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思考の効率と情報量

「ずっと感じていた現象」に名称があったという経験はないだろうか?
私の場合は「メタ認知」や「クオリア」がそれにあたる。他にもたくさんあったと思うが出てこない。

何となく自分の中で「あーではないか、こーなんじゃないか」と考えていた理論のようなものが、すでに追求され、語られていたという、盛大な無駄足を踏んだことを知る経験だ。そして、自分と似たようなことを考えていた仲間がいたことを知る嬉しい経験でもある。

何度も使い古された手垢まみれの「なんでも検索できる(調べればわかる)時代」という表現がある。わざわざ手垢などと嫌味な言い方をする理由はある。インターネットやスマートフォンの技術の恩恵はすさまじいが、私は「すべてがインターネットに載っているわけがないだろう?嘘といえるくらいの雑な言い方しやがって」と思っているからだ。
「なんでも載っているなら、意中のあの人の今の気持ちも検索できるはずではないか?」なんて面倒くさいことを言いたくなる。

話を戻そう。
知識へ辿り着くまでに遠回りをしてしまう原因は「何を追及しているかの自覚のなさ」や「言語化が不十分であること」など理由はいくつだってある。優先度が低かったり、自分自身が曖昧さに耐えられるカテゴリのものは後回しになりがちだ。

「調べれば分かることを調べないのは非効率だ」と否定的に言われてしまうことが多い。インターネット上で「あなたが手に持ってるものはなんだ?」といった調べない人への揶揄を言う人も多い。

そう言いたくなる気持ちも分かる。
分かるが、分かるんだけれども。

様々なことを感じて考えを巡らせた時の情報量と、ただ何かを読んで理屈を理解するときの情報量にはかなりの差があるはずだ。資本主義社会に浸りすぎて、効率ばかりを求めるものではない、と思う私もいる。「仕事に関することや、他人に迷惑をかけるようなこと」は調べるべき、と効率を優先すべき範囲を考えることもできるだろうが、そんな線引きは複雑で曖昧過ぎてすぐに破綻してしまいそうだ。

何が言いたいのか分からなくなってきた。
今日も私の言葉は不自由だ。


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