まると後半戦だなと思うけど、6月までが前半戦。前半戦もあと1か月、みなさんの生活は通常に戻っているでしょうか?
知り合いに聞いた話では、自社はリモートでいいと言うのに相手が対面で営業を仕掛けてくるので、こちらも対面で営業せざるを得ないということで、出社を要求されているそう。それってある意味本質的ではなく、ある意味を本質をついている。人間の行動パターン、自分はやりたくないけど、他人がやってるからやらざるを得ない。
僕も先週久しぶりに対面のプロデューサー仕事で、今週からはミーティングもまた出てきます。出てきますなんてネガティブに言ったけど、元に戻りたいと言ってたくせに、面白い。面白いと言うと語弊が。このコロナ禍は面白くない、興味深いということ。funnyではなくinteresting。
対面でないといけないのか?いけなくないのか?
人は集まるから集まる場の環境整備という仕事が発生する。それは空調の故障なら修理だし、部屋の片づけ、資料の用意、ホワイトボードとペン、お茶…
リモートで自分に必要なものを準備するのではなく、人が集まる場は相手を気にかける。その連鎖が人が集まるということだし、その集合体が家族、会社、学校、組織で、その組織に組み込まれながらリモートで個人でいられる(相手を気にしなくていいのか?問題はさておき)気にしなくても生きていけるんだなということに気づかされる。
集まることで仕事が増えるなら減らせばいいとは言え、その仕事で生きて来てた事実もある。例えばこの会社に"これだけ人が居るから存在する仕事"も。例えば人事や総務は人が集まることで圧倒的に仕事量が変わる。
今日話したいことは数の話
数が多いことで弊害もやってくる一方、売り上げや視聴率といった数を求める。そこで「数って要るんだっけ?」ということを知ってみることが知的好奇心向上委員会としての…向上というのも数を求めてると若干言えるので、知的好奇心向上委員会というのは、向上しなくてもいいんじゃないかという、哲学的な議論になっていく。
※以下、Twitterは英語の発音、ツイッターはカタカナ発音で読んでください😁
なんで数の話をしようと思ったかというと、ツイッター。ちなみに帰国子女の人はTwitterって言いますよね。本当はTwitterですよね、tweet(呟く、鳴く)だから。日本人はツイッターと言うけど、Twitter、帰国子女じゃないのにTwitterと言ってみたけど、恥ずかしいからやめよう(照)
『 !! 』
この恥ずかしいというのも面白い!
人が何か伸びようとしていることをバカにしちゃいけない
本当のことを言うのが恥ずかしいっておかしい。僕が英語が出来なくなった理由はそういうところがある。中学校の英語の授業での音読をネイティブの発音に寄せるとお高く留まってると揶揄される。
成績がいいと揶揄られる。みんな成績がいいことを望むのに、成績がいいとちょっとイジメるというのはツイッターのクソリプなどにもつながる。誰もが成績が良いことを求めない社会において、成績がいいことが異色として、それを揶揄るなら論理的にわかるけど、誰もが求めていて、成績がいい人が居て、成績が良いと揶揄るのは嫉妬、jealousy、envyだろうけど、論理的におかしい。だったら目指さなければいい。
良い発音で英語を読むと言うことは、帰国子女的なものに対するenvyがなんとなくあり、そうするとわざとカタカナ英語で発音する。良い発音を真似ることを躊躇する自分がいた。そこからちゃんと発音しちゃいけないというブレーキがかかり、大学(東大)の英文学科などはちゃんと英語の発音で話す人たちばかりで。あの躊躇はなんだったのかな?と。
人が何か伸びようとしていることをバカにしちゃいけないと思う。例えそれが間違っていたとしても、一生懸命やっているならじきに間違いに気づくし、自分で気づかなければ解決しない。そう思うのは自分が酸いも甘いも経験したから思えるのであって、自分が20代のころは成功ばかり目指していたと思う。だから今の同級生が成功を目指していても、それはいいと思う。
他人を糾弾しない方がいいと思いながらもそういう言い回しになり、頭がいい人に限って論理的にはその指摘は正しく、正しいが故に心にグサッと刺さる。それで間違いに気づけばいいけど、刺さったところは傷になるし、完全に治らないし、永遠に傷は残る。
