想いをのせる場面、事実を伝える場面。伏流水は同じ(DAY380)
今日のライティングのお仕事。。。
やっちまいました。
想いをのせる原稿に「想いをのせすぎて」、
当初、予想していた2倍、、、
時間がかかってしまった。
やってしまったーー泣
だからと言って、
「想いを▲20%スマートにしました(ドヤァ)」
なんてことは絶対にしたくない。
・・・要は、
時間の見積もり、甘くね???
に、すべてが集約される。
あっはい、甘いっすーー泣
ライティングの性質によって、
時間の濃淡をつけたいところ。反省。
後に控えていたのは、
ひたっすら「事実を伝える」ジャンルの原稿。
遅れを完全に取り戻しました!
・・・とまではいかないものの、
なんとかなりそう、
ってところまで追いつきました。
はい、
ていねい且つ大胆に「びゃっ」と。
やってきます。
さまざまなライティングがある。
今回だと、このふたつ。
・想いを乗せる系(エモいヤツ)
・事実を伝える系(新聞記事のような)
書きぶりはまったく異なる。
だって、
新聞記事がエモかったら、
「・・・で。結局さあ?
来月から最低賃金って上がるの?下がるの?」
ってことになりかねない。
事実を可能な限りフラットに、書く。
・・・でも。
「事実を可能な限りフラットに、書く。」
って、決して機械的な行為じゃなくって、
その根底には
「伝えたい」
っていう「人の想い」があるんだよね。
想いを乗せる、事実を伝える
それぞれに、
「わたしは、⚫︎⚫︎を伝えたい」
っていう、おんなじ主語と述語がある、必ず。
その部分は、
どんな文章だろうと不変だ。
そして、
「伝えたい」相手に
どうやったら誤解されずに伝わる?
どうやったら
書き手と受け手の認識の相違が
最小限になる?
そういった、おもんぱかりの結晶が
いわゆるテンプレートになる。
根底に流れてる「伏流水」があるからこそ、
流れる「型」がある。
極端に言っちゃうと、
「伏流水」の水脈さえ、どっしりと太かったら、
「型」なんてどうだっていいのかもしれない。
「文章・ことば」というものは、
現実世界に文字として現れる以上、
受け手との信頼関係の上に成り立っている。
平たく言っちゃうと、
書き手と受け手の愛の共同作業ってこと。
(日記も、過去の自分という書き手と、
未来の自分という受け手の2者が存在する)
(そしてなにより、
「書き手」で在る自分の一番の受け手は自分)
「書き手」で在ることに揺らぐたびに、
受け取ってくれる
誰か(自分を含む)のことを思い出したい。