全国スポーツ大会の改編;国スポについて
国スポ(国民スポーツ大会・旧「国体」)をはじめ、全国スポーツ大会の在り方について、いくつかに分けて私見を綴りたいと思います。
この記事では、2022とちぎ国体を通じて感じたこと;今後、国スポを継続する上では少なくとも規模縮小と大幅改編を望みたいということを記します。
国スポの廃止論、全国中学の規模縮小
日本社会の様々な分野;政治・教育・社会保障・雇用形態などにおいて、戦後から高度成長期の頃、すなわち1945~1970頃に形成された「昭和型」の制度設計が、行き詰まりをみせています。持続可能な状態ではなく、次のモデルが見いだせない。
スポーツ界も、同様であると感じます。
日本における「スポーツ」の立場・位置づけは、昭和の頃に比べ、意義や価値が大いに高まり、現在もポジティブな方向に変化し続けています。一方、超少子高齢化、長期的な経済停滞、気候変動による猛暑傾向、部活動地域移行など、取り巻く環境も急速に変化し続けています。
特に、スポーツ界で取り残されているもののひとつが、都道府県対抗で行われるような、各種の全国大会の在り方だと思います。国スポ、インターハイ(全国高校総体)、全中(全国中学校体育大会)など。
社会情勢にフィットしていない。昭和につくられた現行のシステムから、アップデートして良いはず。しかし「歴史と伝統」の名のもとに、未だに旧態依然とした仕組みに縛られ続けていると感じます。
今年に入り、国スポの廃止・改編論や、全中における一部競技種目の廃止などが話題となっています。
地元開催「とちぎ国体」を通じて感じたこと
2022年、栃木で国体が開催されました。従来より、開催都道府県が総合優勝することが慣例となってきましたが、今回栃木は天皇杯を獲得できませんでした。とはいえ、大会としては成功だったと思います。様々な面において、実りあるイベントであったことに異論はないところです。
私は正業;職務上の身分が県立学校教員です。規定により、職務の一環として国体に関わる場面が多々ありました(内容詳細は守秘義務に関わる点もあるため差し控えます)。そのほか、陸上競技のボランティアスタッフとして競技の運営に深く携わりました。
家族は冬・夏それぞれの国体にボランティアとして参加しました。そのほか多くの友人・知人が様々な立場で国体に関わり、彼らと感想や意見を共有しました。
それらを総じて、国体の存在に対する個人の見解を率直に述べると、もう3巡目を待たずして、廃止もしくは大幅改編すべきであろうと思います。
「時代にそぐわない」この一言に尽きます。国体は、本来期待された役割を既に果たし終えている。今の日本に求められている、スポーツ振興の流れにも適していない。
そうした状況は、冒頭に示す、昭和につくられた様々な制度設計と同様です。変わるべき時期をとうに過ぎているといえます。
「広く国民の間にスポーツを普及し国民の体力向上を図る」「地方スポーツの振興と地方文化の発展に寄与する」ということを目的とするならば、現状、ほかに適した様々な手段があるはず。
開催地に莫大な経費と重い運営負担を強いる、現行の国スポについては少なくとも大幅改編すべきです。
開催地の財政負担
栃木国体において、私にとって印象深かったことのひとつが、国スポの開催・運営に関わる、イベント業者・広告代理店・人材派遣業者等の存在です。
開催地では 40数年に一度の国スポ開催となります。全国から各競技の関係者を多数迎える国内最大のスポーツ大会であるという点、皇室との関わりを持つ点、施設整備の好機となる点など… 唯一無二のイベントです。
関わる行政職員に「開催地の前回大会」の詳細を知る者は、誰もいません。先催県からの引継ぎをもとに、業務を遂行する形となります。
国スポに関わる関係業者は、「正当な競争入札の末」開催地から受託され、毎年地方を巡業します。開催地は「先催県の前例に倣い」膨らんだ各種サービスを発注し、いわゆる業者は「言い値」で業を受けていく。その経費が莫大なものとなってしまうのは、致し方ないことかもしれません。
(2020東京五輪に関して、結果的に談合により有罪となった大手企業が、まさに2022栃木国体でも、メインで業務委託を受けていたところをみると、失望するばかりです。)
その一方で、私などを含め各競技における運営の実務に携わっている人々の多くがボランティア従事者であることは、不思議な様相だと思います。