痛いし傷になるし残るんだけど、信頼している人から刺されたのであれば、それは刺すというより手術だ。患部を取り除き、最後に縫合するということで、人にメスを向ける場合、医者ならばいい。
とすると、医者レベルの知識や知見やスキルがあるべきだし、かつインフォームドコンセントが取れ、信頼関係があり、手術してくださいと思っていることが前提になる。それが出来ていない人にガチャガチャ言われたくないなというのは、誰もが持っている。
誰もが持っていることは薄々知っているのに、自分の鬱屈とした気持ちや正当性の表現、存在意義の認知、単純にあいつが嫌いだと言うことで、ナイフを持つと振り回したくなる(=指摘したくなる)ということが言葉の刃だと思う。
僕は常に数は積極的に要らないと言っているのは3割負け惜しみ
ツイッターの話からそういう話になっちゃった。それだけで時間の半分まで来ちゃった。数をなぜ気にしたかというと、先日ツイッターの自分のフォロワーがついに1万人を超えたから。1万人は数でいうと大した数じゃないと思いながら、1万ってなかなかな数。フォロバしてフォロワーが多いことと、自分のツイート内容への共感や知名度でフォロワーが多いことは違う。
僕は常に数は積極的に要らないと言っている。
冷静に分析すると3割くらいは負け惜しみ。その理由は数が取れる人はカリスマ、インフルエンサー、タレント、有名人ということだけど、根本的にはみんなインフルエンサー=天才になりたい。憧れてるはず。ところが天才になれないということにどこかで気づく。気づかない人もいるし、本当に天才な人もいる。
僕はテレビのプロディーサーの仕事を通して天才(文化人、アーティスト)とコミュニケーションしたことは比較的多いけど、そうするとやっぱり若干のenvyを感じ、圧倒的に及ばないんだという思いもある。とすると数は要らないというのはやはり諦念、諦めがあり、そんな人達がフォロワー100万人、オンライン5万人というのは、ピュアに言えばその人達がすごい。そのすごさに、人は憧れと嫉妬を抱くけど、そういう部分から解放されたいなというのがここ数年来の僕の思い。
解放されたときの問題点として。
天才は天才の領分で食ってる。つまり自分の名前で仕事をしているわけで、そのためには数=ファン、作ったものの支持者が要る。そこで自分には(envyや諦めを含め)天才ではないと思ったときに、天才でなく(数が取れすに)どうやって生きていくのか?その1つのパターンとしてサラリーマンがある。
自分が仕組に組み込まれ、その仕組みを動かすことで対価をもらう。でも天才たちも同じで、音楽業界という業界に組み込まれたから売れっ子アーティストは自分の音楽が売れているみたいなことはある。
自分が生きていけるくらいの他者との関係性を構築することが生きていくためには必要
22年サラリーマンやってた自分は個人として数を持ってなくても仕事になり、周りの人を助けたり助けられたり、信頼してる人、ムカつく人、上下関係もあって生きて来れた。それが良くも悪くもサラリーマンだけど、それを辞めたとなると半ば諦めていた数の論理が襲ってくる。
テレビ局にいて視聴率や売り上げなど数を要求されることに疲れて退職し、バラエティープロデューサーです、角田陽一郎ですと名乗ると、結果、テレビ局にいた時よりもダイレクトに数を要求させれてしまうのが面白い。
僕が会社を辞めるとき、仲のいい㈱コルクの佐渡島庸平さんからフォロワー1万人になってから辞めた方がいいよと聞いた。(フォロバを除き)3万人いるとそれが仕事になるから、と。それは自分の肌感覚としてもある。
当時は3~4000人くらいで、増やそうとも思ってないけど、自分が生きていけるだけの数を持たなければならん!という気持ちはあり、結論からするとそのために呟いていた。
それが良いか悪いかではなく、生きてく上で呟かなきゃ、やっていけなかった。気持ち的にではなく、フリーになって自分のイベント告知や考えなどを世に出すには、それがないとやれなかった。
そしてフォロワが1万人を超えて書いたこと。
