つれづれ…なるままに。61。
毎日の中で、思ったことや、思い出話を書いています。
最近「虐待」という言葉を頻繁に耳にします。
「躾」という字は、身に美しいと書く、良い文字だと思っていますが、シツケと称して虐待になる。それが、悲しい結果を招いています。
叱ることは難しいです。
叱るつもりが、だんだんと「怒り」になることは、子育てをしていたときは、確かにありました。
なんでわかんないの!
と始まったら「怒り」です。
私の母は、叱る時には必ず「○さん」と私の名前を、丁寧に呼びました。
そうくると、私は「なにをしたかな?ヤバい!」となり、説教が始まります。
私は、自分の子どもに対しては
「そこに正座!」
と座らせて、説教を始めていました。
今にして思えば
区切りをつけて、自分自身を少し冷静にするために「決め言葉」を作っていたのかもしれません。
確かに、子どもの些細な失敗を、大騒ぎで怒ることもありました。
家庭内で、親子なら、なおさら止まらなくなるわけです。
相手は子どもだから、終わらせ方もわからない。とりあえず「ごめんなさい」で終わらせようとします。
それで終わればいいんですけど。
本当は、終わりなんです「ごめんなさい」でいいんです。
区切りをつけて、叱り、終わりの区切りを受け入れる。
これがわかるまで、正直シンドイ時期もありました。小さいうちは(自分も)同じ失敗は繰り返すし、そのたびに叱っていたら
大人も疲弊します。かなり体力も消耗します。叱るとか怒ることは、お互いに疲れます。
「わかったね」とか「もういいよ」とか、こちらも区切りをつける言葉を用意していなければ
いつまでも終わらないのです。
負のループを繰り返す、苦痛が待っています。
なので、
叱るときには、親も覚悟を決めて始める。そして、一呼吸を入れるため「決め言葉」を用意していなければいけないと、私は思います。
家庭内では密室で、大人と子どもなら、どちらがそのタイミングを決めるのでしょう?
やはり、大人が責任を持って、覚悟を決めて、見通しをつけて叱ることが、大切だと考えます。
行き過ぎたシツケが、虐待にならないように、大人が大人として、考えていなければならない問題でしょう。
ちなみに。
我が子たちの言う、お母さん(私)の発する言葉で1番嫌だったのは、
「みっともない」
だそうで。
そう言えば、私の母も私に対して、よく「みっともないから、やめなさい」「みっともないことしないで!」と、言っていました。
気がついていませんでしたが、親子というのは似てしまうものです。
はい。反省しました。遅いけど。
躾は、本人が外へ出て恥ずかしくないようにという、親心から厳しくなる時もあります。
でも、暴力や無視や放置は、決して子どものためにはならない。そう考えます。
暴言も、知らず知らず親が使っていると、自分の子どもが外で、学校で、暴言を使っています。
そんなとき、何か嫌なものを見た感じがします。
大人が自分を振り返る、我が身を見直す…少し冷静にになれるといいと思ってしまいます。
東京は坂が多いところです。
狭いなかを、登ったり降りたり…なんだか似てます。