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ああそうか、自分のためだった。(DAY340)

しょうもねえ、自分のちっささが身に染みるーー!

ってなことで。

こんばんは。
今夜も、ぬる~いですね。




子どもの頃のすごく嫌な思い出。


「誰かの悪口は言ってはいけません」


小学校2年生の頃、
担任のけいこ先生との約束を破り、
同じクラスのある女の子を茶化した3人がいた。

「あの3人に対して、同じことを言いましょう」

時間は10分程度と限られた時間だったものの、

先生の命令に基づいた私たち2年5組の児童37名は、
女の子を茶化した3人に対して
「茶化し返し」を行った。


「いやなことを言われたら、どんな気持ちになるか」

それを件の3人に
身をもって学ばせる目的だったと思うのだけれど、

大人の「タテマエ」というか、

見えない部分の薄汚さというか、

そういう「見てはいけないもの」を見てしまったような気持ちになった。



子どもは正直なだけに、残酷。

そんな言葉を聞いたことがある。

でも――

その「残酷さという種」を植え付けたのは、私たち大人ではないのか。

巧妙に包み込んでしまいこんだ「薄汚さ」を
子どもたちは敏感に感じ取って、それを言葉として口に載せた、
それが実際のところではないか。


それなら、子供向けの「タテマエ」を掲げるのではなく、
最初から本音で生き切ったほうが、良いんじゃないか。

C-Durの童謡だけでなく、
割り切れる分数だけでなく、
キレイに四等分された起承転結だけでなく。


そんなことを、思った。

もしくは、
「今から『タテマエ』を言いまーす」
って、宣言しちゃうとか、ね。


(わたし、ちびっこに「こっからはタテマエよ」みたいな話してるわ。しょうもねえ)




どうしてこんなことを想ったかというと、


ほんとに、自分のちっささに泣き笑いしたくなっちゃうんだけど、

わたしさ、
お客さまやご縁のある方が喜んでくれたら嬉しいなあって思うんだけど、
その源泉って、「自分」だなって気付いちゃったわけ。

誰かが喜んでくれたら自分がハッピーだから、周りに貢献する。

誰かが幸せになってくれたら自分がハッピーだから、周りに貢献する。

わたしが行ったことに気付かずに誰かがハッピーになってくれたら、もう最高じゃない?「してやったり」的な。

それを墓場までもってくの。こっそり。



もうさ、
「自我」のカタマリよ。
自己満足のカタマリ。

豚バラブロック人気レシピ1位よ。


ああそうか、自分のためだったんだ。

ほんと、しょうもねえ。


でもそんな、
しょうもない自分が憎めないんだよなあ。。。



どうしたもんかね。

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