自分が生きていけるくらいの他者との関係性を構築することが生きていくためには必要で、自分はその醸造のためにTwitterを使っている。
必要以上の影響力も関係性も持ちたくないし、その能力も気持ちも、そもそもないので、そんな適度な感じでやる。あらゆるツールをどう使うかは自分次第。それはいつの時代の、どんなツールでも。
自分はSNSがあるから生きていけてると思っているので、それを否定的にとらえていることにちょっとだけ「?」がある。
当然クソリプや罵詈雑言とうい弊害もある。本当はその罵詈雑言について今日は話そうと思ってたんだけど残り4分になっちゃったので話せないな(笑)話したいことが話せなくなるのが面白くもあるんだよな。来週話します!数について2みたいな。
どうやって自分が生きていくだけの数を担保できるのか?ということのひとつの到達点としての1万というのが自分の中であるってことです。
調べてみると2019年1月に9000フォロワを突破、年内に1万行くなと思ってたら9800くらいで2019年が終わり、年明けは9900くらいで止まり、9970くらいまで来てコロナで下がっていったのが面白い。なぜ下がったかと考えると、鬱々とした気分で鬱々としたツイートを見たくないことと、いくつかは業者のbot的なもので(エビデンスも2つほど持ってるけど)状況が作用して動きが停止したから減った。面白いのは緊急事態宣言明け、厳密にはGW明けあたりから、僕の邪推だと人も業者も活動を再開したから増えたと思う。
今日の推薦図書
今日読み始めたばっかり。1990年に買ったもので、浪人生か大学の英語の先生の紹介でカズオ・イシグロさんを知った。英語で評価されてるけど、日本人的なイングリッシュの雰囲気がちょっとだけ残ってるのがこの作品の良さになってると聞いて興味を持ち、そこから30年読んでない(笑)
冒頭に品格という言葉がでてくる。結局、品格って何なのかって話なんだけど、それってSNSや生きざまに求められてるんじゃないかなという話まで持っていきたかったんだけど、それはまた次回にしたいと思います。
私のメモ
人が集まることで何かしらの仕事が生まれる。AIに仕事が取られたかだけでなく、人々の社会生活で自然発生していた仕事もなくなるのかも。逆説的に人々の社会生活が変われば、また違う仕事も発生するはず。いつの時代のどんなツールも、使いこなすは知的好奇心。
AIの時代を人類の次元上昇と言う人もいる。多くなったものをそぎ落として昇る。複雑からシンプルな構造と表現してる人もいたけど、例えば一段高い場所へ行くのに、今まで生きるために蓄えた脂肪を捨て身軽になって上る。脂肪は減ったけど段数は増えた。良い状態での再始動。Twitterのフォロワ数も1万人辺りで一度ダイエットするのか?
生き物はすべて数から逃れられない気がする。
生きることと数は切り離せない?
生物の大前提がそもそも繁殖して個体数を増やすこと。多くなれば多様性を獲得し、多様性で絶滅を回避。多数は存続。人類はコロナウイルスの数を減らすことを目標に戦っているし、もう少ししたら数を減らす劇薬(ワクチン)ができるはず。少数は壊滅。
場にあった数、多すぎれば毒、過ぎたるは及ばざるが如し。角田さんの他の投稿にもあるけど、干潟を再生すれば干潟の生物が戻ってくる。少数になっても場があればまた増やせる。増やせる場の確保も広さという数だし、場を阻害するものの数が少なければ生き残る。
ラピュタの名台詞「土から離れては生きられないのよ」も思い出す。生き物とは数で捉えられ、土着で、不自由だ。凡人の地で天才は生きられない。だけど本質的な生き方は天才と凡人で真似し合えるのかも。
すべての人がタレント化する必要がある時代、これも角田さんの投稿から。凡人にも数の論理が襲ってくる。個人事業主でSNSの本格使用やYouTuberになる宣言も多く見かける。
頭1つ出た凡人は、褒められるか?嫉妬に刺されるか?罵詈雑言を知る「数について2」に期待!
数の論理、みんな凡人なら怖くない?
ICUCは一人一人の知的好奇心がくすぐられるようなさまざまな「ヒト・モノ・コト」を皆で持ち寄って話して聞いて調べて楽しんで自分の知的好奇心をアップデートしちゃおうって集まりです。
(by 角田さん)