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失くしたもの

 これまで生きてきた中で、なくしたものがたくさんある。情熱、健康、若さ。他にもいろいろあるのだろうが、そんなものはどうでも良いのである。いや、どうでも良いというのは語弊があるかもしれない。もちろんその全て、あったほうが良いに決まっているのだが、年齢を重ねるごとに諦念に似た感情もふつふつ、と湧いてきて次第に脳が諦めて行く次第。大切なものはなくして初めて気づくとよく言うけれど、できればなくす前に気づきたいのです。そもそもなくしたことに脳が気づかなければ、なくしたという事実も存在しないじゃないですか。脳が「お前、なくしているぞ」と私に語りかけてきて、初めて自覚する。そしてショックを受ける。そんな悲しいシステムってない。

 そんなわけで私は自転車の鍵を失くしたのでした。これは非常にショックです。三年ぶり三回目、のような気がする。家の鍵を含めると五回ほど失くしている。失くさないための対策で、玄関脇に鍵を置く場所を作っているにも関わらず失くしているのだから酷い。これは弁解なのですが、人って習慣化してくると失くしたり忘れたりすること増えませんか? 毎日やっているから今日もやっているだろうセーフ、という理論。毎日その場所に置いているから今日も置いてあるに違いない。毎日薬飲んでいるから今日も忘れているわけがない。そんな理論を作っているお前、脳。君は「あれ、もしかして失くした(忘れた)んじゃないの?やばくね?」と言うだけ言って、重要なことをしないよね。ずるいよ。私は思い出して欲しい。私の直前の行動を。君が思い出すだけで私はハッピーになれる。だって冷静になって考えて欲しい。一昨日自転車に乗って外出して、家に帰ってきました。昨日は自転車を使っていません。それならば鍵は家にあるのではないか?いつもの置き場所にあるのでないか?なぜないのですか。私は悲しい。そしてセーフ理論のせいで、自転車から降りて鍵をちゃんと外したのかどうかも怪しい。いつも外しているからセーフ。そんなわけないんだなこれが。なんでセーフにしちゃっているのさ、脳。そして極めつけは新しく自転車を買ってしまったり、鍵を壊してしまったりした後で「あ、思い出しました!ここですよ!ここに置きました、はっきり憶えてます!」と言ってくること。そうなったらもう思い出さないほうが私のためになるのです、脳。そしていつか鍵を失くしたことさえ忘れていくのだ。今のところ、鍵は見つかっていない。脳も思い出していない。


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乃木ひかり
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