こうしたスタイルを「2巡目」といって、従来同様に行い続けるのは、もう限界ではないでしょうか。いつまで続ける気なのか。
2024年4月に宮城県知事が国体について「廃止も一つの考え」と言及されたことは、当然のことと感じました。
穿った見方となりますが現在の国スポは、スポーツ振興、地域活性化といった大義名分を笠に着て、大企業がお金を吸い上げていく、プラットフォームの一部となっている側面があるように思えます。
国はそれを「経済の循環」などと響きの良い言葉で説明するのでしょうが、
本来のあるべきスポーツ振興の姿とは、異なるものだと思います。
開催地常勝の謎風習
国スポでは、開催地が常勝しなければならないという謎風習があることが、よく知られています。国体は1946年の戦後まもなくに始められたものですが、当時はこうした風習はありませんでした。
開催地常勝の風習は、1964年の新潟国体から始まったそうです。当時の高度成長期における社会経済発展、そして東京五輪の成功に際し巻き起こった「勝利至上主義」風潮などが相まり、新潟から始められたものが未だに続いているということです。
天皇杯・皇后杯を獲ることが開催地の命題となり、それを目標として各種取組が展開されます。国体といえば開催地優勝。開催地では、立派な施設を造り優秀選手を集めるため、多額の経費を使います。
「開催地優勝を目指すのはやめよう」という意見は、古くから開催各地で唱えられてきました。しかし2022年開催の栃木でも、何ら疑いなく天皇杯皇后杯獲得を目指すことが命題とされ、大会は進められました。
日本全体の人口が減少を続ける中、都市部に人が集中し、地方の過疎化が急速に進んでいます。都道府県対抗という構図自体、もう無理があることは誰もが気づいているはずですが、辞められません。
開催地常勝を実現するために選手強化策がとられることで、競技の活性化にはつながります。しかし本来は、国体がなくても各都道府県で、健全で円滑に、選手強化が図られるような取組があれば良いはず。「国スポがなければ強化ができない」というのは、本来、違うだろうと思います。
有識者会議の議事概要より
公益財団法人日本スポーツ協会では2024年10月11日に「第 1 回 今後の国民スポーツ大会の在り方を考える有識者会議 議事概要」を公開しています。その内容は大変興味深いものであり、私が関心を持った意見の一部を以下に抜粋します。
国スポで掲げている目的には、健康増進・体力向上、地方スポーツの推進、文化の発展、国民生活を豊かにするなどがあるが、これらすべてを網羅するには、現在直面している財政面の負担軽減や人的確保の問題は膨大する一方である
日本の全ての産業に言える話ではあるが、オーバースペックであるの
で、適切なスペックに調整していくことは必要である国スポの課題は、自治体側から人的負担、経費負担が挙げられているが、それは開催する側から見た視点であって、実は一般の国民からすればその問題自体には興味がないのではないか。大事なのは、最大の受益者は国民であるべきということである。国スポを開催することにより、我々にはどのような利益があるのかということがほとんど語られていないのは問題であり、今後はそこをきちんと理論構築する必要がある。
オリンピックに出る選手からすれば、国スポは目指すべき大会ではない。
トップアスリートに参加を促すのであれば、参加することによるメリットがないと難しい。
現在の国スポは様々な意義・役割がありつつも、いわゆる屋台骨が明確でないままに、昭和の慣習に基づき維持・継続することが目的化されている状況にあるのではないでしょうか。
結びに
日本で行き詰まりをみせる様々な社会制度設計のうち、政治や教育、社会保障などの制度設計を変えるのは、相当に難しいことでしょう。そうであれば、まずはスポーツの体制からダイナミックに変わっていくのが良いと思います。
日本スポーツ界;特に様々な全国大会の在り方が、歴史と伝統、過去慣習などにとらわれない、現在の社会情勢に適した適切な枠組みと内容に転換されることを、切に望みます。
翻って私自身も身近な場面で、時代に相応しいスポーツ文化を築くための「草の根の取組」をより積極的に進めることができるよう、努めていきたいと思います。
追記;11月23日
公益財団法人日本スポーツ協会は2024年11月20日、第2回「今後の国民スポーツ大会の在り方を考える有識者会議」を開催したとのこと。今後の行方を注目したいと思います。